CM2S書評
その6
伊東光晴『ケインズ』(岩波新書)

評者はひょんなことから『資本論』を一応通読してしまったことがあるが、ケインズは彼の名前と「一般理論」という看板、「短いが難解」「インフレ擁護」というキャッチフレーズしか知らなかった。しかし、そういう人間には全くありがたい書物だ。「人間ケインズ」がきちんと書かれているのが面白い。典型的「ブリティッシュ嫌な奴」だったのは驚くが、まぁそんなものかもしれない(イギリスの大知識人はそういう評判を聞かない方が珍しいくらいだが……)。もちろん彼の経済理論の概説もあり、それはやはり難しいが、何が重要かというポイントは押えられているので心地よく分ったつもりにさせてもらえる。それに「難しい」と、そして何が難しいのかと分らせてもらえるのも有り難いことかもしれない。哲学病人間としては、ケインズ理論の哲学的な側面が強く出されているのも面白い。さらに、表現が時折面白く、単なる学者バカの無味乾燥な概説書に終わっていない(さすがにやりすぎの箇所もあるにはあるが……)

素人には全く有り難い名著である!(上の上)(05/)


別宮貞徳『特選 誤訳 迷訳 欠陥翻訳』(ちくま学芸文庫)

例によって例のごとしの、酷い翻訳のオンパレードにクラクラしてくる。しかもそれが、昭和を代表する文豪だったり、芸術性を謳う大女流作家だったり、日本の知性を代表するはずの元東大教授だったり、英語指南の連載を週刊誌に持つ自称英語名人だったりして、頭が痛くなってくる。どうしてこんなものが出版されてしまうのか訳が分からない。これなら俺にも出させてくれよと言いたくなるほどだ。結局カネである。カネになれば全てOKがサラリーマン社会日本である。嗚呼嫌だ。
もうしょうがないのかもしれないが、別宮先生やはりどう考えても毎度ふざけすぎだ。茶化したりコケにしたりもいいのかもしれないが、明らかに度を越している。これでは逆効果だろう。もうちょっと冷徹にやってやらないと結局なんやかやで酷い翻訳は生き延びてしまうだろう。「ベック先生だからね……しょうがないよ」「あの先生はああやって喜んでるだけの人だから気にしなくていいよ」とかって……

いつも「もうちょっと……」と思ってしまうのだが(上の下)


小林よしのり他『自虐でやんす』(幻冬舎文庫)

今は大分冷めてきた印象があるが、慰安婦問題といい南京虐殺といい、一時期の異常な盛り上がりは何だったのだろうか。やはり「これは金になる」「名前を売るチャンスだ」「どうだ俺はすごいだろう」という機会を窺っている連中というのがゴロゴロいて、たまたま連中のアンテナに引っ掛かり、受け皿も見つかったということに過ぎないのだろう。今となってはアホらしい。もちろん、いくら評者自身どちらかと言えば右翼的な人間と言え、小林たちの側の言うことが正しいなどと言うつもりは毛頭ないが(返す刀で彼等も結構痛いことをしでかしているので。それにしてもこの本に書かれている連中ほど酷くはないが)、「自虐的」な連中にまともにものが言えない状態だったのを崩したという意味では意義があったんではないかと思う(ただ、「新教科書」との決別以降の小林はどうしようもなく面白くないのでどうにかしてほしい。思想的には別にどうでもいいが、マンガがちっとも面白くないのは致命的だ)。
「娼婦盆栽」には笑ったし、ガキを洗脳して喜々とする連中の愚劣にはホトホト嫌になる(外から国立市に移り住めば共産党を支持する気など失せる……左翼教育の愚劣が子持ちでなくてさえ分かるのだから……それに子供は先生や大人に誉められようと思えば「にんげんだからにんげんとしていあんふもんだいをついきゅうするぎむがあるとおもいました」くらいのおべんちゃらは簡単に言ってのけるものだ)。それにしても、こういう問題に触れると、以前ネットチンピラに絡まれて「幼稚でナイーブ」とか言われたのを思い出して嫌になる。どうして自分の手で検証できないししようとも思わないことでこう暑くなれるものなのだろうか。

「爆弾」としては意味があったんじゃないだろうか(上の下)


松下竜一『怒りていう、逃亡には非ず』(河出文庫)

『ルイズ』があまりにも面白かったのでこれも非常に期待して読んでみたのだが、ちと期待外れだった。『ルイズ』の前半とかにあるしょうもない感傷が悪い形で出ているばかりか、その感傷が向かう先が左翼運動というどうしようもないものでもあるだけに、下らなくて笑えるやら情けないやら。「活動家」という連中の幼稚・卑劣・自惚れとナルシズムが多分意図しない形で滲み出ていて苦笑せずには読み進めない。こんなバカ連中の犠牲になった方々や迷惑を被った方々には本当に同情する。こんなしょうもない連中に踏みにじられるくらいなら「帝国主義」とやらに振り回される方がましだというのが一般人の感覚だとまだ分からないのだろうか。
ただ、巻き込まれた泉水博のやり切れ無さや信じ難い義侠心は上手く出ていてそこには心を打たれる。そこに中心を絞るべきだったんじゃないかと思う。まぁ御本人が肝心な部分を沈黙しているらしいので仕方がなかったのかもしれないが。 ちとがっかりした。上滑り。革命家の愚劣の見本としては貴重かも(中の下)


松下竜一『ルイズ:父に貰いし名は』(講談社文庫)

鷺沢萠さん、金田一先生に続いて今度は松下竜一さんだ。評者は昔社会主義にかぶれていたことがあった関係もあってか大杉栄絡みで「名前を聞いたことはある」という程度だったのだが、いい機会だと思って、積ん読になっていた著者の作品を読んでみることにした。
最初はノンフィクションにしては情緒が籠りすぎている上に評者が忌み嫌う方言満載なので、「評判いいけど全然面白くないじゃないか」と腹を立てたのだが、物語が動き始めるとなるほど無茶苦茶面白い。特に主人公が渡満する以降は「これがノンフィクションか!」と思うくらいに波乱万丈の展開が連続して下手な小説など足下にも及ばない。「ん?」と思った箇所が後で伏線的なものになっていることなど見事だと言うしかない。官憲やマスコミの無責任さ、「活動家」の愚劣、田舎のどうしようもなさ、おまけに兄弟や家族親類縁者のトホホ加減など、よくもまぁこんな中で生活できたものだと思わされる。大杉・伊藤は主義や生活態度は一貫していたのかもしれないが、それも一般人には迷惑以外の何ものでもなかったということもよく分かる。著者の代表作に数えられるのも納得の力作である。

名著だ!御冥福をお祈りします……(上の上)


呉智英『ロゴスの名はロゴス』(双葉文庫)

例によって、日本語に関する蘊蓄が色々と並べられていくのだが、これだけ書いているのに全然ネタ切れの気配が見えず、毎回驚かせてもらえるのでやはり呉智英は本当にも面白い。巷に蔓延する無神経な言葉遣い、知識人のダメさ加減が突かれるのはやはり痛快だが、ジャンルを代表する大作家が堂々と間違えているのはあまりにも情けない。ヘタクソながら和歌を趣味としている評者には、歌人のどうしようもないいいかげんさが紹介されていて嫌になった。現代日本語の不完全さが嘆かれているのは同感だ。しかも、旧字旧かな礼讃という単なる復古主義(はっきり言って迷惑なだけの連中)に陥っていないのは偉いと思うし、標準語を評価しているのは意外に感じるとともに感心した(評者は方言礼讃者たちが大嫌いだ。方言廃止をいまさら主張しようとは思わんが方言なんて無くなれとは思っている)。どうでもいいが、イラストが面白い。

相変わらず面白い(上の上)


山田忠彰『ヘーゲル論;理性と他性』(批評社)

「何て恐ろしいものを読んでいるんだ」と言われるかもしれないが、実は評者、ヘーゲルは結構好きだ。池田晶子さんが「哲学の醍醐味はヘーゲルに極まる」と言っているのは分からなくもない(ただ「俺がヘーゲルだ」という感覚は全然分からないし(何か「キメ」てヘーゲルを読むのならまだしも)、「分かるが分かれば全てが分かる」というのは明確に間違いだ。ヘーゲルはそんなこと言わないと思う)。ヘーゲルも、カントやハイデガーもそうだが、ごく当たり前に感じていることを一皮めくるとそこに重大な問題が隠れていると気付かせてもらえる快感は堪えられない。そんな気分を味わうことができる。
ただそれはヘーゲルが偉大で、この書がいくらかはヘーゲルへの道筋をつけてくれることによるものであって、この書の価値はそれほど高くない。元々のヘーゲルにも既にそんな所があるが、慣れない一般人にとってははっきり言って「お経」としか思えない妙ちきりんな日本語が垂れ流されている(翻訳が悪いということももちろんあるが、ヘーゲルはドイツ語原書で読んでもちょっとそんな所があるくらいだ)。解きほぐすどころか増幅してどうするんだ、と思う。こうした「お経」が哲学を一般人から遠ざけ、象牙の塔の物置き小屋に押しやったという認識と反省は未だ全くなされていないらしい。さらに悪いことに、著者は明らかに自分の文体に酔っている。不可解な漢語(「剔抉」の読みが分かる人間がそう多いとは思えない)や「○○的××性の□□的■■状態」といった不用意でこなれていない用語を喜々として振り回しているのは「まだこんなことやってるんだ……」という雰囲気で愕然とした。自分達の「浮き世離れ」したそれこそ「抽象的な」感覚がどれだけ哲学を衰退させているのか、どうやったらこうした頭のいいはずの大先生方は分かるのだろうか……
ウィトゲンシュタインを初め、いわゆる英米の分析系哲学に対してはやはり敵意が先立っていて、とんちんかんなことを言っている。大陸系哲学の研究者にとってこうした哲学は依然「分かりやすいだけで中身のない哲学」なのだろう。そんな態度は「直接的な対立」「抽象的な他」ではないのだろうか?

直接ヘーゲルを読んだ方がはるかに面白いはず(中の下)


尼川洋子(編)『女の本がいっぱい』(創元社)

女性問題に関わる文献を広く集めたブックガイドだが、ブックガイドとして役には立つものの「女の本はもうたくさん」という気分にもさせてくれる。執筆者の文章がまずひどい。こんなひどい文章を無神経に垂れ流しておいて、社会を変えるだの何だの言えるのかとまずそこを問いたい。そして、雑音が多すぎる。例によってその雑音は「女はすばらしい! 男は最低!」の連呼でしかない。中でもひどいのは、「女の敵は女」といった本を女性が編集したとしたらそれは「重大な裏切り行為(?)」だと決めつけた箇所(この「(?)」は意味不明で最悪だ。茶化して逃げを打っているつもりだろうが。例えば斉藤美奈子・荷宮和子といった一見過激な連中ほどこういう卑怯な手段を使う)と、源氏物語を持ち上げるのはいいとして、恐らく訳者の性別を理由に谷崎訳を無視している(橋本訳はまだこの時点では存在していなかったかもしれない)ことだろう(まぁ谷崎訳はとっつきにくいので彼女等は読めないんだろう多分)。この手の連中は相変わらず「自分達は女性代表」で、大義名分のためには事実を捩じ曲げることも構わないと思っているらしい。フェミニズムは死んだという他はない。こんな連中が先頭に立っている限り女性解放など実現しないし(逆に実現してもらったら困るのは彼女等の方だろう。もう騒げなくなるわけだから)、したとしてもそれが本当に「解放」かは怪しい。まぁ気が済むまでギャーギャー言っててくださいと言うしかない。
これはこの本には全くどうでもいいことだが、この「創元社」は「東京創元社」とは別の出版社らしい。「工作社」と「工作舎」など極端に紛らわしい社名は何とかならないものかと思ってしまう。

カタログとしては結構使えるが「雑音」のせいで価値が半減している(下の中)


日商岩井広報室《トレードピア編集部》(編)『英語は度胸』(ごま書房)

英語に関する実用的な蘊蓄をかき集めた類いの本。内容は効果的な学習法指南から相づち色々まで様々。この手の英語指南書では、英語にかこつけてあやしげな文化論だの自分の政治心情の主張だの挙げ句の果てには個人的な恨みつらみだの「俺は偉い!」だのまで垂れ流すだけでうるさいだけのと、単語帳や会話練習帳に毛が生えただけのつまらなくて役に立たないものがやたらに多くて嫌になるのだが、この本は見事にバランスがとれていて、面倒臭くなく読んで面白く役に立つ。実用に徹するということを何か勘違いしている著者は多いが、この書はきちんと分っているのが分ってさすが岩井と言いたくなる。無駄な内容も少なくないが、英語にこだわりのある人間なら単に読み物としても楽しめる。

上質(上の下)


金田一春彦『日本語』(岩波新書)

別の所で鷺沢萠さんの弔いをしたばかりだが、今度は金田一先生だ。「いいとも!」にレギュラーをもつなど一般ウケのする軽妙さと学者としての実力を兼ね備えた希有な人であるだけに、この名著は内容が濃い上に読みやすく分かりやすく面白い。全編にちりばめられているユーモアがこの書の価値をさらに高めている。日本語や言葉そのものに何がしかのこだわりを持つ者には必読であろう(と言いつつ筆者も今回始めて読んだというのが恥ずかしい……)。奇妙な外国語が数多く紹介されているのも、語学マニアには嬉しい。惜しむらくは、下巻に入るとややトーンが学術っぽくなってしまって、上巻ほど軽やかに読めない。しかし名著であることは間違いない。しかし、日本語のとらえ難さというのは半端ではないのだな……

偉大な学者の御冥福をお祈りします(上の上)


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