どうでもいいことだが「佐高信」は「さこうしん」だと思っていた。
それはそうと、創価の異様さバカらしさは知れば知るほど嫌になってくる、こいつらがオレと同じ人間かと思わざるを得ない。どうしてあんなものにハマれるのかさっぱり分からない。自分でも色々身に覚えがあるが、中にいる人間はもう打つ手なしだから(「外部は受け入れ体勢を」という意見もあるだろうが、個人的にはとてもそんな気にはなれない)放っておくしかないとして、カタギが取り込まれることや創価が権力を握って支配してくることは何とかして食い止めなければならない。しかし知れば知るほど下司な連中だ……
佐高さんは時々いただけないこともあるが、この著作ではとてもまともなことを言っている(時々「やっつけ」仕事をする癖があるのか?それとも代筆や口述筆記を頼むことでもあるのか?)。テリーさんはさすがに鋭い。ギャグや下らない無駄話が入っているのは逆にカタギの世界の健全さを表しているのだろう。この二人の対談の合間に史料として、よそから借りてきたテキストが入っているが小田実の大石寺レポートは名文だ。さすが!
創価はどうしようもないが、この本はとてもよくできている。内容がこれじゃなかったらすごい名著だろうに…… (上の上)
実は評者は高橋源一郎さんの本職が「小説家」だということをつい最近まで知らなかった。てっきり「評論活動もする詩人」だと思っていた。彼の最高傑作と言われている「さようならギャングたち」をまだ読んではいないが、「ジョンレノン対火星人」はよく分からなかったし(前衛大好きのこのオレが?!と思った……)それ以降の作品はあまり感心しない(特に「ペンギン村」は手抜きだと思う)。「ギャング」を読めば何か変わるかもしれないが、個人的には源一郎さんの魅力は鋭い批評センスにあると思っている(例えば『小説入門』も、小説を書く上ではやっぱりあまり役に立たないが、これ自体が小説のような評論のような「作品」になっていてとても楽しめる)。
この小著もそんな魅力が「所々にあ」って刺激を受けるという点ではとても役に立つし楽しめる。「詰まっている」と言えないのが悲しいところで、鋭い洞察や指摘を包み込むように水増しされた部分が挟まっていて、いくつかの章は全く無意味なものにすらなっていていただけない。しかし、不真面目さやグータラ精神に文学への愛を混ぜこんだような雰囲気が彼の魅力の一つでもあるから、やはり「もうちょっとマジメに書いてくれたらもっといいのになぁ…」とイライラしながらも期待して読み続けていくのだろう……
関係ないが「福武文庫」はまだ御存命であろうか? (中の中ときどき上の下)
評者は宗教を尋ねられれば「仏教:浄土真宗」と答えはするが、あらゆる宗教が嫌いで、宗教団体など一つ残らず潰れればよいと思っている(親の葬式はするだろうが、自分のは絶対させないつもりだし、先祖には悪いが上田家の墓は俺の代で終りだ)。その中で最も不可解な団体はオウムでも親鸞会でもましてや「白装束」でもなく(彼等はかえって「分かりやすい」)、創価学会だ。その謎多い団体をひたすら「金」という側面から洗おうとした本。読んでもますます不可解になってくるだけだ。どうしてこんな下らないものを有り難がれるのかますますさっぱり分からない。狂っていると言うしかない(そして、そう言う外部の人間のことを信者は「狂っている」と言い続けるのだろう……)。まるで覚醒剤のような宗教だ。いや、宗教団体と呼んでいいのかどうかすらあやしい。あくまでこの本の内容が正しいとしての話だが、生活保護を受けている会員にまで寄付をさせる、全財産出さないと寄付はかえって業罪となるなどと脅す、これだけでも宗教失格だろう。そしてもうどうにもとまらない権勢欲で、ありとあらゆる手段で支配的な地位を手に入れようとする。これは内部に入らないと耐えられないだろう……まぁデーサクが死ねば大きく変わるだろうが……
方々に「どうしてアレと両立できるの?」っていう方が誰とは言わんがいるけど、ますます不可解だ……(中の上)
爆笑問題の太田(田中ではなく!)が「いい」と言っていたので読んでみた。確かに面白い!時折ニーチェ臭いのは陳腐だが、昨今の「自分らしい」つもりでその実紋切り型に無自覚に染まることしかできない若者に読ませたいくらいの時代を超えた瑞々しさに溢れている(「しゃべり場」なんてメディアに踊らされているだけの「自分探し」連中や全能感に浸っているネットガキ大将のアホさ加減が嫌と言うほど分かって嫌になる)。しょうもないきれいごとを無理に読ませて逆に活字離れさせたり(まぁ評者も国語の教科書が嫌で活字離れしたクチだが…)、あるいは突飛なものを背伸びして読ませ勘違いさせるくらいなら(まぁ評者も高校時代には石原新太郎を読んで「これは大人になる前に読まなければならない!」などと「吼えて」いたもんだが…)、これをじっくり読ませるべきなんじゃないのか。とはいえ、今時の若い者がこんなもん好き好んで読むわけないんだが(ゲーム化でもするしかないか?嗚呼……)。
「青春論」は前半三分の一くらいで、残りは「近代恋愛詩」だが、これも室生犀星・中野重治など、今ではあまり省みられない詩人が取り上げられていて中々面白い(宮沢賢治が取り上げられていないのはまぁ当然か…)。素人詩人を論じた最後の部分は知的誠実さが滲み出していて頭が下がる(現代の批評家の誰が素人の詩を真面目に論じるか?)。
名著である!ふしだらに賞揚される小林秀雄に比べて冷遇されているのはなぜだ?(上の上)
福田本(嫌な日本語だが便利なことは便利だな…)はどこかでマネをしている人間もでるほどだが(苦笑)、ブックガイドとしてはとても便利だ。佐伯一麦(今じゃファンだ。後で気付いたのだが彼の名前自体は『もてない男』で目にしているはずなのに全く忘れていた。有り難いものだ)、北村薫、車谷長吉などは、この本を読まなかったら今でも全く読んでいなかったかもしれない。
ただ、疑問は多々感じる。最大のものは、吉村昭を取り上げていないことだが、その他にも、こき下ろすためにだけ紹介されているとしか思えない(しかもこき下ろすことにそれほど意味があるとは思えない)作家が何人も見られたり、逆に妙に評価が高すぎる作家もいるように思えてならなかったり、評価はともかくコメントには頻繁に首を傾げなければならなかったり、根本的な疑義がいくつかある。芥川直木賞関係者に向けられた憎悪のようなものを感じざるを得ないのは何故なのだろうか?何か過去に嫌なことでもあったのだろうかと思いたくなる。どうでもいいが、似顔絵がいい!(笑)
その福田本をこき下ろしてもいる安原本だが、こき下ろし方、誉め方共に芸がなさ過ぎる。「それは知らなかった!」「そんな面白い本があるのか?読まねば!」という情報を与えてくれるのはとても有り難いのだが、それにかこつけて駄弁を垂れ流しすぎている。誉め方がワンパターンなのはまぁまだ許せるとしても、「大笑い」「クズ」とか貶すだけでどこが「大笑い」で「クズ」か明らかにしないのは批評家としては犯罪だろう(「そんなもん分かるだろ?」「わかんないの?プッ…」なんてのはネット上のチンピラ批評家ならともかく、プロがやっちゃいかんでしょう!)。しかも彼の文体、ぼくは嫌いだ。(直接関係はないがお亡くなりになっていたということをごく最近知った。御冥福をお祈りします……)
批評本の批評をしているというのは何か妙な感覚だな……(福田本:上の中 安原本:中の下)
ちょっとした都合があって久々に読返してみた。サブタイトルの「受験地獄」というのが克明に書かれていて毎度ながらえもいわれないやりきれない気分に今度もさせられてしまった。しかも、この地獄をくぐり抜けた役人が碌なことをしなかったというのだからさらにえもいわれない。汚職・不正の横行についてもこれでもかと描かれていて、人間ここまで愚かかと、どうしたらいいのか分からなくなってくる。史記列伝を始めて読んだ時のいや〜な気分に似ている。そんな感覚に意味を見出せればたまらない書物で、やはり名著だ。
惜しむらくは、仕方がないのだろうが叙述が細かすぎて時折読む意欲を持続させるのに苦労する。詳細は多少端折って、全体としての評価にはもうちょっと分量を裂いた方がよかった気もするが、まぁそれも珠瑕。
少々まどろっこしいがやはり名著(上の中)
「キリストは女だった」「血管は音を伝える」などの珍説奇説を様々な分野から拾ってきて寄せ集めた本。紹介される説は玉石混交で真剣な考慮に値するものも正真正銘の「トンデモ」もあるが、これはこれで面白い。昔話で恐縮だが、評者世代は図書館などにこの手の「あやしい」雑学本が沢山あって(「中国に骨が透けて見える透明人間がいた」「頭が魚、足が人間の『逆人魚』がいた」といった)そういうものを貪り読んでいたものだが、アレはアレで教養になっていた気がする。今の子供は…なんて年寄り臭いことは言いたくないが……
ただ「フランス人ベーコン」(とてもよくある勘違い……)など所々ボロが出ている……各ページの下にSF小説が紹介されているのは、好きなのは分かるが中途半端であまり意味がない。
かつての図書館や児童館でワクワクした思い出に浸るには十分(中の中)
『どこにでもいるバカ』じゃないか、という批判は評者もそう思う(笑)
下で(今は別ページ)若作りババアの毒付き駄弁垂れ流し本をこき下ろしたが、あれとこれの違いはどこにあるか?あれは読むのがひたすら苦痛だが、こっちは痛快だ。これも下で(同じく今は別ページ)貶し気味に評した斉藤美奈子の書評本も読むのは苦痛だがためにはなる。要するに自分だけの「キーッ!」「何よ−!」レベルでフワフワしているだけでそこから下に(まぁ上でもいい)一向に進もうとしないババアの浅さが出ているというだけのことだろう。そしてそれは技術の問題ではなく、志の問題ではなかろうか。しかも「アレ」は全く笑えないというひどい代物だった。この本は時々下手なお笑い以上に笑えるし、斉藤美奈子だって時々は笑える。
佐高信の驚異的な悪文が紹介されているのは参考になったし(あそこまでいくとすごい…)、「バカにバカをかけてゼロ」「「自分」という存在のだらしなさ」(永井先生どうですか?)など「いい!」という表現も散見されてちょっと得した気分になれる。惜しむらくは、「バカ」と言われる人々があまりにも予想通りなので、そこでもうちょっと捻ってもらえるとなおうれしかった。
在野にたまにこういう痛快な評論家がいるというのは健全さの証拠だろう(上の下)
別宮先生の翻訳評は常々楽しく拝見しているのだが、この本も痛快だ。最初の直訳批判など何度「よく言ってくれた!」と思ったか分からない(授業中「ヒュームの『人性論』と『純粋理性批判』」ってのを「『純粋理性批判』とヒュームの『人性論』」としただけで「何だその訳は!」と言われた覚えが評者にもある)。別宮先生などの御活躍で大分状況はよくなってきたのではないかと思うが、「ひでぇ訳!」と思うものもまだまだ多い。その反面、例えば評者がかつて属していた分野など何かと「誤訳誤訳!」と騒いでばかりいるからまた頭が痛い(誤訳の指摘だけで論文を書く強者までいる始末…)。
真ん中に出てくる水田洋の見苦しさはえもいわれない…別宮先生御自身は自分の誤訳の恥をあえて晒しているのとえらい違いだ。評者はさすがに『国富論』を読んだことはないが、評判の悪い訳でこの手の名著を読んでしまったことは何度かある、完全に意味不明で翻訳になっていないものから、これがひどいのか?というものまで様々だった。結局読者本位じゃなくて「業界」本位で成り立っているからこんなことが起るのではないのか?
口が悪いのは何とかした方がいいとは思うがやはり翻訳界の良心といえよう(上の下)
評価は別として三島はいまだに好きな作家の一人なので色々と呼んではいるのだが、こんなものも久々に読んでみた。日比谷事件の事細かな描写が一番面白く、それが一番最初に来ているから後は結構ダレるのだが、三島のダメさ加減や俗物性がうまく書かれていて、「可哀相な人だな……」と思ってしまう。しかし、自分の限界を覚るやああいう形で最後を爆発させたというのはやはり偉大なのだろう(大江健三郎、丸山健二など自分の不様さを棚に上げて三島を目の敵にする「ブンゴウ」は多いが、彼等の誰があれほどの話題作りを自力でできるというのか?)。
「腹心」村松剛を初めとして巷の三島論はおよそどうしようもないものばかりだが(太宰論も同じ…嗚呼…)、この書や板坂剛さんのもののような偶像破戒的なものの方がやはり面白い。三島自身もこっちの方を喜んでいるはずだろう。そういうことで、ヨロシク!(元ネタ分かる人だけ笑え…)
それにしても「専門家」の作家論ってどうして面白くないんだろう?(上の上)