CM2S書評
その25

ええ…毎度おなじみ「言い訳」を一つ…

こんな妙な「書評」を読んでいる方がどのくらいいるものかは例によって把握してないしそのつもりもないけれども…諸般の事情でタイトルを再び通番にすることにした…特に詳しく理由を御説明する必要はないものと思う…

西寺郷太「マイケル・ジャクソン」(講談社現代新書(2010))

御存知「マイコー」さんをワンワードタイトルにした新書

最近妙にごちゃごちゃしたタイトルの新書が目につく、というかはっきり言って目障りですらあるが、やはり新書のタイトルはワンワードにかぎる!

こんな感じで今後「ビートルズ」だの「クイーン」だの出てくれれば良いと思う、し放っておいてもきっとそうなるであろう

さて、この「マイコー本」であるが… 「マイコー入門」というよりは彼の苦悩、もっと言えばスキャンダル面にどちらかと言えば焦点が合っていて、もちろんそういう事柄も知りたくはあるが、やや残念に思う

とはいえ、初めから相当彼に詳しい人というのでなければ、この書物を読んだだけでも「!」という事実を山のように知れて、その点では楽しく勉強になるので十分お勧めできるものではある

いわゆる「マイコー買い」の真実、「マイコーさんのデモテープは口三味線でできている」という伝説等々についても触れられており「なるほど!」と思わされる


とんでもない才能とは裏腹の悲劇的な生涯を送る羽目になったかわいそうな人…って評者の印象は、この書物を読んでも変わらないどころかますますそう思うようになった… つくづく惜しい人を…である… どうでもいいがカバーを外すと真っ赤になるのが、意図的なものか偶然なのかは分からないが、なんともマイコーさんらしいと思ってしまった…(上の中)


立花隆「田中角栄研究 全記録」(講談社文庫(1982(<1976)))

不景気になるとふしだらに持ち上げられるものに織田信長・坂本龍馬などが挙げられると思うが、田中角栄もそこに入るらしい(もしかしたらニーチェや我等がストア派もそこに入れられているのかもしれない!(嗚呼!!))…

という具合にどうやら「田中角栄待望論」もあろうことかいまだに根強いものである、ということらしいのだが…

いまさらそのようなことをいう人々に強制的に読ませたい書物である。

いやもちろん立花の言うことが全て正しいというわけではない(が、「待望論」よりも説得力があるのは確かだと思う)… これを読んでもなお「待望論」を唱えたい・唱えうると思うのであれば、それは御自由に…という意味である

前半は田中の「金脈」の「からくり」がこれでもかと追及される…

これだけでも愚劣さに十分辟易させられるが、ロッキード事件絡みの内容(分量的に多すぎるきらいがある…)を挟んで田中の政治家としての資質に疑念を呈する段になると、こんな人間が首相を張り、一国の未来が託されていたのかと思うと、そしてその負の遺産が21世紀になった今でも十分払拭されているとは言い難い(だから待望論なんぞが絶えないのだ)現実を見ると、何とも言えない絶望感に駆られる…

後に自分自身も田中角栄とはまた違う形で「反知性主義」的な方向に走り、批判本まで出されてしまう著者立花であるが(そのいくつかはここでも取り上げたことがあるはず)、この時点では努めて実証的で、なるほど元々ジャーナリストなのだなと思わされる(文章の端々に妙な高揚感が散見されるのが何か気にはなるが…)


しかしもちろん我々は「ここ」から「始め」ねばならないのだ… つまり、このような現状を認識した上で「では政治とはどうあるべきか」と問い、追及し、田中のような輩が食い物にした安直な反知性主義と今からでも対決し克服していかねばならない、はずである…(が…もはや絶望的なのかもしれない…まずその絶望や倦怠と対峙し耐えきらねばならない…のであろうから…)(上の下)


筒井康隆「みだれ撃ち涜書ノート」(集英社文庫(1982))

(なおタイトルの「涜」は旧字体;どうやら正常に表示されないらしい…)

御存知筒井康隆による書評集

なのだが… 取り上げる書物も、書評そのものも、とても面白い! 評者のような哲学科出身で作家を一時期目指したものの挫折した人間にとってもとても勉強になる面が多い… 「これは是非この書物そのものを読んでみたい」と思った作品がいくつもあるので、純粋に書評としても優れていると言ってよかろう。やはり頭のいい人なのだろうな…という気はする…

余談になるが… 評者はSFが好きで、一時期このサイトにも「哲学的見地から見たSF作品評」的なコーナーがあったくらいなのだが(某サブカル系大学教授に叩かれて嫌になり、やめた… 正直いまだに根に持っている…)… なぜか、国産SFとは相性が悪い… 星新一もそうだが…筒井康隆も… いまだに何か苦手である…(小松左京は幸か不幸かちゃんと読んだことがない…) その「苦手感」はちょっと薄れた、のかもしれない…

ただ… 特にこの書物でも前半において明らかに「ふざけた」箇所が散見されて、それは全く感心しない(「ハナモゲラ語」みたいなものを垂れ流している所もあるが、筒井自身が本気でこれを面白いと思っているとすれば何とも「寒い」感覚だとしか言いようがない…)… こういう所が筒井康隆の苦手な所なんだよな…とやっぱり思わされたのも事実である…


とはいえ…書評としてはとても優れている…(上の中)


藤原智美「暴走老人!」(文芸春秋(2007))

この書物のタイトルがそのまま新語として市民権を得てしまったその元となったものである

が…正直ガッカリである…

この著者の子供の絵に関する著作(「なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか」)を読んだことがあって、確かここで評したこともあるはずで、それはかなり面白く読んだ記憶があるのだが(そして、ついでに言うと、と学会の山本弘がその書物を例によってコケにして笑いものにしており、それは感心しなかった)、大分間が開いているので何とも言えないが、そちらに比べるとかなり劣る

まず肝心の「暴走老人」の実例が意外と少ない。もっと沢山実例が紹介されているものなのかと期待して裏切られたという読者は少なくないようで、評者もその一人である。別に網羅などする必要はないが、自分に目に付いたものだけ取り上げてよしとしてしまったようである

そして、残りは何が書かれているかというと著者の「感想」である。そしてこれが見事につまらない。どうやら著者は「暴走老人」に半ば同情的なのらしく、どうも「社会が彼等を産んだ」ということで片付けたいらしい

さらに、ではどうすればいいのか?、ということは全く語られない

要するに全く食い足りない。著者の自己満足にすぎないと片付けられてもしょうがない

例えば、途中で、トラブルで飛行機が飛べなくなってしまい乗客全員足止めを食らった中、「偉い人」は即座に別の移動手段を用意された、というエピソードが紹介されており、それ自体はちょっと面白いのだけれど(もちろん事態そのものは腹立たしいものだが)、「暴走老人」とは直接関係がない。そして終始こんな感じで、「もっと「暴走老人」のことを書きなさいよ」と例えば大学の指導教官なら苦言を呈するだろう…


一言、期待外れ(中の下)


上祐史浩・有田芳生「オウム事件17年目の告白」(扶桑社(2012))

「オウム本」が並んでしまったのは単に評者の趣味と、たまたま図書館で近くにあったからに過ぎない…

著者は御存じあの「ああ言えば上祐」である…

一読して分かる…やはりこの方は頭のいい方なのだと…

ただ…元々「スピリチュアル系」な方ではあるらしい…のと…麻原にはこのような方でも「騙す」ことのできる何らかの「能力」もあったのだ…ということらしい…

一言で言えば…「どうしてこんなことになったのか?」とやはり言わざるを得ない…

上祐氏の苦悩と受刑・釈放後の誠実な姿勢(もちろん自分で書いているので当然と言えば当然だが開き直りや露悪的な要素はない)には考えさせられるものがあると共に、この「危うさ」が付け込まれた所なのかもしれないとも思わされる

(「これを「いい方」に生かせれば」と考えたくなるのはやまやまだが…評者はむしろ「だからもはや宗教というものがそもそももはや成り立たない営みなのだ」「全否定するしかないのだ」と考えるべきだと思っている…が…それは今はこれだけにしておこう…)

ともかくも…「内部証言」としてはとても貴重なものである…それは間違いない…

(「アレフ」非難はともかく…筆者の「近況報告」的なものや内面吐露的なものについては「いまさら」感もあるが…そう「邪魔な」レベルでもない)

共著者は…この問題で知名度を上げたものの…2022年現在では見るも無様な似非文化人と堕している有様だが…この時点ではまだ「読める」ものを書いてはいる


著者本人も認めている通り、一つ何かが狂えば彼が刺殺されていたのかもしれず、あるいは彼も一連の事件の関与者として死刑になっていたのかもしれない…それを考えると、この書物の中でも多分に肯定的に証言されている早川紀代秀のことを思わざるを得ない…「早川はこのような有益なことをするのだから無期に減刑、他はそのまま死刑」と思わず言いたくなり、それは筋が通らない側面もまたあると認めるのにやぶさかではない…しかし…しかし…と思っても、もう遅いのではあるが…せめて早川の魂の冥福を再度祈り、上祐氏には精一杯彼自身が誠実で良心的だと思う活動を続けて頂きたいと思う(上の中)


早川紀代秀・川村邦光「私にとってオウムとは何だったのか」(ポプラ社(2005))

言うまでもなくオウム実行犯幹部の一人による回顧録

これはオウム内部を知る資料としてなかなか貴重であろう…

オウムについては評者も色々と思う所はあるが…この書物を読んで結構考えが変わった…つまりあの教団は最初からおかしかったのだと…というより麻原彰晃はもともと「あんな」人間だった、のをどうにかして糊塗していただけなのだと…ちょっとだけでも騙された自分が許せない気分である…

あんな教祖を絶対的権威として崇めていた信者たちが気の毒にもちょっとなってくる… 著者が紹介しているエピソードで、教団一行の外遊先で麻原がゴネ始めたのだが、何のことはない単なる事実誤認で、耐えきれず著者が指摘したら麻原はちょっとうろたえたのだが結局押し通した…というものがあるが…何が「最終解脱者」だか…と言いたくなる…

他にも、およそ非科学的・反科学的な「修行」の数々… 麻原の珍妙かつ強引な「論理」… 等々…等々… 麻原にいくらかの「霊的能力」があったというのが事実だとしても、どうしてこんなのにそんなに惹かれたのか?… ある程度の「宗教教育」は必要なのではないのか?と言いたくなってくる…

後半に共著者による新興宗教論が付いているが、これもなかなか読める

ポプラ社から出ているのはちょっと驚いた


もちろん著者の早川は死刑を執行されて2022年現在既にこの世にいない… 個人的には、こうやって事件や教団のことを語り続けることを条件に無期刑に減刑してもよかったのではなかろうか…とも思うが…教団のしでかしたことを考えると仕方がないとも思う… しかし、早川の魂の冥福を祈ることくらいはしてもよかろう…(上の下)


中野孝次「実朝考 ホモ・レリギオーズスの文学」(講談社文芸文庫(2000(<1972)))

鎌倉幕府最後の源氏将軍であるこの悲劇的人物が権力争いに絶望し文学に救いを求めていく様を論じ辿った書物で、文芸評論としてはとても面白く読める。ただし、著者のこの論が学術的にどのくらい妥当なのかは…素人の評者には残念ながら分からない…

ただ… 内容的には面白いこの書物を楽しむには、いわば「文芸評論語」と戦う必要がある…

まず…文芸評論家全般に当てはまる悪癖だと思うが…「外野」が多すぎる… ベニヤミンだのホイジンガだの何で鎌倉時代の歌人を論じるのに引っ張り出さなきゃならんのか?

そして… 小林秀雄以来の「伝統」と言ってよいのかもしれないが… これでもかと余計なもったいを付けた「面倒臭い」文体による「高級感」には辟易させられる… 「慫慂」「救恤」「驍勇」「憐愍」「意嚮」といったいわば「リテラリーズ」の頻出にもそれは現れていると言わざるを得ない(これらがウェブ上で問題なく表示されているのかどうか心配になってくる…)。


内容的には面白いが「古き良き時代の文芸評論」風味がどうにも障る…(中の上)


柳谷晃「円周率πの世界」(講談社ブルーバックス(2021))

このコーナーでは珍しい新刊本である…(新刊本があまりないのは単に評者の趣味と「めぐり合わせ」に過ぎない…)

評者の知る限り(間違っていたら申し訳ない…)「e(自然対数の底)」と「i(虚数単位)」に関するブルーバックスは出ていたと思うが…あるようでなかった(と思う…これも間違っていたら申し訳ない(残念なことに講談社のサイトのシリーズ一覧がとても使いにくいのだ!))「π本」である

しかし…パラパラと通覧してみてすぐ分かった…これはとんでもない良書であると…

もちろん人類の円周率追及史としても面白く読めるし、「テクニカル」な議論にも「程よく」踏み込んでいてその点でも満足を得られる(「そっち」が全くダメな向きでもスッ飛ばして読めるようになっている)…要するにバランスがいい

そんなことばっかり覚えてるから文系は全くもう…とか言われそうではあるが…「オイラーとランベルトはカレンダーの販売というくだらないことで仲違いした」「文字通り寝食忘れて研究に没頭した挙句早死にした天才なんだかバカなんだか分からない数学者がいる」とか笑えるトホホなエピソードが散りばめられているのもおいしい


「さすがブルーバックス!」と言いたくなる良書である! 高校はこれを課題図書に指定するべきだ!(上の上)


永井忠孝「英語の害毒」(新潮新書(2015))

例によって、新潮新書が並んだことに別に意味はない

「英語不要論」の書かと思ったらかなり趣が違っていた…

「ネイティブ至上主義」「ネイティブとはアングロサクソン系白人ということの隠語に過ぎない」、あるいは英語のグローバルスタンダード化は英語帝国なかんずくアメリカ合衆国を潤すだけだ等の「英語帝国主義」に対抗する議論は評者も賛成する所であるが、そこに新味はあまりない(やや陰謀論みたいなものが見え隠れするのはどうかとは思う…)…

しかしそこから「いや、今後アメリカの勢いは集落するはずだからもはや「日本人英語」でいいはずだ!」と言い出すのは「ちょっと待て!」と言いたくなる…

行き過ぎたネイティブ礼賛を否定したくなるのは分からないでもないが…だからといってするべきことはこんな「開き直り」ではないだろう! 面白いもので「日本人のカタカナ英語は結構通じる」なんてことを言っている方もいらっしゃるようだが…評者はやはりいわゆる「カタカナ英語」は日本人同士の間でしか通用しない「恥ずかしい」ものだとは思う(私はそこそこなかなかな発音を身に付けてしまっているが…敢えて「カタカナ英語」を使おうとは(特殊な状況を除けば)全く思わない)し…ここで目指すべきものはネイティブが存在する限りはやはりネイティブであり続けると思う…そんなことがないことを切に願うものだが、著者が「学校でカタカナ英語を積極的に教えるべきだ!」などと言い、そういう活動をするのであれば評者は喜んで積極的に猛反対したいと思う


問題提起としては面白かったが…後半の主張には全く賛同しかねる!(中の下)


奥田祥子「男はつらいらしい」(新潮新書(2007))

週刊誌のジャーナリストが「今どきの男は何に悩んでいるのか」ということを取材したもの

多分著者は大真面目なんだと思うが(そう願いたいものだ)…いかにも週刊誌の人って感じの時にふざけた(と取られても仕方ない)筆致(おまけに明らかにふざけたイラストが添えられていることがさらにその印象をあおる)や、時に突き放した記述(「だって女なんだから分かりません!」的なまるでどこかの芸能人の元配偶者のような…)のせいで恐らくは男女双方から反感を買いそうな書物だと思う(大体においてタイトルがあまり上手くない…と言わざるを得ない)

恐らく著者は本当に男性の内面を知りたくて、しかもそれなりに苦心されたのだとも思うが(取材の努力は伝わってくる…そこはさすがにジャーナリストだと思う)…

評者が今一つ不満なのはむしろ「踏み込みの浅さ」なのだ…

要するに「あぁ…そうね辛いのね…そうかそんなことで悩んでいるのね…」で終わって、そこで「戻って」しまっているのだ(何なら「突き放している」と言っても良いかもしれない)

評者が踏み込んでほしいのはむしろその悩みの原因なのだ(が…「それはジャーナリストの仕事ではない」と言われるだけなのかもしれない…「私は取材したことを書くだけで…それを掘り下げるのは別の専門家の仕事ですから」と…)

そしてその手掛かりはこの書物にも垣間見えているのかもしれない…つまり…いまだに根強い「男らしさという呪縛」…そしてさらにそんなものが根強く残る一つの原因は男性自身ももちろんさることながら女性側にもある…と…つまり女性は一方で男性に変われ変われと強いりつつ半面で従来の「男らしさ」を相変わらず男性側に求め利用しようとすらする…と(そして女性である著者も意識的か無意識にかそういう「都合のいい」立場から逃れ切れてないのかもしれない)


恐らく評者が感じたような「雑音」がなければもっと素直に受け止められたのかもしれない…「しかしそれではインパクトに欠けるので売れない」のかもしれない(嗚呼…)…(中の中)


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