高橋和夫『スウェーデンボルグの思想』(講談社現代新書(1995))
スウェーデンボルグの入門書としてはお手軽で良質であろう。評者もいわゆる「トンデモ」には「科学的に正しい」視点からではあるが興味を持っており、この大哲学者にも関心はあったので、そういう点では非常に楽しく読ませていただいた。この大学者のまぁごく片鱗しかもちろん出てはいないが、最初はこんなもので十分だろう。これでひとまずよしとするのも、さらに理解をすすめるのも、どちらの助けともなる好著とはひとまず言える。
ただ、それだけに傷が目立つのも惜しい。一言で言えば、スウェーデンボルグとそれに与するもの以外への敵意がひどすぎると言わざるをえない。要するに「敵陣営」は「合理」「理性・理知」で、それとスウェーデンボルグを対置させすぎるあまり時々トンチンカンなことを言う羽目になり、早い話がニューエイジ紛いに堕している。「スウェーデンボルグ? ニューエイジだよあんなの」という世評をこれでは覆せまい。全般に「ほーら、科学的にも正しかった!」が多すぎて、それは見苦しい。しかも持ち上げ方がみっともなく、芸がない。この手の連中の常套手段に「○○も認めている」というものがあるが、その際に挙げられるのが文学者ばかりで、これでは説得力もあるわけがない。「理性の帝国」を妥当するにはそれなりの戦略が必要だと、なぜ分からないのだろうか……
もうちょっと戦略が練れていれば大変な名著になったであろうに惜しい! でもまぁ日本のスウェーデンボルグ研究「復活」ののろしとしてはまずまずとも言えるかもしれない(上の下)
大学病院から跳ね飛ばされた経験のある医者による医学会のアホバカ告発記とでもいうもので、読む前から「きっと気が滅入って、怒りなしには読み進められないだろうな」と覚悟していたら、全体に何となく妙にユーモア感が漂っていて、割と楽しく読めた。しかし、大学病院のバカバカしさは予想通りで、実は評者も大学から弾き飛ばされた(のか自分から一抜けたのか、それは自分では何とも言えないが……)経験があるので、何とも言えない嫌な気分になった。しかしそれとは裏腹に、著者が臨床医として強靱に成長していく過程もよく書かれていて、ノンフィクションとしては中々読める。誠実に地道に医療を追求している人々もいるというのは、中々清々しい思いにもさせてくれる。必然的に医療用語が頻発して、それはうるさがる向きもあろうが、評者個人としては「こういう言い方もあるのか」「あれはそういう言い方をするのか」と中々面白かった。
派手さはないが面白い(中の上)
よくある「英語教育憎し」「受験英語死ね」タイプの毒付き本の一つ。この手の英語関係書物の中で最も激しいのは、以前ここで取り上げたこともある副島隆彦のものかと思ったら、何ともっと上があるとは思わなかった。そのくらい怨念・憎悪が前面に全面展開されていて、現行の英語教育には大いに文句がある評者ですらかえって気の毒になるくらいだ。副島氏の本は威勢ばかりであまり中身がなかったから、あれはあれで放っておけばよいのかもしれないが、これは中身があるだけに、しかも主張の基本線はごく真っ当なだけに、残念というか、悪質というか、とにかくこれではいけないだろう。
要するに、こういう形で怨念ばかり叩き付けていても何も事態は好転しないのだ。所詮現場の人間など馬鹿なので、こんなやり方をしたらかえって反発を招くだけで、全体を見たらむしろ逆効果になりかねないだろう。例えば見よ。主にビジネス界に地盤を持つ連中が「日本人の英語は使えない」とけなしまくり、それを文法偏重批判にすり替えた結果、聴ければ、会話できればよい、外人を連れてくればよい、と短絡的な「改革」につながり、結局ペラペラの恐ろしくつまらない教科書を読みもせず、外人がしゃべるのをボーッと聞いたり、アホみたいなゲームだの歌だのやってるだけ、三年間も英語やっててbとdの区別すらつかないという、さらにひどい英語障害者を大量生産する羽目になった。同じことをこの著者は繰り返せば満足であろうか? これは評者の予想だが、著者の教授法が広くなされれば、できる者は確かにそれこそ半年で『ハリー・ポッター』読んだりできるかもしれないが、それ以上に多くの怠け者のゲーム脳連中は「面倒くせえ」「うぜえ」と何もせず、障害者どころか英語的未熟児と化すだろう。そうしないためには、多少の戦略は必要じゃないのだろうか? といっても聞く耳もたないような雰囲気の著者ではあるが……(「じゃあ何か? 学校英語賛成か!」とか言い掛かり言って来そうだな…」)
ある意味では副島隆彦以上の「英語バカ」だなこれじゃ……こんなやり方じゃ何も変わらないと思う(中の下)
翻訳タイトルには大いに文句がある。というのも、タイトル通りのようなタイプの人々に関する、要するに「困った人」本かと思ってしまったからだ(もちろんタイトル通りの人間に辟易していた嫌な思い出がある)。売れなければしょうがないということはあるものの、こんな手まで使って販売戦略するというのは正直呆れる。やっぱり中身で勝負しなさいよと言いたい。
しかし、内容は結構面白い。要するに外に表れた事柄からいかにして他人の人柄を判断するかという知恵が細かく延々と書かれている。時々まとめたり、色々と工夫してくれてはいるものの、それでもたまらなく乱雑なのは一体どういうわけか分からないが、とにかく参考にはなる。もうちょっと簡潔にまとめられなかったのかという気はしないではないが……
誤った看板のせいでかなり印象は悪いが、良質なハウツー本ではある(中の上)
いわゆる「日本的」なものは江戸時代に由来するものが多い、我々の江戸観がいかに誤解偏見先入観に基づいているか、江戸時代が近代化にどのような「貢献」をしたか、という三本柱から我々の江戸時代観、ひいては日本観を大いにひっくり返しブチ壊してくれる快書である。とにかく「ええっ!」と思わされる内容が多く、これ一冊で非常に得をした気分になれる。反面、今まで自分達が常識だと思っていた事柄が(そのうちいくつかは例えば中高の歴史で教えられることだったりもする)ひどい誤解以外の何ものでもないと知らされたりして「何だったんだ……」と思わされたりもする。個人的に面白かったことをいくつか挙げると、徂徠が(当時の)現代中国語に通じていたとか、彼や白石といった大学者も生活には苦労していたとか、華山の側近に富山県出身者がいたとか、これだけでも面白い。貸本業に関する考証があるのもためになった。
一つだけ欲を言えば、原文には時々ルビや注釈がほしい。さすがに原文資料はズブの素人には時折読むのが厳しい。
最初数節で「これはすばらしい!」と思った。こういうものを見つけるのが楽しいから乱読はやめられない(上の上の上)
まぁよくある文章指南本であるが、主眼が内容面に絞られているのが珍しいと言えば言える。「どんなことを書くように求められているのか考えて書け」「それに見合った書き方をせよ」「具体的な内容を重視せよ」等々、まぁはっきり言って当たり前の事が書いてあり、そう言われれば今更という気もするが、今一度胆に命じるという点では役に立った。最後のチェックリストも確かに役に立つ。
文章指南書としてはよくできたものだが、やはりまぁ文章指南書だなというその程度のもの。やはり文章などというものはある程度自分で苦労しなければならないのだろう。けなしてばかりいるようだが、質はよい。本当に役に立つ文章指南書というものは作りにくいということなのだろう(中の上)
タイトル通り英語を「創り」「使う」(「話す」ではない!)ためにはどうしたらいいかということを根本的な所からしかし実践的に辿り直した好著。これも英語に携わる人間には必読書と言ってもよい(というより、どうしようもないクズ本が多すぎるのだが……)。
内容的には著者が提唱する「魔法の呪文」なる超基本構造を叩き上げる過程が大半で、これはこれで見事で役に立つ(しかし、きちんと自分で考えながら英語を使っている人間は自然とこういう認識を育てているものだろうし、こういうコツはこれをさらに叩き台にするものであって、ここで満足、ましてや単なる受け売りにするものではなかろう。これをさらに「形式化」して墓穴を掘ってる三流英語教師とかも多いのだろうが……)。前半と締めくくりには、まぁお約束と言うのか、昨今の英語教育に対する文句が列ねられているが、このくらいなら適格かつ適度で意味があるだろう。重大な違反と軽微な違反を区別し後者は多めに見よという立場は重要だと思うし、「日本人は文法や読解はできると言われているが実はそれすら怪しい」「連想ゲーム的な授業・テストは無意味かつ有害」という指摘はその通りだと思う。願わくばこのような建設的な指摘が、一部の優秀かつ意欲的な英語教師だけでなく、英語教育全体(特に地方)に浸透してほしいものだと思う。
「俺はできるぞ! どうだ!」だの「学校英語教育打倒! キーッ!」だの「日本人英語デキマセーン。間違ッテマース。オ笑イデース。ハッハッハー!」だのそういうクズ英語本じゃなくてこういう良心的な書物が読まれて話題になってほしいものだ(上の上)
御存知ウルトラセブン「欠番」第十二話、映画『ノストラダムスの大予言』(評者は実は映画館で見た憶えがある)、『ブラックジャック』の単行本未収録作品等々、有名「封印」作品の経緯を辿ったノンフィクション。最終章で取り上げられる「封印」ゲームに著者が関わってしまった罪滅ぼしというか、はっきり言って便乗で書かれた作品だが、こんな便乗なら大歓迎だ。
ただ、踏み込みはやや甘いと言わざるを得ない、『セブン』や、もう一つ挙げられる円谷作品(評者もこの本を読んで始めて知った作品だが「是非見てみたい!」と思ってしまった)は円谷側のガードが恐ろしく固いらしいので仕方ないにしても、もうちょっと何とかならなかったのだろうか……これでは余計にもどかしくなるばかりだ。『ノストラ』では制作側の無神経が何とも言えず、確か医師免許も持っているはずの手塚治虫が呆れるような医学的無知をさらしている(そして結果的には色々な人々を傷つけ作品自体も封印されるという不様……)のには呆れる以上に情けなくなり、一々過剰な反応をする「抗議団体」の愚劣には腹を立たせられ、問題が起れば封印すればいいという(そして時には貴重な作品を我々から奪う)売り手の無責任に絶望し、ものすごく嫌な気分にさせてくれるが、内容的には面白いし読みやすくまとめられている(実際一晩で読み通してしまった)。これで終りというのではなく、この路線を引き続き延長してほしいものだ(著者は「もうたくさん」かもしれないが……)
ついでにもう一つ文句が言いたい、この書は評者が久しぶりに注文までして買った新刊本であるとともに、新聞の書評欄を見て知り、買った恐らく始めての書物でもある。要するに、そこまでして買いたくなる本が少ないということでもあり、新聞の広告・書評があまり役に立たないということでもある(まぁ某Y新聞なんかいまだに島本理生だの斉藤美奈子だのの読むに耐えない文章を載せ続けているわけだし……書評欄で「今日このごろ」なんて書いたり自著の宣伝をしたりする作家の作品を読みたいとは思わないし、平気で「ゲゲッ、キモッ」だの「アホかって思っちゃうよね」とか書いたりする斉藤美奈子フォロワーがゾロゾロ出ている責任をあのオバサンは取るべきだと思う(それどころか逆に煽って囲ってる節さえあるが……嗚呼)。少なくとも喜々として自分の醜い写真を色々な所に出すのは犯罪だからやめるべきだ)。「売れりゃいい」「金になればいい」がこんな状況をここまで推し進めてしまったというわけだ……
もうちょっと突き抜けてくれたら……とは思うが労作であることは間違いない(上の中)
副題に「体験的通訳論」とあるように、著者自らの体験をふんだんに盛り込みながら、通訳の難しさややりがい、不可欠な心構えや注意点・コツなどをたっぷり説いてくれる非常に内容の濃い一冊。これを読んだだけで何かちょっと英語が上達したような気がするから不思議だ。内容的には、タメにならないページはないというくらいの密度で、これから何度も読返すことになると思う。最後の「通訳五十則」は常に胆に命じたいと思う。分野に関わらず英語、あるいは外国語に関わる仕事をしている人間には必読書であろう。
ただ、それだけに細かいボロが時々出ているのが本当に惜しい。「ad hoc」に関してトンチンカンなことを言っているのは仕方ないにしても(どうも英語専門家にはなぜか「俺はラテン語が分る」と「思い込む」方が多いような気がする。何故だろう?)他の箇所で俗流解釈や通説をたしなめておいてこれは滑稽である。それに、ある程度は仕方ないとしても、そのままの横文字があまりにも頻繁に捩じ込まれ、これなら岩波新書の英語関係書物みたいに横組にした方がよかったのではないだろうか。
とはいえ、名著であることは間違いない(上の上)
文芸批評家で誰が一番好きかと言われれば今も昔も何の躊躇もなく中村光夫と言うであろうことを進んで認める評者であるから、中村光夫の作品は色々と愛読してきたが、この明治から昭和初期までの小説を通覧してみせた(聞いたこともないマイナー作家まで網羅されており、これだけでも大変な労作である)この著作も最初から最後までとてつもない緊張感で評者の小説観を揺さぶり続けてくれる。特にやはり鴎外・有島武郎・漱石・芥川・谷崎など大家に対する批評はさすがに鋭く面白い。ずっと愛読していきたい作品である。
こんな文芸批評家が後にも先にもいないことを考えると(特に「後」は全く情けないとしか言いようがない……)全く偉大な存在だったと言える(上の上の上)
御存知藤原氏をその誕生から近現代に至るまでざっと辿ったもの。と言ってもやはり中心は道長・頼通までで、その後は後日談的な雰囲気でしかない。もちろん概説書で、対象は素人なのだろうが、高校日本史程度の知識があった方がずっと楽しめるだろう、と言うよりそのくらいの予備知識がないと前半は色々なややこしい名前がゾロゾロ出てくるので中々ついていきにくい。それはともかく、他氏排斥や身内争いの得意な藤原氏のあまりにもえげつないあり方が嫌というほど分って嫌になることができる。トホホというよりももうダメ人間と言った方がいい天皇などの事例も多く紹介されており、歴史を学ぶ別の意義を自覚させてもくれる(個人的に、讃えるだけの歴史マニアというのは大嫌いで、評者が長らく歴史アレルギーだったのもその辺に原因がある)。
多少面倒臭い書物だが教養を身につける上では有り難い(上の中)