呉智英『知の収穫』(双葉文庫)
やはり呉智英は本当にも面白い。というか、在野の一介の評論家に嘲笑され続けなければならない「知」の世界のどうしようもなさにつくづく嫌になってくる。前半の書評等寄せ集めにはそんな感覚が付きまとう。特に荻野アンナをこき下ろしているのは快哉だ。怒りのあまりいつものように、呉個人が気に入らないものに関わると筆が滑りまくっている(いずれどこかできっちり指摘しておこう)。三島が自決した時に連れていった楯の会青年は二人ではなく四人。ケージは自分の音楽にモーツァルトやマーラーみたいな感動を覚えてくれと言ったことはない(評者はケージの初期作品には感動するし、逆にモーツァルトには全く感動できないが、それでもそんなことをネタにして呉を糾弾しようとは全く思わない)。ウィトゲンシュタインは「論理体系が総体として偽」などと言ったことはない。呉は他人の誤解や無知を糾弾するのが生き甲斐なだけに、こういう側面は滑稽だ。しかし、それも含めてやはり呉は面白い。ただ、数カ所読むに耐えないおふざけが過ぎるのはいくら呉でも許し難い。
後半のマンガ評論は、日本のマンガの奥の深さが分って面白いが(この書が書かれて以降、質は大分落ちていると言わざるを得ないが)、評者は呉のマンガ観にも疑問を禁じ得ないので、面白がりながらも常に違和感を感じた。楳図かずお最大の駄作『14歳』を絶賛しているのは「ボケた」と言われてもしょうがない。どうも呉は時々妙に駄作を絶賛する癖がある。呉は絵の上手下手にあまりこだわらないらしい。ことあるごとに、山上たつひこの『思想』を絶賛すると同時に『がきデカ』をこき下ろすのは頭が固いと言うしかない。まぁそれはそうとして、ポピュラリティーという点でも主張や問題追求の質という点でも文学がマンガに完全に負けているという事実を確認しなければならないのは辛い。
呉ファンとはいえ評者にこれだけの感想を抱かせるのだからやはり呉は偉大なのである(上の下)
非キリスト教徒で『聖書』を複数回通読したことがある人間がどのくらいいるのか分からないが、評者はその恐らく数少ない一人に入る。それどころか、評者はキリスト教嫌いをも自認しているからそうなると希少種だろう。そんな筆者にはキリスト教及び聖書がいかに政治的で御都合主義で、完全などと言うのには程遠いいいかげんなものかということが分って実に楽しい書物であった。どのようないきさつで聖書文書が書かれるようになったかという経緯は事細かに書かれていて、なるほどなるほどと思いながら読み進めた。幸徳秋水の『基督抹殺論』を読んだ時を思い出す。惜しむらくは、編纂と聖典化の過程が端折られていて、その辺をさらに細かく突けば聖書及びキリスト教のどうしようもなさがもっと出たと思う。
名著だ!これでもまだ「祈ってから読んで下さい。そうすれば……」などと言うのであろうか?世界最大の宗教の実態はこんなものだ……(上の上)
世間的にはテロと同一視されてしまう気の毒な「イスラム」(「「イスラーム」と書け」というのは衒学的で嫌いだ)の実態を何とかして知って下さい、イスラムはそんなに危ないものではありません、テロはイスラムでも支持されていませんよ−、とそんなことを必死に述べている書物だが、残念ながら著者の努力は報われないと思う。こんな本を読むくらい好奇心がある人間はそんな無責任な偏見を持たないだろうし、そうでない人間はどうしようもないであろうから。
しかし、現代イスラムの入門書としては結構よいものだと思う。特に大雑把に一纏めにされるイスラムの多様性が窺えるのは面白い。逆に言えば、イスラムの暗黒面には不当に目を瞑っているという感もしてくる。「したたかさ」とうそぶく「ゴネ勝ち」体質、たかり体質、一種の中華思想、形骸化するイスラム教の実態と部族主義の復活など、そういうことをクリアーせずに「偏見だ−!」「アメリカニズム反対!」と叫んでだけいても問題は解決しないのではないか(それともこれも「したたかな交渉術」か?!)。
しかし、好著であることは間違いない(中の上)
インドといえば、中学ではインダス文明の次はバスコ=ダ=ガマ、セポイの反乱になるというお粗末な有様で、高校でも大して触れられないのだが、実はこんなに面白いということが分かる良書である。
ただし「面白い」というのには違う意味も含まれていて、ほとんど無茶苦茶な政治(特にツグラク朝というのが最低最悪だ)、アクバル帝晩年の宗教狂い、根強くあまりにも酷い迷信(有名な未亡人殉死の風習にも触れられている)など、やはりインドだなぁ……と妙な感慨にひたらされてしまう。さすがに歴史の長い大国だけあってやることが妙に大らかでダイナミックだ……そんな一端を垣間見られる。それだけでも貴重な書物である……
惜しむらくは後半がいかにもボリューム消化という感じでダレるが、前半だけでもうお腹一杯になれるので、アクバル帝の死までで投げ出してもそう損はない。最後の、西洋人による当時のインド報告記の紹介は、西洋人の頭の堅さが分って逆に面白い。
近世インド入門としては良質であろう(上の下)
やはり呉智英は本当にも面白い。例によって、言葉の死角や染み付いた勘違いなどを鋭く突かれることが多く、面白くてタメになる。著者本人がそういう「驚き」の感覚を大事にしていて、自分の思い込みや勘違いを隠さずに曝してくれるのがやはりいい雰囲気を醸し出している。身につまされて反省せねばならないなと思わされるとともに、不誠実で無自覚なもの書き連中にはますます腹が立つ。
ちょっとだけ文句を言えば、「お前等こんなの知らねーだろー!」という雰囲気はまぁそれが呉なのだからいいとしても、妙に頑固な感覚が相変わらず残っているのはやはりどうかと思う、呉にも捨てられないものはあるのか(まぁ封建主義者を自認するほどだしな……)それとも単に年寄りになっているだけなのか。前衛が嫌いなのは、嫌いなのはしょうがないと思うが、理解できないのなら理解できないと言って後は黙ってろと言いたい。どうしてこの手の人々って自分の好みをあの手この手で正当化しようとするのだろうか。
どうでもいいことだが版画の挿絵がいい(上の中)
たまたま最近中国史ものを読むことが多いが単なる偶然で、別に時代物の小説とか書いてるわけじゃありません……
王羲之と言えば高校世界史でちょこっと出てきて後は「ちょうけん」(「けん」が出ない……)同様「あの難しい漢字の人」になってしまった印象しかないが、これ一冊でどんな人だったのかは大体分かる。要するに一種の天才で、評者のような凡人にはこれ以上の人生があるのかと思ってしまうが王羲之は彼なりに悩んでいたのらしい……天は二物も三物も与え給うのだなと不公平を呪わずにはいられない。
アホらしさ加減に笑わされるエピソードが沢山あるのは面白い。こんな偉大な書家の作品が以外とぞんざいに扱われていたり、あっという間に贋作が出回るのはやはり支那なのか。「蘭亭序」贋作論争の中心人物が郭沫若だというのも面白い。癲癇の発作があった、晩年は神仙術に凝ってジャンキー的な状態にも陥ったなど、えもいわれぬ逸話も多く読み物としてもためになる。
教養の範囲ではこれで十分だろう(上の上)
「何と読むのか?」と思い奥付を読むまで分からなかった著者の名前には振りがながなく代わりに肩書きがでかでかと書かれているカバーが全てを物語っている。
自分は安定した地位を手に入れておきながらその上で無頼を気取っているような学者・文化人(具体的に名前を挙げなくてもいいと思うから挙げないが)というのがいつからはびこるようになったのかは分からないが、その典型的な例。とにかくひねくれれば玄人と思われるんじゃないか、裏を出せば素人は騙せるだろうと思っていると言われても仕方ない、言うならば「畸形反権威至上主義」丸出しのクズ本。この著作が著者の言う「逆読書法」とやらの適応から免れていると都合よく思い込んでいる所に知的不誠実さが現れている。いわゆる学者バカの昇華不良(<誤変換じゃないよ念のため)。時間の無駄。
「結局自分で考え抜く態度が一番ですね」ということを確認する反面教師としては役に立つかもしれない。(下の下)
支那北部の異民族と言えば(最強のモンゴルを除けば)何と言っても「匈奴」で、広く浅くて薄い高校歴史の範囲でも「匈奴ってしぶといなぁ〜」などと同級生と言い合ったのを思い出すが、そのしぶとい北方民族に対する支那側の防衛のあり方を木簡学の成果をふんだんに用いながら分かりやすく紹介してくれている。名著だ。「……と言えば思い起こされるのが」「この手の事件で有名なのは」などとサラッと書いて下さっているが、その背後にとんでもない準備や調査が積み重ねられていることくらいかつて学者をやっていた人間だから評者には痛いくらい分かる。そのおいしい所だけ料理して出して頂いていくわけだから感謝して頂かなければならない(不味ければ「マズイ!」とテーブルをひっくり返すことも時には必要だが)。
それはそうと、漢帝国と言えばその頃日本はまだ卑弥呼以前なわけだが、その時点でこうも強力な官僚機構が作られていたのだからやはり支那というのは恐ろしい。とにかく何でも記録するというのは病的な執念すら感じる(「到着が一時間遅れたのをどう弁明するのか!」などという木簡があるというのは笑った。「一日」じゃなくて「一時間」だ。やっぱり支那ってがめついんだな……)。こんな恐ろしい国に対抗するには相当頭を使わないといけないだろうに、その反面匈奴の方はやっぱり野蛮人なんだね……という雰囲気でえもいわれない……
面白い!「新書は日本の文化だ」という見解の見本のような著作だ(上の上)
中公新書だけでも都合6冊ほどもあるナチ関係のうちの一冊だが、面白い!主な狙いは二つあり、一つは「ヒトラーは狂人」「近親相姦のせいで気質的にああなった」という類いの妄説を一つ一つひっくり返すのと、もう一つはナチズムが一時的とはいえあれだけ興隆したのにはそれなりの背景があったということの立証で、どちらも丹念にできていて素人にもよく分かる。ヒトラーその人の生い立ちや形成過程には多少異常な所はあるものの、この程度ならまぁそう珍しくはないという程度で、鬼畜の所行を楯にとってずいぶん無茶苦茶を言われてきたものだと多少同情したくなる。逆に「研究者」という連中の不誠実さが嫌になってくるほどだ。もう一つの、ナチズム支持の背景ということでは、ドイツ農民の田舎根性が嫌というほど分って、田舎に住んでいる者としてもえもいわれない。
ヒトラーがニーチェを特に読んだ形跡はない、ヒトラーの絵は結構売れていて案外いい暮しをしていた、といった事実にはビックリした。先入観とは恐ろしいものだ…本編最後に触れられるヒトラー別荘の様子には妙な感動すら覚える…右翼の旗とかそういうのが売れたりするのと同じか……
中盤とかは多少面倒臭いが、名著である!(上の上)
コンピューター業界に生きる人々を取材したノンフィクション。とはいえ、もちろんソフトやゲーム業界中心で、ハード方面の内容はほとんどない。大層なタイトルだが「研究」というほどの内容はない。逆に、看板に偽りを作らないためか取ってつけたようにアカデミックな内容を盛り込もうとしていてそれがかえって興醒めだ。巻末に欧文要約らしきものが付いているのは特に意味不明。遊戯としか思えん。どうもフィールドワークをする社会学系の研究者はフィールドワークとルポ・ノンフィクション取材の区別がついていないらしい。サブカル系の文化人によくある病癖だ。
それはともかく、最先端を走る人々はやはり常人を超えるものを持っていて、小学生時代に既にパール=バックの『大地』を読破するわ、機械語をコンピューターなしにマスターするわ、コンピューターを自作するわ(もちろん、パーツを買ってきて組み立てるだけというわけがなく、ICとかそのレベルから基盤を組んで作る。当然何バイトとかそういう世界)、何なんだあんたら!という気分になってくる。しかし、その気狂いじみた先駆者達が作り上げた世界に巣食う人々のどうしようもなさはえもいわれない。特に任天堂社長の企業人丸出しな独善的我田引水は日本のサラリーマンのどうしようもなさを象徴している。既に先駆者達の段階で危惧されていた不安(いわゆる「オタク」化やひきこもり等)はますます拡大され、全日本的、いやひょっとしたら全地球規模でものすごい数の人々を巻き込んでろくでなしを生産し続けているようにしか思えないが、業界は全く何のおとしまえも取らないつもりなのだろうか。そんなやりきれない気分にさせられる。
ノンフィクションとしてはよくできている(上の下)