CM2S書評
その9

小沼純一『サウンド・エシックス』(平凡社新書(2000))

商業的な売るための批評でも純文学的な批評のための批評でもなく、現在の音楽そのものを取り巻く状況をそのものとして論じようとした小著であるが、要するに青土社系ポストモダン批評ニューエイジ風味で色々な音楽を撫で回しているに過ぎない(著者は予想通り仏文関係者である)。常々思うのだが、こういうものはサンプルCDでもつけないと意味ないのではないのか。というより、こんなもの読んでいるよりも、色々なものを聴きまくった方がよほどいいのではないのか。とにかく全体に漂うニューエイジ的というのか、『ユリイカ』(まだあるのか?)とかあの辺の雰囲気が邪魔で、「まだこんなことやってるんだ。というかまだやれているんだ」という感覚を最後まで拭い切れなかった。
多少褒めるべきところがあるとすれば、自閉的でなく横断的に何でも論じるという音楽批評が生じつつあるのは喜ばしい限りである。が、「テクノポップのようなつまらない音楽」などと思わず底の浅さを晒す表現があったり、やっぱりニーチェが出てきたり(こういう表面的にニーチェをなぞって陶酔する輩のいまだに何と多いことよ…)、緊張感が緩むと物言いがポストモダーンに堕したり、まだまだこれからだなという気分にもさせてもらえる。

相変わらず変わってないんだな……という感じで脱力である(中の下)


平井正『ゲッベルス』(中公新書(1991))

中公新書にはナチ関連タイトルが五冊以上も収録されているが、これも面白い(小谷野先生が嘆いておられた覚えがあるが、日本の新書はいつからこんな情けないものになったのだろうか……)。評者も小さい頃はナチ的なイメージ戦略を「カッコいい」と思ってしまい(もちろんナチズムになど今更何一つ賛成はしないが、いくつかのイメージにはいまだに魅力を覚えるのも正直な事実である。ヒトラーの演説は今見るとお笑いだが、党大会の映像などは今見ても単純にシビレる)、それを作り出した人間としてゲッペルスにはアイドル的な羨望を抱いていたものである。それがガラガラ……というわけではないが、ヒトラーとはまた違う意味で悲しい人なのだな……と哀れを感じてしまった。
文学青年だったのはいかにもという感じだし(古典文学通だったというのは、当時古典研究と言えばドイツだったからよく考えれば当然だが、ちょっと驚いた)、ヒトラーとの確執があったというのもさもありなんで、別に驚かないが、無類の女好きだったとか、エイゼンシュタインを絶賛する反面でリーフェンシュタールは嫌っていたとか(言われれば納得だが)、日本好きどころか駐日大使になりたがったとか、さすがにドッキリする内容も沢山あって面白い。ゲッペルスの小説を読んでみたいと思ってしまった。
ゲッペルスの宣伝戦略の中にはいまだに有効どころか「盗めそう」ですらあるものが見られ(評者はある箇所で某ロックバンドの宣伝戦略を連想してしまったくらいだ)、やはり頭のいい人ではあったのだなと思わされる。

しかしナチズムというのは知れば知るほど「何でこんなものが」という気分にしかならないな……(上の上)


潮匡人『田中知事の「真実」』(小学館文庫(2001))

残念な本である。田中康夫の愚劣さなど、彼の書いたものをちょっとでも読めばすぐ分かりそうなものだが(評者はデビュー作『なんとなく、クリスタル』は悪くないと思うが、それ以外はまぁひどいと思う)、一体彼を誰が支持しているのだろうか、ますます分からなくさせてくれる。批判本であるから、たとえいい面があるにしてもそれは無視しているのだろうなとは思うが(著者はバカがつくほど正直な人らしいので――それは好感が持てる――ひょっとしたら本当に何一ついいことをしていないということなのかもしれないが…)、まぁここまでひどいことがよくできるものだと呆れさせられる内容が並んでいて、嫌というほど嫌になる。馬鹿丸出しの暴言の数々は別に驚かないが、いまだに副知事不在など信じられない杜撰さ、信じがたい馬鹿で無様な文章を垂れ流す厚顔無恥さなど、こんな人間が県知事をしていていいのかと、長野県民が見下している(らしい)富山県民ですら馬鹿にしたくなる。一体何なのだ。
著者の正直さ・愚直さ・無骨さにはむしろ好感が持てるが、そのおかげで批判の調子が今一つ低調になっているのは否めない。もっとえげつない批判を容赦なく加えないと、こういう愚劣な権力者はビクともしまい。そういう点も非常に残念だ。正直なだけにごまかせなかったのだろうが、不用意なボロもいくつかさらしていて、その点も惜しい(愚劣な相手に立ち向かう時こそ、こういう点は念を入れてしっかりしないといけないのである。893に対するのと同じである)。
もう一つ、所々に顔を出す浅田章の愚劣さにも呆れさせられる。長野県知事と京大教授がこれである。日本は沈没するね……

著者には好感を持つが、今一つ力不足なのは残念(中の上)


武田邦彦『リサイクル幻想』(文春新書(2000))

これはすばらしい! 中学高校の読書感想文の課題図書にするべきだ。評者が今まで読んだ新書の中でも一二を争う内容だと思う。
タイトルが示す通り、巷のリサイクル幻想を一網打尽にした後(評者も色々としては「いいことしてるな俺って」という気分に割と浸ってきた方であるから、これは少なからずショックを受けた。やはり無知は悪である)、単なる文句言いや皮肉だけでなく、具体的な提案もきちんとしてくれる(実現されるかどうかは障害が多いので悲しいかな怪しいとは思うが……)。「石油は一旦全てプラスチック製品に」「火力発電所はプラスチックゴミを燃やせ」「人口鉱山を作れ」といった、柱となる提言はまさに目から鱗体験で、久々にこんな知的興奮を味わえて嬉しい限りである。この著者の提案の通りに物事が運んだらさぞすばらしかろうと思う。
派手な名著の常ということになるのかもしれないが、強引な箇所があると言えばある。特にダイオキシンに関する内容は、このままでは説得力がなく、素人は安心させてもらえない。卑怯なごまかしがないのは正直で好感が持てるが……

間違いなく名著だ! これを読んでいない人間はリサイクルについてものを言ってはいけないだろう(上の上の上)


碓井真史『なぜ「少年」は犯罪に走ったのか』(KKベストセラーズ:ワニのNEW新書(2000))

タイトルに釣られて買ってはみたものの、結局「精神屋」の底の浅さを再認識するだけになった。結局こういう「精神屋」は事件をダシにして、いつものお決まりの御託を垂れ流すことしかできないのか。自分たちだけが本質を分かっていて哀れんでいる、という雰囲気がプンプン漂ってきて、「精神屋」というのはナルシストなんだなという感想が最後に残る。マスコミが色々と新しい言葉を作ってはレッテル張りに使うことを非難しておきながら、自分たちも無反省に色々とよく分からない用語を振り回しているという明らかな自己矛盾はその際たるものだろう。色々な少年犯罪が実例として挙げられているものの、どれもこれも掘り下げが足りず、物足りなさにイライラすることこの上ない。おまけに、結局言うことが曖昧で、ならばどうすればいいのかということは最後まで得られない、というか何も言ってくれない。

これで少年犯罪が減ればそれは奇跡だ。彼等は内心では少年犯罪があってほしいと思ってすらいるんじゃないだろうか。(下の中)


中島文雄『日本語の構造』(岩波新書(1987))

サブタイトルが「英語との対比」とあるように、日本語と英語の文法構造を言語学を駆使してざっと解説してくれる小著。例によってNだのNPだのがついた樹枝図が出てきたりして、時々内容が専門的すぎるきらいがあり、素人にはなかなかキツいこともあるが、反面で内容は確かにしっかりしており、ついていければ得るものはある。和歌など、古典がふんだんに盛り込まれていて、また所々マメ知識めいたことも書いてあって、ただ硬いだけの雰囲気にはなっていない。
一つ下で言ったばかりのことを自分でやるようで我ながらどうかとは思うが、かつての新書は確かにこう割と敷居の高いものではあったが、その分内容は確実にあった。それにひきかえ今は……と思うと、また絶望感に駆られる……本当に教養は死んだらしい

でも敷居はまだちょっと高いなぁ……(上の下)


尾形尊信『英語の誤訳』(丸善ライブラリー(1998))

「Successは『成功』ではない」といった類の愚痴が都合二十くらいが、例によって英語よりも、それにかこつけたにわか文化論的な八つ当たりの方がメインという雰囲気で延々と続く。「またか!」という感じである。どうしてこう英語屋は、英語のことだけ言っていればいいものを、途端に越権して英語教育糾弾だの文化論だの社会批評だの民族性非難だの、挙句の果てには「俺は偉い! お前はバカだ!」だの、そういうことを言い出すのだろうか。正直、こんなクズ本が腐るほどあるというのがそもそも日本の英語産業の貧困を体現しているんじゃないかと、またがっかりさせられる。最後に名訳が載せられてはいるが、完全におまけだし、これだけグチグチ言われた後では読む気もしないというものだ。分量を逆転させるべきだった。

例によって、有益な情報を圧倒的な「雑音」がかき消す類のダメ英語本第X号。まだどれだけこの手の本を垂れ流すつもりなのだろうか……(下の中)


岩永文夫『フーゾクの経済学』(KKベストセラーズ:ワニのNEW新書(2000))

ヘルス・イメクラ等の新興風俗から芸者遊びという超古典風俗まで、日本の風俗産業を「お金」という側面から俯瞰してみたという、今までありそうでなかったタイプの書物である。こじんまりとしてはいるが、中々ポイントよくまとめられていて、これはこれで結構読める。評者も独り者ゆえ、こういうお店にはそれなりに厄介になっていて、大変さもそれなりに外野ながら分かっているつもりだが、こうやって数字を突きつけられてみると、その印象がますます強くなる。タイトルだけ見るとお金絡みのことしか書かれていないようにも見えるが、もちろんそういうことはなく、裏話などもバランスよく盛り込まれていて、数字をすっ飛ばしても十分読める。どういう形にしろ個人で開店するのはほとんど不可能であり、法律面など「お上」の締め付けはますます厳しくなっているなど、えもいわれない嫌な気分にもさせてもらえる。

この業界に関心のある向きには必読の書であろう。取材対象とは裏腹に、好著である(上の上)


武田京子『わが子をいじめてしまう母親たち』(ミネルヴァ書房(1998))

これまたタイトル通りの本。何とも気が滅入る内容ではあるが、よくある「女はすばらしい! 男は最低! 悪いことは全部男及び男社会のせい」という糾弾本でないだけ、まだ救われた気がするのが救いかもしれない。ただ、これを読んだからといって、虐待をしている親がやめるかと言えば疑問である。そういう不安を掻き立ててくれる「空しい人生論」は一杯もりこまれている(「〜くらいでノンビリ子育て」とかそういう類の無責任かつ効力のないアドバイス等々)。書物としてバランスは取れており、内容にもかかわらずそんなにイライラせずに読めるが、その分あまりインパクトはない。
つまるところ、日本は女の教育ということをサボってきたのだなという感覚はますます強くさせられる。無能で頭が悪く、それでいて妙に屈折しひねくれた精神構造だけが肥大している母親が増殖して、その資格もないのに無計画に子供を生んで、結局虐待、そんな構図が如実に見えて、とてつもない絶望感に襲われる。結局どうすることもできないことなのであろうか……人間ババア化したら終わりなんだな。それにしても女の精神構造ってどうしてこうややこしいんだろうか。敢えて言おう。社会をややこしくしているのは男ではなく女である。

これじゃ少子化するわ、という感覚を新たにさせられる(中の中)


『新恋愛小説読本』(本の雑誌社(2001))

タイトル通りの本。安原顕(異体字を使わないと怒る人間のことなど知らん!)さんが記事を書いていたりするので、かなり古い本だろうと思ったら、何とこんなに最近の本だった。出版業界というのは相変わらずのものだなということが分かって嫌になるほど嫌になる本第]号に過ぎない。紹介されている小説も割りとありきたりなら、紹介の仕方も紋切り型で、お約束のなんだかふざけた調子の座談会とかもあって、「いつまでこんなことしてんの?」という気にさせられるだけ。これじゃ出版不況・活字離れは治らんよ。

もうちょっと「これはさすがだ!」というものを見せてくれていればよかったのだろうに……(中の下)


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