CM2S書評
2016
その1

永山則夫「無知の涙」(角川文庫)

ちょっと前と同じことを書くが、連続射殺犯にして日本の獄中作家の草分けであり「永山基準」の生みの親の「自称大学者」が暇に任せて垂れ流したノートをまとめたもの。

こんなものがベストセラーになったというのだから、それどころか賞賛されたというのだから、全く何とも狂った時代だったと言うより他はない。

いくつか引用すれば分かる「私はあくまでこの事件をやってよかった、と思っている」「私は「この事件をやってよかった」と公言したが、以降悔恨はすまい」「私の行為は必然のものだったのだ」「必要だったのです!(中略)そう想って諦めてください」「悪いとは思ってないぜ」こんなことをしゃあしゃあと言っておいて自分は「私なりの幸福感を満喫している」

そして挙句の果てには「有難う、四人の方々」

遺族のうちにはこの駄書やしょうもない小説の印税による「見舞金」の受け取りを拒否した方もあったらしいが、当然だ。それどころか、「支援者」はこんなものを遺族に読ませようとしたらしい。ここまで来ると反省どころか、犯罪の上塗りじゃないのか?

ともかく自分がしでかしたことに対する認識が甘すぎる。こんなものに感動できる人間は、断言してよかろう、人間としての感受性がどこか狂っているのだ。

人間とは人生とはどういうものであるのか永山は全く分かっていないのだ。そしてそれを誤魔化すために、社会が悪い!貧困が悪い!そのせいでオレはこんなことをしたのだからオレ自身は悪くない!と粗雑な理屈をごねるのである。

もちろんその「理屈」も破綻しまくっている。永山の真の悲劇は正当に批判されなかったことだ。永山は自分が大学者になったような誇大妄想を抱いたまま死んだらしいが、思想としては全くお話にもならない。ある意味では永山は昨今の「ゆとり」馬鹿の元祖と言えるかもしれない。こんな程度でマルクス主義を理解したとか、ちゃんちゃらおかしい。完膚なきまでに論破されて絶望の底で死ねばよかったのである、こんな輩など。

別のページで永山の小説についても全く感心しない旨を書いたが、このしょうもない「お勉強」の「成果」に添えられるように、詩のようなものも多数載せられているが、これは「思想論」以上に下らない。全く見るべきものはない。確かに詩、思想、小説の中では小説が一番ましである。

解説を書いているのは井上光晴だが、例によって永山の「業績」に感動しているだけで、人間としての底の浅さを露呈している。


これも繰り返しになるが犯罪被害者の立場に立った見方がおよそ欠如していることにはやはり空恐ろしさを感じる。何とも恐ろしい時代もあったものだなと呆れるしかない。(下の下)


サンデル『これからの「正義」の話をしよう』(ハヤカワ文庫)

ちょっと話題になったサンデル教授の割と有名な書物だが、どうでもいいが、こんな所から出ていたとは意外だった。

評者も、偶然サンデル教授の公開講義の映像を見て以来すっかり教授のファンだが、「あの調子」で分かりやすくかつ明快な論理で鮮やかに道徳哲学が問われていくのが何とも気持ちがいい。評者も(別に何とまた誰と比べるわけではないが)「あぁ、こんな教授がいてくれたらなぁ…」と何度も思わされたものだが、この書を読んでいても同じことを何度も思った。

内容的にも割と分かりやすく、正義を論じていく上で、そして道徳上の色々な問題を解決してく上で、まず功利主義次いで自由主義を検証して問題点を論じ、いわゆる「徳倫理学」の方向へ向かおうとする、という構成になっている。まぁ方向性としては何の意外性もないので多少陳腐に感じないでもないのと、サンデル教授独自の思想を語るというよりは従来の思想傾向を検証する方に重きが置かれているのでその辺が不満に思えなくもないのとが、欠点と言えば言えるが、もちろん大したことはない。

少々不謹慎なことを言えば、倫理学・道徳哲学はどちらかと言えば極端な見解というか、はっきり言って過激思想の方が読んでいて面白いものなのだが(評者が大学で勉強していた頃は例えばヘア教授の道徳哲学なんてのは、ものすごく健全なのだが、読んでいて面白くないというか、ともかく「ワクワク」するものはなかった)、「健全な」道徳哲学もこんな水準に至れるのだと驚かせてもらえる(逆に言えば当の「白熱教室」とかも妙に一般受けさせて「売ろう」という魂胆が見え透いてそこはあまり感心しなかったのではあるが…)


知的興奮を与えてもらえるという点では一流の仕事と言えよう。これに比べたら…まぁそういう野暮な話はよしておきましょうか…インチキ文化人のクズ本は捨ててこういうものを読むべきだ(上の中)


ジョンストン『紫禁城の黄昏』(岩波文庫)

御存知「ラスト・エンペラー」宣統帝溥儀が紫禁城を追い出される前後を、溥儀の教師となった著者の視点から描いたもの。全訳ではないが一般人が読んで楽しむ分には別にこれで十分だと思う。

一読して分かるポイントは、まず清朝の宮廷ということである程度は予想される「しきたり」というか、皇帝にすらどうにもできないガチガチの「仕組み」だが、全く我々の予想をはるかに超えるアホらしさに呆れるというか何というか、とにかく唖然とせざるを得ない。もう一つは、溥儀の意外な「まともさ」で、まぁ清朝皇帝とはいえ所詮は人間なのだから、当然と言えば当然なのだが、とにかく意外だ。件の「ラスト・エンペラー」や他の類似映画では割と悲劇のダメ人間風に描写されることが多いが、案外普通というか、もっと言えば結構「できる」人間だったらしく、その辺はちょっと新鮮な感じを味わわせてもらえる。

逆に言えば、ジョンストンが溥儀を過度に美化している可能性も感じないではなかったが、それを検証するのは歴史家の仕事であって、我々はとりあえずは楽しんでおけばいい。それだけの内容は十分に与えてもらえる。

これも予想通りだが、宮廷に巣食う宦官や西大后の愚劣さはえも言われないほど不愉快だし、民国政府の対宮廷政策の支離滅裂さにも呆れる。全く何が中国だかとやっぱり思わずにはいられない。


冷静になると色々不愉快だが読み物としては面白い(上の下)


岡本太郎『今日の芸術』(知恵の森文庫(1999(<1954)))

著者は御存知「芸術はバクハツだ!」でおなじみの岡本大先生で、実は親譲りの名文家としても知られる(確かに高校生時代の現国の参考書には岡本先生のエッセイが載っていて面白く読んだ覚えがある)通り、なかなかに読み応えのある芸術論が展開されている。

もちろん、それは岡本先生の芸術観に基づいている上に、敢えて過激な言い方や極端な立場を採用している節もあるので、評者も必ずしも全面的に賛成できるわけではないし、それどころか明白に間違いだと言いたくなる内容もある。特に伝統的な芸術に対する敵意のようなものが必要以上に前面に出されているのは、あまり感心しない(注意深く読めば岡本先生も伝統芸術には深い敬意を持っていて、それも実は一般人には着いていけないレベルだったりする、ということも分かるのではあるが)。

しかし、岡本先生の一貫した骨太な姿勢はそんな「瑕」を補って余りあり、この書物を優れた芸術論に仕上げている。それどころか、余りに徹底し一貫しているので、結果としてこの書物は単なる芸術論を超えて、優れた美学や文化論、いやもっと哲学に関する論考にすらなっている。

確か、岡本先生は「バクハツだ!」でタレント的な知名度を得た後に、そのキャラをもっと押し出した人生論的な新書も出していたはずだが、それはどうにも「岡本太郎を演じている」雰囲気が強くて感心しなかった覚えがある。しかし、この文庫本は本職の絵画に基盤を置いているせいか、もっと地に足の着いたどっしりとした思想に支えられていて、はるかに説得力がある。要するに、面白くてためになる上に、刺激的である。

後輩芸術家二人が前書きと後書きを担当しているが、悪くはないものの、格の違いを露呈してしまっていて、何とも気の毒になる。


名著だ!中高生の読書感想文の課題図書にするべきだ!(上の上)


杉山隆男『兵士に聞け』(新潮文庫(1995(<1992)))

自衛隊の実態を内部から描こうとした大作。レンジャー部隊・護衛艦・辺境のレーダー基地・カンボジア派遣部隊をそれぞれ扱った四部からなる。

どの部も面白いが、後半の二部が特に面白い。全体に、「自衛隊は軍隊のようで軍隊でない」という笑いたくても笑えない事実に強いられる悲劇と苦悩を抉ろうとという著者の態度が貫かれており、何とも複雑な気分にさせられる。この「危うい」立場がもたらすとも言える「歪み」やそれが隊員に及ぼす影響、そして「周辺」に巣食う有象無象の衆の時に愚劣な実態、とどめに自衛隊の功罪を碌々反省もせずにやみくもに反対しかしない「左寄り」の「赤い」連中のどうしようもない下劣さ、そういったことがこれでもかと描かれている。特に、北海道の離島のレーダー基地の「寄生虫」と化している地元社会の愚劣さには、田舎在住者として身につまされるものがある。それに、自衛隊員もやはり人間なので、その中には愚劣な連中もあるという点も明け透けに描かれており、「まぁそうだろうな」と思いつつも、何とも言えない嫌な気分にさせてくださる。

何度かの大災害を経た今、頭のどうかしている(そりゃ永山則夫なんてのを英雄視する連中だから)左翼連中はともかく、平均的な日本人一般人は自衛隊を有難がりこそすれ、やみくもに非難などしないと思うが、やはり自衛隊というのは有難いものだ、と実感させてもらえる内容も多い。ただ、こういう「仕事する」隊員と、多分本当に「仕事する」ことなど半永久的にない隊員(要するに「実戦」要員)の温度差も深く描かれていて、やはり何とも言えない読後感にさせられる。「実戦」にあこがれる隊員がカンボジアに派遣されて、そんな気持ちをなくしてしまった上に、帰国後に派遣されなかった隊員との温度差に悩む、とか、つくづく「フィクションはノンフィクションに負けている」と実感させられる。

ちょっと面白いのは、原著者も解説も三島由紀夫にちょっと触れていることで、一体三島は自衛隊を正しくとらえられていたのかと考えると、また、三島と隊員との温度差はどこから来たのか、と考えると、こっちもなかなか複雑な気分になる。


と、なかなか複雑な読後感を残して下さるが、面白い。辞書並の分量に付き合う価値はある。(上の上)


佐木隆三『死刑囚 永山則夫』(講談社文庫(1997(<1994)))

御存知、連続射殺魔にして和製獄中作家の草分けにして「永山基準」の基となった(そして、死刑になったであろう犯罪者を助けてきた)永山則夫の犯行から死刑確定までを、資料を駆使して丁寧に辿った、それ自体としてはなかなかの労作。ノンフィクションとしてはよくできていると思う。資料が「垂れ流」されると少々流れが悪くなって快適に読めないが、読みごたえはある。(その反面、単純に日本語として意味がとれない文章が時々あるのは、首をひねらされる… 意味が分からない評者が悪いんだろうか?と何度か考え込まされた)

ただ、永山自身には怒りを覚える。著者の筆致は「資料をして事実を語らしめる」タイプなので、初めは比較的人間らしく悔恨と反省を訴えていた永山が、弁護士や左翼関係者との接触をした時期を境に急激に誇大妄想的になって独善的な思想を語り出し、獄中婚を期にやや「戻る」ものの、すぐさらに酷い状態に陥る様がありありと窺える。こんな犯罪者が半ば英雄視されているのは、はっきり言ってどうかしている。

この書を読んで空恐ろしくなるのは、被害者の立場に立った見方がおよそ稀薄だということで、四人の犠牲者はまさに「殺られ損」なのか、あるいはもっと永山という「天才」を誕生させるために必要だった取るに足りない犠牲、いや支援者や永山寄りの人間にとっては文学者・思想家永山則夫誕生にあたっての功労者ですらあるんじゃないか、そんな下司の勘繰りさえ湧いてくる。21世紀になった今は大分状況が異なっていると思うが、当時はこんな殺人者が暇に任せて多少勉強した程度で絶賛された時代だったんだなと、嫌味の一つも言いたくなる。

永山はもっと生きて勉強したい書きたいと思っていたらしいが、彼が殺した四人はそんなことが永久に不可能にされたのである。あったはずの人生を無にしたわけである。それが、多少文学的な価値のある作品を書いたからといって何だというのか? 小賢しい勉強をしたからといって何だというのか? せめて永山がそれこそ資本論や純粋理性批判級の思索や、ホメロス・ダンテ・源氏物語級の文学作品をものしたというのであれば多少はそんな見方も可能かもしれない(評者はそれでもそうは思わないが)。しかし永山の小説がそれほどのものだろうか(これはこのサイトの小説批評コーナーでいずれ検証しようと思う)? 思索に至ってはお笑いもいいところだ。こんな人間がいまだに持ち上げられているのは、はっきり言おう、病的だ。(その点、永山の立場を甘やかし切った秋山駿の解説は永山の思想以上に下らない)

もう一つ頭に来るのは、この書を信用する限りは、弁護士と左翼関係者が永山を「こんな」にしたと言わざるを得ないことだ。いまだに永山を英雄視する連中が少なくないらしいことは嘆かわしい限りだが(何でも「冤罪説」まであるらしい)。敢えて言おう、こういう連中は生命軽視の「人でなし」だ。こんな連中が「死刑廃止」だの「戦争反対」だの言っても全く説得力はない。永山則夫というのはこういう浅薄な思想の象徴と言ってもよかろう。

いわゆる酒鬼薔薇はどうかわからないが(弁護士や「支援者」経由の「入知恵」はあったかもしれない)、光市母子殺害事件の犯人には、永山は確実に悪影響を与えている。また、他の殺人犯が獄中で著作したものが出版されるという状況はなくなるどころかますます盛んになっている。かつて「日本はスパイ天国だ」と言われていたものだが、これじゃ「犯罪者天国」じゃないのか?


最近では最も激しい怒りを評者に引き起こして下さった書物で、正直ムカついている。評者はずっと「こんな」現実と対決していかねばならないと思う(ただし永山の思想については「トンデモ」的な扱い以上をする必要はない。哲学・思索というのはそんな甘いものではない)。ただし、繰り返すが、ノンフィクションとしてはよくできている。(上の下)


「少年A」の父母『「少年A」この子を生んで……』(文春文庫(2001(<1999))

どうでもいいが括弧多すぎて打ちづらい…

というわけで「どこかにあったなぁ…」というこの書を「掘り出して」読んでみた。タイトル通り「A」の父母が「あの事件」について書き綴ったものである。

この書物、巷では「あんな凶悪犯を育てながら反省も何もしてない無能な親が自己弁護してるだけのクソ本」みたいに散々な貶され方をしているらしい。もちろん評者も父母の何というか、よく言えば素朴さ、悪く言えば犯罪的な鈍感さ、に呆れはするし、その点はそういう意見に同感だが、同時に、世の普通の親というのは良くも悪くも「こんなもの」じゃないかなぁ?という気もした。ただもちろん、ほとんど全ての子供は「A」のようなことをしないというだけのことだ、という側面もまたあるのかもしれない。もちろん、Aの父母に同情する気持ちは毛頭ないが。

「A」がなぜ「こう」なったか、そのことに興味があったのがこの書を読んでみたきっかけだが、それは、この書を読んでみても、やっぱり分からない… 読みたくもないが「A」が自分で書いた(らしい)手記でも読めば何か分かるんだろうか… そこまではしたくもないが…

もう一つの大きい謎が、どうして土師淳君を殺そうと思ったかという点で、というのも、この書を読む限り、A一家と土師淳君はとても仲が良かったらしいからだ(淳君のお父さんが書かれた本にはちょっと違うことが書かれているらしいが…)。「A」の言う「儀式」とやらの絡みだとしたら…何とも吐き気のする話だな…

淳君が殺害された後、淳君の御家族とAの家族(もちろんA以外の)が一緒に淳君を探しに行く様子が書かれているが、ちょっと泣ける。


父母のバカさ加減は置いておいて、これはこれである意味では面白い書物かもしれない(下の上)


朝日新聞大阪社会部『暗い森 神戸連続児童殺傷事件』(朝日文庫(2000(<1998)))

「元少年A」(一応伏せておく)は最近(2016年2月現在)も何やら巷に話題を提供してくれたりもしているが、評者がこの書物を開いてみたのは単なる偶然に過ぎない。

新聞社らしく、当時の状況を比較的客観的に辿ったもので、あの頃何が起こっていたのかを思い出すのに大いに助けになる。

一言で言えば、つくづく異常な事件だった、ということになるのだろう。いまだかつてなかった種類の事件に翻弄される周囲社会の様子が上手く描かれていると思う。当時評者は東京に住んでいたが、何とも異様な出来事だったのを今でもはっきりと思い出せる。

ただアタフタする連中は別にどうでもいいが、一つ怒りを覚えたのは、「A」が当時通っていた学校の教頭の愚劣さで、「あぁ…やっぱり学校、教師は、こういうものなんだ…」と改めて絶望感に駆られてしまった…。

もう一つ強く印象に残ったのはやはり「A」の異常さで、どうしてこんな人間ができてしまったんだろう?とどうにもモヤモヤさせられた… 要するに特別に異常な環境でも(何でも彼には弟がいるらしく、彼等はごくまともなようだ)特別異常な体験等をしたわけでもないのに、どうして?とどうにも腑に落ちない…(そしてその気持ちが別の書物を手に取るきっかけともなったのだが…)

それにしても土師淳君と山下彩花さんの冥福を祈らずにはいられないな…


気は滅入るが、あの事件の記録としてはなかなかよくできている(上の中)


寺尾善雄『宦官物語』(河出文庫(1989(org.1985)))

タイトル通り、日に影に中国史を良くも悪くも(まぁほとんど碌なことをしてこなかったわけだが…)彩ってきたこの奇妙な連中のことをザッとさらったいわば「宦官入門」(こう言うと妙な語弊があって何とも言えないが…)。もっとあっていいようなものだがこのような書物が意外とないことに今更驚く。

一応「いいことをした」宦官も、紙の「発明」(「」付きの意味は書内で語られる)で知られる蔡倫を始めいくらかは挙げられているものの、予想通りというか期待通りというか、まぁ碌なものでなかったということが彼等の生活の実態と共にこれでもかと綴られていて、何と言うか気が滅入る。

宦官は日本以外のほぼすべての文明国に存在したらしいのだが、もちろん中国で最も発展というか増長したということを考えると…改めてこの中国という国のどうしようもなさというか厄介さというかが分かるような気がする。逆に言えば、なぜこんな妙な制度が中国でこんなに発展したのかという疑問もわいてくるが、残念ながらその点はこの書からはよく分からない(もちろん、なぜ他の文明国では中国ほど発展しなかったのか、また日本に根付かなかったのは何故か、という点も特に論じてはくれない)。

下世話な好奇心からすると、どうしても宦官に「なる」過程が気になってしまうもので、その点も割と詳しく説明されているが、成功率ほぼ100%だったというのは驚く(業者に頼まず自前でやってしまう「自宮」はこの限りではないだろうが)。また意外と子孫がいたという事実にも驚く。

一つイラッときた点は、証言や談話の引用でぞんざいに「私」という一人称をそのまま用い(つまり証言者のこと)、にもかかわらず大抵地の文と引用との区別を明確にしていない(どういうわけか「」は大体付けられていない。時々付いているのが、よく分からない…)ので誰のことかしばしば考えねばならず快適に読めない。たしかにこの書は学術書ではないが、それにしても、よくもこんな初歩の初歩をぞんざいにする人がこんな本を出せるものだ(誰か指摘しなかったのか?)。(例えばこんな感じだ。「この種のモダンダンスについては第一人者の小林氏に詳しい話を伺ったことがある。私は20年来モダンダンスの振付師をしてきましたがその経験から私なりの見解を述べると〜…」この「私」はもちろん著者ではなく「小林氏」)


気は滅入るがためにはなるし面白い(中の上)


鵜飼秀徳『寺院消滅』(日経BP社(2015))

古い本ばっかり取り上げるこんな妙ちきりんな書評サイトを一体どのくらいの方が見て下さっているのか分からないが、珍しい新刊本である。

タイトルの通りまさに寺が消滅する、あるいは極度に形骸化する地域のルポが一つ、主に都会における新しい寺院の試みを追ったのが二つ目、実際に寺院が消滅させられた時代とその後の地域を取材したのが三つの三章構成だが、もちろん一番面白いのは最初の章だ。

評者は町内どころか近所にいくつも立派な寺院がある地域に生まれ今も生活しているので「こんな風になる地域もあるんだ…」と、第一章に出てくる地域とそこの寺院の様子には正直ショックを受けた。逆に言えば評者の地域はどれだけ寺院を大事にしているのかと今更思った(それでも評者の小さい頃から見れば大分さびれているように思えるが…)。

それとは裏腹に全編通して気になったのは、どことなく仏教及び仏教界を擁護しているように聞こえてしょうがない筆致で、筆者略歴を見てなるほどと思ったが、現役僧侶が書いているということだった。

評者は仏教どころか宗教全般に批判的な立場をとっているのでどうしても対立的な読み方になってしまうが、一見反省しているようで実は全然してないじゃないかという感覚がどうにもぬぐえない。寺院が消滅してしまう!それは現状だとしても、そこから筆者が導きたいことがどうやら反省と改善ではないらしい気がして何とも白々しい読後感しか得られないのだ。

確かに、仏教界特に僧侶が社会や人々の求めるものを提供してきたのか、宗教・宗教家としての役割を果たしてきたのか、そういう疑問が表明されている箇所はある。しかしそこからまるで「みなさん!寺が無くなってもいいんですか!心の問題とか安らぎとかそういうものはどうなるんですか!」と脅迫めいたことを言いたげになってくると「やっぱりそうか!」という気しかしない。何のことはない、あなた方は「宗教屋」としての既得権を手放したくないだけなのだ、と。

タイで死にゆくエイズ患者の手を握れず、しかもそれをタイの僧侶に仕方ないとなだめられて恥をかいた現役僧侶のエピソードとか(こんな経験をしてもなお僧侶をしていられる神経が評者は分からない。こんな僧侶は宗教評論家と名乗るべきだ)、「葬儀を葬儀屋から取り戻す!」とかどっかの政治家みたいな発言をする「現場」の方々が紹介されているのも、「ああ、やっぱりこの程度なんだ」という感覚を強化してくれる。

要するに、危機感や絶望が全然足りないんじゃないのか?と言わざるを得ない。これは評者の暴論だが、仏教など全部一旦滅びるべきで、僧侶など一回全員失業すればいいのだ。そうでもしないと反省しないのだこういう方々は。「僧侶」のクセに。

最後に、ちと頭に来たのでさらに激しい筆致になるのを許していただきたいが、インタビューされている玄侑宗久の呑気さと危機感のまるでなさは、呆れるのを通り越して腹が立つ、いや、憤りを覚えるほどだ。芥川賞作家という肩書を得て「文化人」の資格を得、ならば言いたいことを言う権利や資格があるだろうと思っているのか何か知らないが、普段から「仏教のおかげで私は人生がこんなに楽です」「葬式仏教でいいじゃないか」と寝ぼけたことを言っているお方らしく、寺や仏教はむしろ変わる必要はないと堂々と主張して「(笑)」とか付けている。ならばこのまま変わらずに滅びろとしか言いようがない。評者は訳あって仏教が大嫌いだが、ますます嫌いになった。もはや評者にとって仏教は侮蔑の対象だ。


バイアスは気になるが問題提起としては悪くない書物だろう(中の下)


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