こんな妙チキリンな書評ページを一体どのくらいの方が読んでいるものか知らないし今更そんなに知りたいとも思わないのだけれど…
この書評コーナーもこれで結構長くやってきた…
突然だけれども、思う所あって哲学書は別扱いにしてみようと思った…
というわけでのこのページであります…
御注意
思う所あって、この「哲学書」コーナーに限っては「評価」(「上」とか「下」とか、あるいは点数とか…)はしません
このページのおしながき
有島武郎「惜しみなく愛は奪う」/ カミュ+サルトル+ジャンソン「革命か反抗か」
有島武郎「惜しみなく愛は奪う」
いまさら言うまでもなく著者は「或る女」や「カインの末裔」の作者のあの有島武郎である
しかし、これは驚いた! どうしてこれは真っ当な哲学書で、著者有島武郎のちょっとした思想体系のようですらある。つまり、素晴らしくまとまっている
どうせ、小説家が自分の感覚で愛というものを語ってるんだろう(古今東西小説家や詩人が非常にしばしばそういうものをものしているように)、そしてどうせ結局は「キリスト教的な愛」の方に持って行くんでしょ?と思っていたが、どっちも全然違う
まず、著者有島武郎が説く生活の三形態、そしてその内でも著者が最重視する「本能的生活」及び有島が理解する「本能」(それは「個性」とも「私」とも言われる)の説明、その上で、いよいよ有島の理解する愛の説明がなされ(ここでタイトルの意味もようやく分かる)、それを踏まえて芸術論・社会論・教育論なども展開される
著者有島武郎の説く愛は無論キリスト教的なそれと「通じる」ものはあるが、彼独特の理解がされている。もちろん、イエス・キリストという存在に対する考え方も独特である
最終的に著者有島武郎の立場は一種の実存主義的思想とでも言いうる所に達しており、そのことも驚かされる
哲学研究者によるものではないだけに「エッセイ」の範囲を出られないものではあるが、限りなく哲学書に近いエッセイとして、なかなかに読める。むしろ、学部生あたりに読ませるのに適しているかもしれない
蛇足的に… 評者・私が今回読んだのは青空文庫に収められているものであるが、社会変革を語った個所に十行ほど検閲で削除された部分がある。読んでいく上で大勢に影響はないが、何とも窮屈な時代だったのだなと思わされる(これが後に復元されているのかどうか今現在評者・私は知らない…)
実は、評者・私は高校生時代にこの書物を読もうとして、しかし何が書いてあるのか全く理解できずに早々に投げ出した憶えがあるのだが(「恋愛論」の書物だと思っていたのである… もちろんそれも間違ってはいないのだが… まぁどだい平均的高校生には無理な話だったのかもしれない…)、今回久々に読んで大いに驚いた! 人は変わるものである…
蛇足ながら断っておくが、ここで取り上げられる哲学書に特に「脈絡」はない(別のページのように何かある方針に沿って読んでいくということがない限り)… 評者・私が読んだものという意外の共通点は別にないし、それは評者・私以外にはあまり意味を持たないだろう…
実はカミュは若い頃から好きな思想家で、特に「シーシュポスの神話」は愛読書の一つであった…
(「若さゆえの…」何とやらであるが… 若い頃は「もうこの世から消えてしまいたい…」という衝動をこの書物を読むことで何とか抑えていた…ということがあった…恥ずかしながら…)
さて… この書物も若い頃から何度か読んだ、いや正確に言えば読もうと試みたはずなのだが…全く理解できなかった…
当時はまだカミュの「反抗的人間」を読んでいなかったり(読んだのは学部生時代だったと思う)、マルクス主義に対する姿勢が定まっていなかったりしたので(評者・私が「資本論」を読んだのは院生になってからである…)、それも当然だったと思う…(サルトルは…いまだに彼の主著(「存在と無」などの…)をちゃんと読んだことはない…)
今回、ずいぶん久しぶりに読んでみて、ようやくどうにか分かったような気がした…
とはいえ… サルトル率いる「ネオ・マルキシズム」陣営がカミュをタコ殴りにしている、という印章が拭えない…
訳者・佐藤朔によるあとがきにもある通り、論争の「勝敗」を決めるとすれば、確かにサルトルの方が理論的な一貫性といい、思索の深め具合といい、一段も二段も上を行っている、それはその通りだと思う…
また、「言い出しっぺ」のジャンソンが主に主張する通り、カミュの姿勢は人々の連帯を生まず、あくまで個人的な反抗にとどまり、それは内面化を通じて無為に容易に堕する、それもその通りかもしれない…
しかし…マルクス主義では「真の反抗」にならない、とカミュが何とか「頑張ろう」とするのを贔屓したくなる気持ちも、評者・私はぬぐえないのである…
2024年現在マルキシズムは「過去のもの」とされ、社会変革の思想としては失敗した(どう贔屓目に見てもごく限定的な意味合いを除いては「成功した」とは言えまい…)と言わざるをえないだけに、カミュの姿勢の再検討も有効なのではないか…とも思いたくなるのである…
思想上の内容とは別に、サルトルの人としてのカミュ評がものすごく辛辣なのには今更ながら驚いた… 我々はサルトルという人がいかに「ろくでなし」だったかということも今日知ってはいるが… これでよく「友情」が成り立ったものである…
ポスト冷戦、テロリズムと独裁国家の時代の今、社会変革の理論というものも(依然としてそういうものが成立しうるとして…であるが…)根本から考え直されるべきなのかもしれない…