CM2S書評

平勢隆郎『中国古代の予言書』(講談社現代新書)

つまらん!とにかくつまらん!こんなつまらない本久々に読んだというくらいつまらん!
これは何のために書かれた本なのだろうか?中国古代史の専門家になろうという人間のための入門書であろうか?以前、大学で生物学の「一般向け」の講議をとったらば、最初こそ「専門知識がなくても大丈夫」とか言っておきながら、申請が終わった途端に専門的な内容をいきなり語り出して、実は生物学専攻を志す学生向きの入門講議だったということが判明したということがあったが、同じ雰囲気がして嫌な気分になった。
いや、仮にこれが専門家志望の人間向きのものだとしても、書き方が下手すぎる!しなくてもいい繰り返しが多い代わりに説明不足の所が多すぎる。自分が新発見したと自慢したい気持は分かるが、それが先立っていて素人を置き去りにして平気な上に、時折取ってつけたようにふざけた表現が出てきてバカにされた気分がしてくる。
タイトルに引かれて(騙されて?)手に取ってしまう方々も多かろうから、一応内容に触れておくと、ノストラダムスやケイシーの予言、あるいは旧約聖書に見られる預言のようなものが古代中国にもあったという話は、それっぽいものもないわけではないが、大部分はそんな話ではなく、むしろ為政者の都合で暦や歴史書が操作されることがあるということをものすごく面倒臭く説明している過程が大半。麒麟がどうのこうのとかそういう内容も一応あるが、それを面倒臭い「ガクモン」が覆い尽くしているので専門外の人間があまり得る所はない。看板にはやや偽りがあると言わざるを得ない。

久々に「専門バカ」を見た。二度と読みたくない。一般人は専門外の分野で要らぬ苦痛を味わう暇も労力もないんだよ!あぁ腹立った!金と時間を返せ!(学問的には上の上なのかもしれんが、一般的には精々で下の中)


山本信幸『「キャバクラ」の言語学』(オーエス出版社)

「キャバクラで話される用語には統語論的に現代日本語東京方言に一部外れる所があり、それを統計学的に分析すると…」という内容ではなく(当たり前だ!)、話される言葉という点に主軸を絞ってキャバクラを色々語ってみたというだけのもの。
というと貶しているみたいだが、読み物としては結構面白い。評者は悲しいかな行ったことがない場所なのだが(よく行くイメクラの娘が「牽制球」を投げてくるせいもあるが…)、ちょっと行ってみたくなる。まぁただそれだけですな…

こんな大袈裟なタイトルをつける必要はあったのだろうか…(中の下)


池田荘子『セックスレスな男達』(集英社)

御存知ノンフィクション作家がタイトル通りの現象を取材したもの、というのは表向きで、実は「私はこんな男達が理解できない!」と言っているだけ、いや糾弾したくてたまらないと臭わせているだけの本。対象を批判するために取材するということは現実にあるだろうが(個人的にはなるべくそんなことはしたくないものだし、好き好んでやらない方がいいんだろうと思う)、それならもっと冷静にドライに接近しないと批評にならないだろう。初めから自分の立場を押し付けるために取材してかかっているのは左翼文書とか教壇擁護文書とかと同レベルでしかない。多分、著者は著者自身の男性理解から一歩も出られない、というか出たくないのだろう。不必要に挿まれる私情にそれが滲み出している。「それが女の物書きの持ち味だ」という意見を評者は認めない。
ちなみに白状しておくと、評者もセックスレスで離婚した経験がある。もちろん、この状態に陥ったのは評者の方で、多分著者の取材を受けたとしても彼女は理解してくれないだろうと思うし、別にしてほしいとも思わない。そんな気分になってくる書物。

小説にでもした方がいいんじゃないのか。ノンフィクションになっていない(下の中)


加賀乙彦『死刑囚の記録』(中公新書)

著者は『宣告』や『帰らざる夏』の作者と同一人物で、彼が医師として交流した死刑囚の有様が延々と綴られる。内容は気が滅入るもので、よくこんな仕事をできたものだと思う。凶悪犯を極刑に処したところで反省や償いがなされる訳ではないということがよく分かる。例の「白装束」と同じことをする死刑囚が紹介されているのには笑った。精神医学のマメ知識が得られるのもちょっと嬉しい。
著者は死刑制度の是非については最後に少し触れるだけで極力論じないようにしてあるが、もちろん反対の立場を取っている。そりゃそうだろう。死刑囚にしか会ってないんだから。最後に突然パスカルだのサルトルだのが出てくることに著者の薄っぺらさが象徴されていると思うが、ルポ的なレベルから出るとちっとも面白くなくなる。評者は著者の小説を読んだことがないが、多分つまらないだろうという予想が立つ(福田和也によるとどうもそうらしい。これはいずれ自分で確かめよう)。ちなみに評者は、死刑制度が残酷なものであり理不尽なものであることは認めた上で、それでも死刑制度は必要だと思う。基本的に刑罰というのは同罰でいいと思うし、最も保護されるべきは被害者でなければならないと思うからである。

ルポとしては楽しめる(と言うのも妙だが…)(上の下)


安原顕『やっぱり本は面白い』(ジャパン・ミックス)

ヤスケンは現代音楽の聴き手というだけで「合格!」なのであるが(苦笑)、一杯出ている書評本もこれは面白い(以前割と否定的な評を下したが、恐らくお体か何か調子が悪くなっていた時期なのかもしれない)。誉め方、貶し方とも芸がある。文学の状況に怒っておられるのは全く同感であって、このような方を失ってしまって今後文学はどうなるのかという気がする(まぁ学術に比べたら全然マシなのではあるが…)。
それにしても池田満寿夫に原稿を依頼したはいいが出来が悪かったのでボツにしたというエピソードには驚いた。いくら天才でも駄作を書いてしまうことがあるということにも驚くとともに(しかしまぁ当たり前のことだが…)、ヤスケンはそれを見抜いて迷わずボツにしたというのもすばらしい。かつてはそうやって質が保たれていたのか……
本読みとしては例えば小説の評価など気になる所だが、時々評者によって評価が正反対だったりして「…………」となってしまう。例えば丸山健二など、一体いいのか悪いのか、素人にはさっぱり分からない。まぁ実際に読んで自分で確かめればよいのだが……

本当のことを言う、骨のある書評家というのは案外少ないのだな……(中の中)


小谷野敦『バカのための読書術』(ちくま新書)

「バカ本」ブームに紛れたような形になっているが、頭の悪い(という自覚があるくらいには頭がいい)人々用の読書指南書で、案外役に立つ。小谷野先生は名著『もてない男』以来結構読んでいるが、何と言っても知的文化的強迫から読者を解放してくれるというところが気にいっている。この本でも「知」コンプレックスを解く方向で説いてくれているので何かちょっとホッとする(いずれ取り上げるが、名著『もてない男』も、最近ニュータイプの恋愛指南書を書き殴って小金を稼いでいる某大学教授の本がどれもこれもひどい強迫だらけなのとはえらい違いだった)。
ただ、所々疑問は感じる。哲学思想的なものに社会学部の先生みたいな態度で臨んでいるのはちといただけない。「ユングはあやしい」「中沢新一はインチキだ」「ポストモダンは呪文」ってのはいいが、あまりにも哲学思想を情報の形で捉え過ぎている(まぁこんな態度で臨めばヘーゲルを読んでも訳が分からないのは仕方なかろう…)。
それはいいとして、その他にも、マンガと活字本の区別がつかない、独り善がりな箇所や意味不明の仄めかしが多すぎる、「知」の業界の強迫を非難しておきながら結構自分も強迫的である(後者二つは『もてない』にもあった欠点だが)、など傷には事欠かない。
感情的な非難やヨイショにも一々愛が感じられるのはやはり人徳なのであろうな…
それにしてもどいつもこいつも「知」って何なんだよ「知」って、全く。「知識」「知恵」じゃいかんのか?下らん

それにしても、俺が知的だなどと言うつもりは毛頭ないが、日本人どこまでバカになるんだ?(中の上)


柳原三佳『「交通事故」のウソ』(宝島社新書)

加害者のウソでひどい目に遭った被害者、保険会社の払い渋り、冤罪を「つくりたい」弁護士の犠牲になった人々、とどめに腐り切った警察と、これでもか!というくらいに悲惨な交通事故の事例が挙げられていてやりきれなくなってくる。中でも、見ていただけの事故の加害者にされてしまった事件などはひどすぎる。事故を起こさないのはもちろんだが、何であれ巻き込まれないように対策するということも必要なのだろう…嗚呼…
まぁ悪質なのはごく一部だと思いたいものだが(そうでなければ困る……)、警察は「黒い」、弁護士も無能とか悪徳「人権派」とかひどいのがゴロゴロ、保険会社は商売、加害者は逃げる、一体何を信じていればいいのか。というより社会というのはそもそも何なのだと言いたくもなる……

やってられない気分になるが、本としてはよくできていると思う(中の上)


河合隼雄『コンプレックス』(岩波新書)

たまたま今読んでいる小谷野敦『バカのための読書術』ではボロクソに言われている著者だが、精神分析というのはそもそもが実証不能な「あやしい」学問である以上、信じ込むのは単純バカ(「学」とつくので有り難がるタイプの…)か高級バカ(「アカデミズム」に外れるものを妙に有り難がるタイプの…)のどちらかだから放っておけばいい(「分かるが分かれば全てが分かる」タイプの人間は後を絶たないようで、精神分析をやった人も「俺は自我の根源を探究していたのだから人間精神など全て分かる」と思いたがり、精神分析に関係あることからないことまで色々と口を出したくなるものらしい…それは迷惑だが……)。
ただ、面白がる分には楽しいものだと思う。これもそんな楽しみ方をする分には十分だろう。ユングは確かに「あやしい」が、まぁ俗流心理学と割り切って楽しむ分にはいいのではないかと思うが(例えば大学で認知科学の講議を受けている最中に「しかしユングによると…」などと言って失笑を買うとか、「アングロサクソンの『心の哲学』は精神分析学、特にユングの成果を無視しているので……」とかどこかの似而非フェミニストみたいなことを論文で書いてしまったりすると有害なのだろう)。まぁ宗教みたいなもんだろう。
それにしても「○○コンプレックス」「××症候群」っていっぱいあるな…いつかリストでも作ってみようか。
所々表現として全く訳が分からない箇所があるのはいただけない。

まぁ面白がっている分には無害なのではないかと…(中の中)


鎌田慧『弘前大学教授婦人殺人事件』(講談社文庫)

ついに鎌田慧まで小説を書くようになったかと思うとそうではなくノンフィクションであった。どうでもいいことだが、買って読んでおきながら何でこの本を買ったのか全く理由が思い出せない。まぁ面白かったからよしとしよう。
と言うように、ルポとしては「面白い!」の一言に尽きる。よくこれだけ取材できたものだと感心せずにはいられない。新聞雑誌の記者など内心バカにしているのだが、凄い人は凄まじいものだなと思う。
さて、タイトルになっている事件の内容はこれは「酷い!」と言うしかない。一言で言えば犯人を「必要とした」社会や組織によって引き起こされた冤罪事件で、これだけでもとんでもない話だが、何と真犯人が名乗り出て解決した(もちろん数十年経って。当然時効成立後)という奇蹟のような事件である。こんなことが許されてしまうというのは人間社会・田舎の共同体意識というのはこんなに愚劣かとやりきれない。田舎のどうしようもなさがこれでもかというほど書かれていて、単純な人なら津軽人に偏見を持つのに十分だろう。著者は地元出身なので内側から見られていて、都会人が田舎をバカにするという図式になっていないのが嬉しい。

内容がこんなじゃなかったらとんでもない名著だろう…と同じことを言わなければならない…(上の上)


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