旧足守藩(岡山市・足守)・木下家の初代・木下家定公(常光院殿)は
北政所「ねね」の兄で、祖父・杉原家利(高安院殿)の嫡子となった桃山期の武将です。
秀吉公より菊桐の御紋と豊臣姓を賜わり、晩年、二位の法印となりました。
母・朝日(康徳寺殿)は浅野長政の母・こい(雲亮院殿)と姉妹で、
家定・「ねね」兄弟は浅野長政といとこに当たります。
妻は杉原七郎左衛門平家次の娘「おあこ」(雲照院殿)です。
祖父・杉原家利(高安院殿)は幡州龍野(加美郡杉原)より尾張朝日村に移り住んだ人
であると言われています。
FAQ2 木下長嘯子って誰?
という歌を詠んでいます。
FAQ3 木下利玄ってどんな人?
の一首は
足守にある「おみず」の亀島の歌碑にみることができます。
大正14年1月15日没。足守町の大光寺に眠る。
おみずの亀島に建つ白樺派の歌人・木下利玄の歌碑
この歌碑は利玄さんを慕う足守藩の旧臣たちによって建てられたということです。
足守藩の旧家臣は表衷会という会を結成して、旧交を暖めていたといいます。(戦前の話)
この歌碑の傍に立っていると、植物と旅がお好きだった利玄さんの声が聞こえてくるような気がしてきます。
利玄さんは貴族的でいて庶民的なおやさしい人柄であったようです。
(これは利玄全集に収録されている利玄さんの日記を読んだ私の受けた感じです。)
多くの方は瓢箪と聞かれただけで「太閤秀吉」を連想されるのではないでしょうか。
瓢箪それも燦然と金色に輝く千成瓢箪は織田信長公の天下統一の大業のため
ひた走りに走った若き日の秀吉公を象徴する馬印といえるでしょう。
それはあたかも,神武天皇の国家統一のご偉業に際し,どこからともなく飛来した
金鵄の輝きを彷彿とさせるものがあります。
一方,五七の桐は太閤桐とも呼ばれ,秀吉公に勅許された豊臣・木下家の家紋で、
秀吉公やねねが使った什器類などにも多く使われました。文庫に保存展示してある
道中風呂にもデフォルメされた五七の桐がついています。
また「きり菊」の紋という菊のご紋章の中心部にある丸い部分に左巴紋の入った紋があり,
足守木下家の菩提寺である大光寺の屋根瓦などにも見ることができます。
この紋は太閤さんが勅許された菊のご紋章を家定に許しましたが、利房公の代になって
皇室に畏れありとして勅許の紋を現在のきり菊の紋に改めたものと伝えられています。
木下家の紋としては五七の桐とならんでオモダカの紋がありますが,この紋はねねの父
杉原助左衛門定利の用いた紋であり,この紋も木下家の裏紋として伝わっています。
こうした木下家の紋を眺めていると,尾張・中村の百姓の出でありながら,
尊いご紋章の使用を許された秀吉公の朝家崇拝の心が時の流れを超えて伝わってような気が
してきます。
木下家の系図をさらにたどるとねねの父・杉原助左衛門定利は平家の末裔であったこと
になっています。
室町時代に渡来したいわゆる天目茶碗は現在ではお献茶などに用いられて
いますが,秀吉公の時代にはどのようなお茶碗が用いられていたのでしようか。
山上宗二記(天正17年11月14日)には
「是天下一ノ高麗茶碗,山上宗二見出テ名物二十,関白様ニ在リ,惣テ茶碗は
唐茶碗スタリ,当世は高麗茶碗,瀬戸茶碗,今焼ノ茶碗迄也,形(ナリ)サヘ能候
ヘハ数寄道具也,」
と書かれており,天正年間におけるお茶碗が高麗茶碗を中心と
したものであったことが窺えます。
この資料や茶会記などから考えると,ねねは井戸茶碗に代表される高麗茶碗で
お茶を楽しんでいたとものと考えられます。
藁屋に名馬のたとえもあるように,「侘び」は絢爛豪華な意匠により,より引き立つ
といえるでしょう。秀吉公は天下の名城・伏見城に山里丸を作らせたということです。
尾張中村の里で瓜をはおばっていた藤吉郎の昔から,天下人となり身は太政大臣,豊臣の
姓を賜わることとなった秀吉公であればこそ,山里丸と黄金のお茶室の風雅を理解できた
のではないでしょうか。
ねねは普段何と呼ばれていたのでしょう?「ねね」か「おね」か色々な説
がありますが,秀頼君の「於拾い様」(オヒロイサマ)に見られるように於(オ)は
敬称であり,家臣の人々は「於ね様(オネサマ)」と呼んでいたものとおもいますが,
秀吉公は「ねね」と呼んでいたのではないでしょうか。秀吉公は秀頼君の誕生に際し,
健康を祈って「ヒロイ」と於(オ)をつけずに呼ぶようにと家臣の人々に命じています。
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