CM2S書評
哲学書

こんな妙チキリンな書評ページを一体どのくらいの方が読んでいるものか知らないし今更そんなに知りたいとも思わないのだけれど…

この書評コーナーもこれで結構長くやってきた…

突然だけれども、思う所あって哲学書は別扱いにしてみようと思った…

というわけでのこのページであります…


御注意

思う所あって、この「哲学書」コーナーに限っては「評価」(「上」とか「下」とか、あるいは点数とか…)はしません


哲学書01
「近代日本思想選・三木清」/森村進「幸福とは何か」/ヤスパース「哲学入門」/和泉悠「悪口ってなんだろう」/森葉月「宗教・反宗教・脱宗教 作家岩倉政治における思想の冒険」/村上靖彦「客観性の落とし穴」/倉田百三「絶対的生活」/藤原聖子(編著)「日本人無宗教説」/山口裕之「「みんな違ってみんないい」のか?」/笹沢豊「<権利>の選択」

このページのおしながき

ハート「法の概念」/ カント「実践理性批判」/ サルトル(「世界の大思想」第18巻)/ シュル「機械と哲学」/ ラズ「価値があるとはどのようなことか」/ デネット「心はどこにあるのか」/ リドレー「徳の起源」/ バタイユ「内的体験」/ 有島武郎「惜しみなく愛は奪う」/ カミュ+サルトル+ジャンソン「革命か反抗か」


ハート(長谷部恭男訳)「法の概念」

「分析法学」の嚆矢となった巨編の新訳(らしい…) これが文庫本で読めるのはありがたい

(いまさら「〇〇〇書房」とかの、四捨五入すると一万円になる本を買う余裕はあまりないのである… 「一般人」の手が届くのはせいぜいで「かつての」法政ウニベルシタスとかまでであろう…(ウニベルシタスも最近は「〇〇〇」化しているようだし、勁草なんて地方書店には売ってない))

「法律は命令である」「法律と道徳には必然的な「絆」がある」という二つのテーゼを斬る返しでハート自身の法概念を説く、という論法になっている

とりあえず双方とも説得力はあるように読んだが… 議論はなかなかに「面倒臭」く、そうそうすんなりと分からせてもらえるものでもない、ものの… 「一次ルールと二次ルールの結合」という極めて「ドライ」な著者の法理解が際立つようにはなっていて、そこはなるほどと思わされる…

というより… 後からなら何でも言えるというやつだが、こんなことに誰も気付かなかったというのが不思議なほどである…

(評者・私はハートが俎上に載せている「自然法」の立場の研究もしていたのでそちらからの興味からも読んだのだが… ストア派が実は同じことを言っていた、などと威勢のいい若手研究者みたいなことをいまさら言おうとは思わないものの、ちょっとなんかそんなようなことを言えないかなんて…まぁ…その…(ごにょごにょ…))

分量もさることながら(これで1500円というのは安く感じる(のも「麻痺」してるのかもしれんけど…))、完全な学術論文なのでかなり「ハード」ではある… その点、読み方を誘導されてしまう恐れはあるが、「解説」を先に読むことをお勧めしたい(原著は解説が冒頭に置かれているらしい)…

もう一つついてるドヴォーキンの批判に対する応答は、ドヴォーキンの批判のポイントがどういうことなのかよく分からないことも相まって、正直何だかよく分からない…

翻訳について特に不満というほどではないが、特に誰の意見かが錯綜するような場面でどちらの立場のことを言っているのか一読しただけではよく分からない訳が散見されて、それが着いていきにくさを増幅してしまっているように感じた。訳文の工夫でもうちょっと何とかなったのでは、というのは贅沢か…

もう一つだけ、長い修飾句の後で「、」と打つ癖がある訳者らしく、たびたび「ん?」と思わされることがあった。 「西荻窪・阿佐ヶ谷・高円寺には止まらない、快速電車に乗ったら乗り換えをしなければならなくなる」例えば←このような…


とはいえこの歴史的な名著が手軽に読めるのはすばらしい 法律を勉強している向きが読んでもあまりためにはならないかもしれないが、違った角度から法律を見られて爽快かもしれない、くらいは言わせていただいても罪にはならないだろう


カント「実践理性批判」(岩波文庫)

とか何とか言ったしりから「かつての哲学」の代表格を読んでみたりするのであるが…

いまさらながら、読むのは恥ずかしながら実は初めてである(「原論」「基礎付け」の方は読んだことがある)

(とはいえ… 哲学科の学生がどのくらい「こういうもの」を読んでいるものか? ちょっと調査してみたくなる意地悪さを禁じ得ないのである… 自分の専門外のものは案外読んでいないのではないだろうかと推察するが…

(評者・私は「読んでる」方だと思ってきたし今もそう思っているが(「世界の名著」の全巻読破を試みたりしていることだし)… 例えばカントや大陸哲学の専門家以外が純粋理性批判をどのくらい読んでいるものなのだろうか(ちなみに評者・私は院生時代に読んで感銘を受けた)))

脱線はともかく… いやさすがに、功利主義倫理学とタメを張る義務論的倫理学の代表としていまだに君臨するカントの、これは間違いなく労作である。

経験に全く依存しない倫理学ということを目指して、なんとこともあろうに純粋論理学的なアプローチで道徳律を確立しようと目論む離れ業で、そのあまりの崇高さと、時に感じる意外な「モダンさ」にはやはり感銘を受けた。これはやはり読む価値のある著作である。

そして、このアプローチは前作・純粋理性批判あってのものである、ということもよく分かって、やはり純粋理性批判は名著であると再認識した

(評者・私はかつて学部生時代や院生時代にも実践理性批判を読んでみようとして全然分からず挫折したのであるが、いきなり第二批判というのに実は無理があったのかもしれない…(し…単に評者・私の何かが「熟」していなかっただけなのかもしれない…)

評者・私ごときがカントについて意見を述べるというのもおこがましいことであるが…

では説得力あったか?…と言われると… 「う〜ん…」なのである…

やはり、「そうなっているんです!」といきなり言い切られる「実践理性の事実」とやらと、あまりに独特な自由のとらえ方、この二つがどうにも引っかかって今一つスッキリとはさせてもらえなかった… という点で純粋理性批判の時ほどの爽快感はないし… そういう点では「原論」のほうが、やっぱり強引ではあるが、よほどスッキリする…

それに、やっぱり分かりにくい… 院生時代に「カントは分かりにくくて当然である」ということを述べる哲学者に何人も出会って「そうだよな!」と院生同士とかでも言い合った覚えがあるが… やっぱり七面倒臭くややこしくて難解である…

(その辺、翻訳でちょっとでも何とかしようという試みをする研究者もあられるようで… 院生時代にそうした方の一人にお目にかかったこともある… 

にもかかわらずなぜ旧来の波多野・宮本・篠田訳を選んだかと言われるかもしれないが… これは…評者・私に試してみたい一つの試みがあるのである…(乞うご期待))


やはりこれは大事な著作である… 「義務論主義的な倫理学」と言われるといまだにこれを読まざるを得なくなるので倫理学者の方々は大変だと思うが(誰かこの方面で革命的な仕事をしないものだろうか… なんて無責任なことを夢想してみたりもするけれども…)


サルトル(「世界の大思想」第18巻)(河出書房新社(1976))

なお「「世界の大思想」を全部読んでみる」等の企画をやる予定は今の所ありません

「存在と無」の抄訳にマルクス主義批判関連の論考が二つという構成になっている

もちろん目当ては抄録ながらも「存在と無」なのであるが…

一言で言えば… 「私は私としてここに存在している」というたったそれだけのことを、厳密に現象学的に考察し数百ページに亘って論じた、という何とも気が遠くなるもので…

しかもその論述も「あらぬところのものである即自があるところのものであらぬ対自を…」と…万事この調子なのであるから、ややこしく面倒臭い… 言うまでもなく難解である… 「かつての」哲学の姿を垣間見てその「高尚さ」にクラクラする…

(著者サルトルはこの著作の後半で自らが禁煙を「試みた」(ということは失敗した、つまりタバコはやめなかったのであろう)際のことを現象学的に分析してみせているが、結局やめられませんでしたということをこれでもかッと面倒臭く論じているという図式になっていて、それ自体はなかなか笑えるとともに、サルトルという人の一側面が垣間見える気もする…)

現象学的な厳密さという観点からすると全く正道なのであるが… ウィトゲンシュタイン以降の哲学はこのような形で無反省にありうるものではなかろうがゆえに(まず読者を確保することが「現在」においては難しかろう… 同著の完訳がいまだに文庫本で手に入るのは、それ自体は誇らしいことだと思うが、サルトルという思想家の知名度の故に他ならなかろう(同じく大著であるヤスパースの「哲学」は今日どうやって読めばよいのだろうか?))、まさに過去の哲学を読む感がしみじみとした…(解説を読むとこれが「同時代思想」であったことが分かって何とも言えない(言うまでもなく出版時点でサルトルはまだ生きている))

二十一世紀になった今日、サルトルの現象学的実存分析の有効性は評者・私には正直よく分からないが…(評者・私は学生時代にデカルト専門家の教授から「サルトルのコギトはデカルトそのままであまり感心しない」ということを聞いた覚えがあるが… さもありなんとは思った…) おなじみの「粘液」をはじめとするユニークな論法やサディズム・マゾヒズムといった彼ならではの論題のおかげもあって、意外と苦痛無くは読める… に、しても… 全編はこれの何倍もあるので… 正直全編を読み直す元気は今はない…

マルクス主義批判の論考の方がまだ現代的意義はありそうだが… 肝心のマルクス主義がもはや過去の思想になりつつあるので、そこら辺も何か今一つ残念である… マルクス主義の「痛い所」をビシビシ突いていくのは痛快ではあるが…


二十一世紀になった今日、再評価がまたれる思想家の一人であるが… それはそれこそ「専門家」の腕の見せ所ではないだろうか…(しかし… サルトルはすぐれた小説家・劇作家でもあり「活動家」でもあったわけで… 「専門家」はなかなか大変だろうなとはお察しする次第である…)


シュル(粟田賢三訳)「機械と哲学」(岩波新書(1972(原著(1969))))

「お前の本質を一言で表せ」と言われればいまだに「テクノロッカー」と答える評者・私がいまだにこの書を読んでいなかったことを本気で恥じ、古本屋で見るや否や即買いしたものである(ちなみに「100円コーナー」にあった…)。

人類と機械の関りということを中心に据えて古代からマルクス主義までの哲学史を見直してみた、という内容的にも面白いものである(原著者は古代哲学の専門家でありプラトンに関する研究所も書いている(未見))。

「枝葉末節を取り除いてごく大雑把に言えば」、現在からみても驚異的な技術力を手工業嫌悪が無駄にしてきた古代から価値の転換が徐々に生じてフランシス・ベーコンの技術賛美に至り、産業革命を経て今度は人間を搾取する側に回った機械をまた哲学が非難するに至る、という… 何というか「きれいな」史観が見事である。これだけ読んでればとても面白いのは当然である(もちろんここからが哲学の始まりである…)。

というわけで、訳者はマルクス主義に近しい学者ということのようであるが… ふと思えば…古代哲学の研究者でマルクス主義に同情的な学者というのは岩崎允胤先生以来あまり聞いたことがない気もするが… 何人かくらいいてもいいような気がしないでもない(つうか…まったくどいつもこいつもアングロサクソンのブンセキテツガクとやらにかぶれて…と思わないでもない…おっとこりゃ失礼思わず本音が…じゃなかったやめときます…)…


ちょっと古臭くはあるけど面白い! 絶版品切れを大量に出すことでは評判が悪い岩波のことなので、今現在この本が「カタログ落ち」してないかどうか不安であるが…


ラズ(森村進・奥野久美恵訳)「価値があるとはどのようなことか」(ちくま学芸文庫(2022)(原著(2001)))

法哲学の権威による、価値論の本質に迫った論考 翻訳、というより「監訳」なのだが…、も御存知森村進先生だ

とはいえ、連続公演を一冊の本にまとめたものらしく、本質(いわば「核」(←「コア」と読んでほしい))をとことん追求したものというよりも、著者の問題関心領域を拾ってきたという内容に近い。

というわけで、著者が価値論の中心に据える「愛着」の問題、価値の普遍性、生きることそれ自体に価値はなく性の価値はあくまでその内容によるというテーゼ、それ自体で価値があるということはどういうことか、という問題が論じられる。

と聞けば、とても魅力的に聞こえるものの、著者特有の慎重な論述と、もしかしたらそれを反映しているが故の慎重な言い回しとが相まって、今一つ歯切れが悪い、という印象がやや残念で、「要するに何だったの?」「え?それだけですか?」感を禁じ得ない

と言うとけなしているようにしか聞こえないかもしれないけれども、議論の進行自体はとても面白く、哲学書を読み慣れている人間なら間違いなく「楽しめる」はずである(俎上に上げられているネイグルやノジックの論考を読みたくなった(ネイグルのは若いころ読んだはずなので再読だけど(部屋のどこかには永井訳があるはずである…))

奇しくもデネットの時と同じことを言う羽目になるが… 著者が退けたいと願う言説や立場の論駁という点に関しては説得力があるように思われる…(が…ここから始まるのが「哲学」である…)

議論はなかなかに「ハード」であって、慣れてないとなかなか着いて行きにくいかもしれないが、そこは「生活に密着した」実例がふんだんに引かれていて「浮世離れ」しない工夫がなされている(これが講演であることの利点かもしれない)。


明らかに玄人向きの書物である(哲学科の学部生か院生くらい向けであろう)がとても面白い書物である。このような専門書が文庫本で出ていることに感謝したい

なお、原著者のラズ氏はこの邦訳の第一刷発行直後に亡くなっており、評者・私わたくしもここでささやかながら御冥福を祈りたい


デネット(土屋俊訳)「心はどこにあるのか」(ちくま学芸文庫(2016(<1997)(原著(1996)))

例によってちくま学芸文庫が最近多いことに特に意味はない(今現在評者・私は依然入院中なのでスペースの問題から文庫本を選ぶことが多いが…)

この分野の第一人者による、ついでに言えば邦訳も日本におけるこの分野の第一人者による、心の本質に迫る論考

邦題は割とよく考えられたものだとは思うが、ちと誤解の恐れがあって、原題は「種々の心」「色々な心」とでも訳しうるもので、なるほど、人間以外の心との比較論から人間の心の本質に迫ろうとするのが論旨の一つである

とはいえ、主たる比較対象は人間以外(どうしても「以下」と言いたくなるが…)の動物で(その点この文庫版のカバーにクラゲが描かれているのはなかなか「にくい」)、進化論的に「単なる高度な志向的機構」と人間の心とを隔てるものは何か?ということが追求されていく

その過程はとても面白く読みごたえがあるのだが、原著者も最後に認める通り、それは言語に大いに関係がある、という割とすんなり予想できる答えをほのめかして何やら歯切れ悪く終わってしまうので、それが今一つ爽快な読後感に繋がらないのが、残念と言えば残念…

(とはいえ… 誠実な哲学研究者が暴論・奇論に陥らずに、また常識的かつありきたりな「妥当な線」に落ち着かずに、このような問題に明快な結論を爽快に披瀝してくださることを期待することの方が「安直」なのかもしれない…)

しかしながら、原著者も「成果」と自負するように、いくつかの(原著者言う所の)「過ち」、つまり「心とは脳(そのもの)である」「心とは脳(の中?・の背後?)にある何者かである」「動物の心と人間の心を隔てるものは科学では突き止められない何かである」等々、の論駁には説得力があると思われる

心は身体、いやもっと記憶媒体にまで拡張されるという見解は評者・私には新鮮であるが、この方向性がそんなに追求されないのは残念である…

し… もう一つ言えば、人間以外の心という点でたとえばロボットや電算機など人工物やプログラムなどにも心がある可能性にも示唆以上の特にこれといった追求が見られないのもまた残念である…


と書くと残念な書物であるように思われるかもしれないが、もちろんそういう「至らない」点を軽く補って余りある好著である。面白さは請け合ってもよい…

一つまた余計なことを言っておくと、訳者はあとがきで途中から読むことを提案しているが、評者・私にはそれは不必要な提案だと思われる… 少なくとも評者・私は最初から読んで分かりにくかったとか面白さが減ったとかは全く思わなかった…


マット・リドレー(岸由二監修・古川奈々子訳)「徳の起源」(ちくま学芸文庫(2024(<2000))(原著1996))

いわゆる徳倫理学の本ではなく「社会生物学」の本

つまり、人が利他的行動をすることの根拠を本能に求め、それを、霊長類を始めとする社会的生物の振る舞い、つまり生物学や、様々な民族の習慣、つまり文化人類学、さらに「囚人のディレンマ」などゲーム理論にまつわる研究成果など、主に「理系」的な論拠によって裏付けようとした試み

要するに、人間の本性・本能はひたすら利己的であるということは実はそれほど自明ではなく、逆に利他的な振る舞いもむしろ本能の命ずる所なのである、人間とはそういう生物なのだ、と立証しようとしたもの

とにかく、出てくる実例が豊富で面白く、それを追っているだけでも大変楽しい書物である…

しかも、その余波で「高潔な野人」神話(汚れなき原始の人々は学も理論も無くても高潔な道徳性を有していた、という類の「神話」)や環境活動家の欺瞞を暴いたりもしてくださって痛快ですらある

とりあえず、とても面白い

哲学的にも「ホッブズ対ルソー」の対立(「ざっくり言えば」性悪説対性善説・あるいは人間の利己的本性と利他的本能)の調停、そしてこの両者からの潮流の総括など面白いことを論じており、人間の利他的な本能を育て利己的な本能を諫める政策を「小さい政府」でなすべきであるという政治学的結論も説得力あるように思われる

ただ…哲学徒というのは因果なもので…この書物の面白さは大いに認めるものの、だからといって「気になる点」がないかと言えば、これが結構ある…

まず「他人を思いやる遺伝子」という副題は邦訳のオリジナルのようだが(原著の副題は「人間の本能と協力の進化」とでも訳しうるもの(確かにこれではインパクトに欠けるというのは分からなくもない…))、著者はそこまで強い主張はしていないように思われる(この書の中でチョムスキーの生得文法説を「遺伝子に動詞の変化が書き込まれているという馬鹿げた主張」と揶揄していたりする)し、人間の利他的な行動が本能に基づくものだとしても、そこからそれが遺伝子によるものだとするにはまださらに多くの裏付けが必要だと思う(要するにまだ「遠い」)

また、利他的行為の源を本能に求めることに説得力があると認めるにしても、著者の言うその利他行為とは結局自己利益の拡張形、つまりは打算的なものに過ぎず、「真の利他行為」ではないのではないか?という疑念は評者・私はぬぐい切れなかった…

いや、いまさらカントなんてお方にわざわざ御登場頂くまでもなく(ここで「いや義務論倫理学の観点から…」などと言ってみてそれがただちに説得力を持つのは今や「哲学側」の人間に対してだけであろう)、そんな「真の利他行為」などというものはないのだ、というのであれば(「他者を手段ではなく目的として」などというのでなければ真の利他にはならない、などというのはそれこそ「神話」なのかもしれない)、それはそれで一つの立場である(著者もそういう立場に同情的であるようにも見える)し、その上で一貫した理論を展開することも可能であろう…

しかし、評者・私のおせっかいな危惧であるが、このような「裏付け」をいくら積み重ねたところで、それは徳、つまりは道徳性の源の探求にはならないのではないかと思うのだ…

つまり、どこまで行ってもそれは「拡張された自利」追求の根源でしかないのではないか、と思うのである…

(ここで、「いや利他行為の究極は自己犠牲でありそれは自利ではありえない」と言った所で、それは自己が、それを犠牲として捧げるもの(種族など)を含むまで拡張されているに過ぎないと言われて議論が振り出しにもどる可能性がある… というか、生物などの例はむしろそういう理解に親和的であるようにも思える…)

そして、すると、このような議論をいくらしたところで、たとえば「道徳は欺瞞である」などという主張をする陣営(評者・私は個人的に「ニーチェの尻馬」と呼んでいるのだけれど…)にはそれこそ「痛くもかゆくもない」ことにはならないか、とも思われるのである…

だったらどうすればいいのか? それは…この書物のような探求の成果を「もうひとひねり」してそれが道徳性のもっと深い根源に食い込むようにする、ということしかないと、何だか無責任なことをもっともらしく言うことしか今はできないのであるが…


とはいえ… とても面白い書物であり、楽しく読めることは請け合ってよい


バタイユ(江澤健一郎訳)「内的体験」(川出文庫(2022)(原著1943))

バタイユを読むのは若い頃に「エロティシズム」を読んで分かったような分からなかったような…だった以来である…

率直に言って、今回もはっきり言って分からなかった…

恐らくいわば「神なしの神秘主義」とでもいうことを説こうとしているのだろう、と何となく理解したが、それが簡単なことなはずはなく、思想内容はとても辿るのが難しい…

というわけで、評者・私がこの書物をどれだけ理解できているのかは全く心もとないが… 正直あまり再読したいとも思わない…

この書におけるバタイユの思考を辿るのは恐らく簡単なことではないが、その手掛かりとなってくれるのがバタイユによる過去の哲学思想への言及であり、なかんずくヘーゲルへのそれであることにはちょっと驚いた…

今回評者・私が読んだのは河出文庫に収められたもので、バタイユの手稿などをふんだんに引いた膨大な注は確かに理解の助けになる(手稿等の方が分かりやすいことが多々ある)…もちろんそれでも難しいのであるが… ただ、注の付け方があまり親切でなく「行方不明」になることが多々あった…


バタイユについて何かアドバイスをする資格は評者・私にはないが、おそらくバタイユで最初に読むべきものではないという予感がする(多分、バタイユ自身の著作を含め、もっととっつきやすく分かりやすいものがあると思われる…)


有島武郎「惜しみなく愛は奪う」

いまさら言うまでもなく著者は「或る女」や「カインの末裔」の作者のあの有島武郎である

しかし、これは驚いた! どうしてこれは真っ当な哲学書で、著者有島武郎のちょっとした思想体系のようですらある。つまり、素晴らしくまとまっている

どうせ、小説家が自分の感覚で愛というものを語ってるんだろう(古今東西小説家や詩人が非常にしばしばそういうものをものしているように)、そしてどうせ結局は「キリスト教的な愛」の方に持って行くんでしょ?と思っていたが、どっちも全然違う

まず、著者有島武郎が説く生活の三形態、そしてその内でも著者が最重視する「本能的生活」及び有島が理解する「本能」(それは「個性」とも「私」とも言われる)の説明、その上で、いよいよ有島の理解する愛の説明がなされ(ここでタイトルの意味もようやく分かる)、それを踏まえて芸術論・社会論・教育論なども展開される

著者有島武郎の説く愛は無論キリスト教的なそれと「通じる」ものはあるが、彼独特の理解がされている。もちろん、イエス・キリストという存在に対する考え方も独特である

最終的に著者有島武郎の立場は一種の実存主義的思想とでも言いうる所に達しており、そのことも驚かされる

哲学研究者によるものではないだけに「エッセイ」の範囲を出られないものではあるが、限りなく哲学書に近いエッセイとして、なかなかに読める。むしろ、学部生あたりに読ませるのに適しているかもしれない

蛇足的に… 評者・私が今回読んだのは青空文庫に収められているものであるが、社会変革を語った個所に十行ほど検閲で削除された部分がある。読んでいく上で大勢に影響はないが、何とも窮屈な時代だったのだなと思わされる(これが後に復元されているのかどうか今現在評者・私は知らない…)


実は、評者・私は高校生時代にこの書物を読もうとして、しかし何が書いてあるのか全く理解できずに早々に投げ出した憶えがあるのだが(「恋愛論」の書物だと思っていたのである… もちろんそれも間違ってはいないのだが… まぁどだい平均的高校生には無理な話だったのかもしれない…)、今回久々に読んで大いに驚いた! 人は変わるものである…


カミュ+サルトル+ジャンソン「革命か反抗か」(新潮文庫(1969))

蛇足ながら断っておくが、ここで取り上げられる哲学書に特に「脈絡」はない(別のページのように何かある方針に沿って読んでいくということがない限り)… 評者・私が読んだものという意外の共通点は別にないし、それは評者・私以外にはあまり意味を持たないだろう…

実はカミュは若い頃から好きな思想家で、特に「シーシュポスの神話」は愛読書の一つであった…

(「若さゆえの…」何とやらであるが… 若い頃は「もうこの世から消えてしまいたい…」という衝動をこの書物を読むことで何とか抑えていた…ということがあった…恥ずかしながら…)

さて… この書物も若い頃から何度か読んだ、いや正確に言えば読もうと試みたはずなのだが…全く理解できなかった…

当時はまだカミュの「反抗的人間」を読んでいなかったり(読んだのは学部生時代だったと思う)、マルクス主義に対する姿勢が定まっていなかったりしたので(評者・私が「資本論」を読んだのは院生になってからである…)、それも当然だったと思う…(サルトルは…いまだに彼の哲学的な主著(「存在と無」「弁証法的理性批判」などの…)をちゃんと読んだことはない…)

今回、ずいぶん久しぶりに読んでみて、ようやくどうにか分かったような気がした…

とはいえ… サルトル率いる「ネオ・マルキシズム」陣営がカミュをタコ殴りにしている、という印章が拭えない…

訳者・佐藤朔によるあとがきにもある通り、論争の「勝敗」を決めるとすれば、確かにサルトルの方が理論的な一貫性といい、思索の深め具合といい、一段も二段も上を行っている、それはその通りだと思う…

また、「言い出しっぺ」のジャンソンが主に主張する通り、カミュの姿勢は人々の連帯を生まず、あくまで個人的な反抗にとどまり、それは内面化を通じて無為に容易に堕する、それもその通りかもしれない…

しかし…マルクス主義では「真の反抗」にならない、とカミュが何とか「頑張ろう」とするのを贔屓したくなる気持ちも、評者・私はぬぐえないのである…

2024年現在マルキシズムは「過去のもの」とされ、社会変革の思想としては失敗した(どう贔屓目に見てもごく限定的な意味合いを除いては「成功した」とは言えまい…)と言わざるをえないだけに、カミュの姿勢の再検討も有効なのではないか…とも思いたくなるのである…

思想上の内容とは別に、サルトルの人としてのカミュ評がものすごく辛辣なのには今更ながら驚いた… 我々はサルトルという人がいかに「ろくでなし」だったかということも今日知ってはいるが… これでよく「友情」が成り立ったものである…


ポスト冷戦、テロリズムと独裁国家の時代の今、社会変革の理論というものも(依然としてそういうものが成立しうるとして…であるが…)根本から考え直されるべきなのかもしれない…


まぁ… お暇なら読んでみてください…
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