大光寺のお霊屋に眠るねねと秀吉公
ご位牌の前には何方のご献茶によるものか,一服のお茶が供えられていました。
考えてみました。
====第1期 ねねの誕生から秀吉公との婚儀まで =========
天文17年 ねね,杉原助左衛門定利を父,朝日を母として
尾張の国愛知郡朝日村にて誕生。
永禄3 年5 月19日 桶狭間て今川義元公討ち死
====第2期 ねねの結婚から本能寺の変まで =========
永禄4 年8 月3 日 ねね,木下藤吉郎と結婚する。
・ねねは秀吉公との結婚に際し,おば夫婦である浅野
又衛門長勝(浅野長政公の父)・こい(朝日の妹,ねねの叔母)
夫婦の養女となって結婚したと云われています。
・後年,ねねは,甥である木下利房(足守藩3代)の長男・利富(4代)と木下延俊(九州・日出藩初代藩主・利房の弟)の娘・お栗との
結婚に際し、利房にあてた手紙の中で自らの婚礼を振り替えって
「我々なともそ佐う那る事ニて候つ連とも天下可くれもな起事になり万いらせ候」
と述べています。
天正10年6 月 2日 本能寺の変 信長様、信忠さまご生害
====第3期 明智討ちから豊臣の賜姓まで =======
天正10年6 月13日 秀吉公,山崎の合戦において光秀を討つ。
(現在の歴史愛好者の中には光秀FANの方たちも大勢いらっしゃるようです。)
天正10年8 月7 日 秀吉公,浅野長政と杉原家次を京都奉行に任命。
天正11年4 月24日 北ノ庄落城
天正13年7 月11日 秀吉公,近衛前久卿の養子となり藤原秀吉として
従1位 関白に任ぜられる。ねねは従3位を賜わり北政所と
称せられる。
・この時の位記には征夷大将軍従3位守権大納言 臣 義昭
の署名も見えています。
天正13年9 月7 日 秀吉公,禁裏の小御所において正町天皇に御茶を奉献する。
===== 第4期 豊臣の賜姓から秀吉公のご逝去まで=======
天正13年9 月9 日 秀吉公,太政大臣に任ぜられ,豊臣姓を賜わる。
天正15年10月 朔日 北野大茶の湯
・ここでは多くの詫び茶人の逸話が伝わっています。
天正16年4 月14日 ねね,従1位・豊臣吉子の名を賜わる。
天正16年4 月 聚楽第に後陽成天皇の行幸をあおぐ。
・聚楽第は伏見城とともに後に取り壊されてしまいますが,
天下平定を成し遂げた豊太閤の気風を伝える桃山文化の遺構
として部分的に現代に伝えられています。国立京都博物館の
側にある豊国神社唐門も代表的な桃山建築の遺構と言われて
います。
天正18年3月〜7月 小田原攻め
天正19年12月28日 秀吉公,太閤となる。
文禄元年12月11日 秀吉公は前田玄以宛の消息において
「ふしみ(伏見)のふしんの事,りきう(利休)にこのませ候て,
ねんころに申しつけたく候」
と自害した利休居士に思いを馳せています。
利休没後、太閤秀吉が古田織部正に命じたといわれる武家の茶は
上田宗箇流(Click here !)や遠州流として現在でも多くの人たちに楽しまれています。
==== 第5期 太閤秀吉の逝去から大坂落城まで ==============
慶長3 年8 月18日 太閤秀吉,伏見城にて没す
慶長5 年9 月15日 関ヶ原の陣 太閤亡き後、2年にして豊臣方は関東勢と激突することになるのです。
慶長6 年3 月27日 木下家定公(ねねの兄,旧備中足守藩初代)備中国賀陽郡・上房郡の2万5千石に移封される。ここに足守藩の歴史が始まるのです。
旧足守藩の歴史を物語る長屋門
この門は四代藩主利当の家老を勤めたいわゆる北木下家の門と言われています。大きくて
立派な門であったため、時の藩主より「立派過ぎる」とお叱りの言葉を頂戴したこともあるとか。
屋根には切り菊の紋がつけられています。足守小学校の正門として使われたこともありました。
(この門は侍屋敷から道を隔てて北側にあります)
慶長9 年7 月21日 ねねの兄・木下家定,二位の法印に任ぜられる。
・ねねは公家衆を二条城に招いて能楽を興行しています。
慶長13年8 月26日 木下家定没す。
==== 第6期 大坂落城以降 ================
元和1 年5 月3 日 大坂落城 秀頼君ご自害
・真紅に照らされた南西に広がる夜の闇に臨んで,数珠を手にしたねねの心に
去来したものは夫,秀吉の時世の句ではなかったでしょうか。
露と落ち 露と消えにし 我身かな 難波の事も夢のまた夢
お茶々様や秀頼君とともに大坂城は灰燼に帰すことになってしまいましたが、金色に輝く「天下統一」という秀吉の事跡はその後の日本の国家の礎として、今日でもなお光を放ち続けているのではないでしょうか。
寛永1 年9 月6 日 ねね,逝去す。
慶安2 年6 月15日 木下勝俊(長嘯子,ねねの甥,旧備中足守藩2代)逝去す
・江戸時代を挟んで木下家からは2人の歌人が出ています。
その一人は木下長嘯子(家定公 長男,ねねの甥,旧備中足守藩2代)で,いま一人は佐々木信綱翁に師事された白樺派の歌人で子爵の木下利玄さんです。
・江戸期における足守藩の歴史には幡州赤穂城の城請取りがあります。
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