第参拾弐話  


『海の彼方へ(2)』

 
  葛城ミサト宅のある、コンフォートマンション。ミサトの勤務する研究所「NERV」が家賃を払っているの
でミサトも詳しくは家賃については知らないが、第三新東京市にあるマンションの中では、一応、トップク
ラスのマンションである。ただ問題が在るとすれば、市街地から少し離れている事くらいだろうか。一年ほど
前に郊外型のスーパーが出来たので、日常生活品を手に入れるのには困りはしないが、第三新東京市内で最も
賑やかな駅前から離れている事もあり、やはり、買い物などの点で少しの不便がある。
その、少し離れた市街地への公共交通機関は、市営バスしかない。そのバスを利用するため、アスカとシン
ジはコンフォートマンションから歩いて五分程度の距離にあるバス停を目指していた。
市街地に行く目的、それはもちろん、シンジの両親であるユイとゲンドウを迎えに行くことである。
「ねえ、シンジ。ミサト、キョウコママのこと、考えてくれていると思う?」
アスカは頭の後ろで組んでいた手を解きながら、前を歩いているシンジに問い掛ける。
「うぅん・・・・・・・・」
シンジは、答えに困って立ち止まった。そして、アスカが自分の横に来るのを待って、再び歩きはじめた。
「ミサトさん、ああ見えて、やるときはやるから大丈夫だよ」
そう答えるシンジだが、表情には自信無さそうな雰囲気があるように、アスカには感じられた。

「多分?」
アスカの口にした言葉が自分の言いたかった事とは違っていたが、それでもアスカの言っている「多分」と
いう気持ちも理解できないわけではない。シンジは苦笑をもらす。
「まさか。本気だよ。」
予期していたのとは違う答えが返ってきたので、アスカは目を丸くした。そして歩くシンジの顔をまじまじと
みつめる。だがすぐに驚きの表情は、笑顔に変わった。
「ま、大丈夫よね・・・・・・・・・多分。うん。大丈夫。」
はっきり言ってアスカは、ミサトがちゃんと、アスカとシンジの両親の泊まる所について考えている可能性
は、半分半分だろうと思っていた。だが、シンジに「大丈夫」と断言されると、なんとなく、大丈夫な気が
してくる。レイがいれば、「愛の力ね」とか何とか言われてからかわれた所であろう。
「でも、なんかアタシ、緊張するなぁ」
バス停に到着し、次発のバスの時刻を確認しながら、アスカはそう呟いた。
それをシンジは聞き逃さず、さもビックリしたかのような表情を作る。
「へぇ。アスカでも緊張することってあるんだ」
もちろんアスカには、シンジの言葉が冗談半分であることなど判っていたが、それでもプイとそっぽを向いた。
「アタシだって、緊張くらいするわよ」
その言葉とアスカの様子に慌てたのがシンジである。
『まいったな・・・・・・・冗談だったのに』
鈍感なシンジには、アスカの態度が本心から怒ってのものではなく、からかっているのだということには
思いが至らない。
とにかくアスカのご機嫌がこれ以上傾かないように、謝ってみる。
「その・・・・・・・ゴメン。別に、アスカを怒らせるつもりじゃなかったんだけど」
「・・・・・・・・・・・・」
無言のまま下を向いてしまったアスカを見て、シンジはますます焦りの色を濃くする。
「いやその、アスカがなんて言うか、その、そう、そんなはずないよね」
焦ってひたすら言い訳を繰り返すシンジを、小学生が怪訝そうな眼差しで見詰めながら通り過ぎていく。
その視線に気が付いたシンジは、恥ずかしさで顔を赤くする。自分の声が、思っていたよりも遥かに大き
かったことに気が付いたらしい。声のトーンを落として、再びアスカに向き直った。
とそこで、シンジはもう一つの視線に気が付いた。
頭を下げたまま、面白そうにシンジの様子を窺っている青い瞳。
「アスカ?」
怪訝な表情を浮かべるシンジを見て、ふわりと髪を揺らして頭を上げ、アスカは軽く笑った。
「別に怒ってなんかないわよ。冗談にきまってるでしょ」
「なんだ・・・・・・びっくりした・・・・・・・」
ほっと胸をなで下ろすシンジの遥か向こうに、こちらへと向かってくるバスの姿を認めて、アスカはバス停
へと一歩近づいた。バス停の電光掲示板が、「間もなく到着」という文字を流しはじめる。
「でも、緊張するってのは本当よ」
それを聞いて、シンジは再び驚きの表情を浮かべる。今度は作った物ではない。本心からの驚きだ。
そんなシンジの驚きなど関係ないかのように、アスカは淡々と言葉を続ける。
「シンジのお母さん、ユイさんとは電話でしか話した事ないし。お父さんなんか、話した事もないし。」
「母さんは・・・・・・・・大丈夫だと思うよ」
「大丈夫?」
シンジの口にした「大丈夫」という言葉が何に対して発せられたものなのか判らず、疑問は思わずアスカの
口を衝いて飛び出した。
シンジは言葉を選び選び、アスカの問いに答える。
「なんていうか・・・・・・・・アスカと母さんって・・・・・・・似てるような気がするから」
「似てる?」
「その・・・・・・・・見た目とかそういうことじゃなくて・・・・・・・よく判らないけど・・・・・・多分。」
アスカの疑わしげな口調に自信を無くしたか、シンジの言葉は急速に勢いを失う。
ちょうどその時、二人の前にバスが停車した。子供やお年寄りにも利用しやすいようにステップを低く設定
した、新型のバスである。
そのステップを上がり、整理券を手にバスに乗り込んだ二人を待っていたのは、「どうして、どうして?」
と言いたくなるような数の乗客であった。すし詰めと言うわけではない。立っている人は一人もいない。だが、
ちょうどピッタリと、席が完全にふさがっていた。
それでも一通り視線を巡らせ、空き席がない事を確認してから、仕方なく二人は適当な吊革につかまる。
バスが発車してから暫くたって、先に口を開いたのはアスカだった。
「ね、シンジ。さっき、『母さんは大丈夫』って言ったわよね」
「うん」
シンジは肯く。
「じゃ、シンジのお父さんは『大丈夫』じゃないの?」
アスカの素朴な疑問に、吊革にぶら下がるようにした体を軽くひねって、シンジはアスカに向き直った。
そして困った顔をする。
「その・・・・・・僕、父さん、苦手なんだ」
「なんで?」
また素朴な質問を投げかけてくるアスカに、こんどは暫く考え込んでから、肩を竦めてみせた。
「・・・・・・・父さんって・・・・・・・・・唐突なんだ」
「唐突?」
シンジの父親評である「唐突」という言葉がどんな人柄を表すのか、アスカにはいまいち理解できない。
アスカの表情からシンジは、自分の父親、ゲンドウを評した「唐突」という言葉が理解されていないこと
を悟るが、それ以上説明を加えようとはしなかった。自分がどうこう言うよりは、実際にゲンドウに会って
みるほうが、自分の言いたい事を判ってもらえるような気がしたからだ。
「会えば判ると思うよ」
それだけを口にしたシンジに、アスカは、ゲンドウについてもう少し尋ねたい気がした。だが、もうすぐに実
際に会えるのだし、息子であるシンジが「会えば判る」と言ってるのに尋ねるのもなんだな、と思い直す。
「そうね」
とアスカは曖昧に答え、そこで二人の会話は止まった。
坂を徐々に下っていき、バスの道程の半分くらいも来た頃であろうか、淡々と流れるだけであった停留所
案内の後に、「ピンポーン」という電子音が響いた。
その音を引き金にしたかのように、シンジの前に座っていた初老の女性二人が立ち上がる。どうやら、次
のバス停で下車するのは彼女たちのようであった。
「お兄ちゃん、どうぞ」
立ち上がりざまにそう声をかけられて、慌ててシンジはお礼を口にする。
「どうもありがとうございます」
律義に礼をいうシンジを目にしてアスカは、
『シンジって、妙に礼儀正しいわよね・・・・・・・・・・これも、お母さん・・・・・ユイさんの躾のおかげかしら』
と思う。その瞬間にアスカの脳裏に作られたユイ像は、なんとなくキツイ面影の女性であった。
すらっとしていて。眼鏡をかけていて。何となく見下ろされている感じがする女性。
しかし、その勝手なユイ像は、シンジのかけた言葉によってあっさりと霧散する。
「アスカも座ったら」
見るとシンジは空いた二人がけの席に、いつのまにか腰を下ろしていた。
一人だけで立っているのも、なんとなく目立って嫌だったので、アスカはシンジの隣に腰を下ろした。
肩から外したショルダーバックをひざの上に置き、さらにその上に手を乗せる。
しばらくたってから。
アスカは自分の肩にシンジの肩が触れているのを感じた。
思っていたよりも遥かに近くにシンジがいる事に、アスカは気が付く。
いままではなんということも無かったのに、その事に、肩の感触に気がついた途端に、アスカの鼓動が
速まっていく。
次第に速くなっていく鼓動を感じながら、アスカはちらりと横目で隣に座るシンジに目をやった。
久方ぶりに会う両親の事を考えているのか、シンジは自分の足元に目をむけて物思いにふけっていた。
少しだけ憂いを帯びたシンジの表情に、アスカの視線は完全に引き寄せられていた。視線を外そう、など
という考えは浮かびもしない。おそらくアスカには、自分がシンジを見詰めているなどという自覚すら無
かったであろう。
と、アスカの視線に気が付いたシンジが、いつもと変わらない笑みを浮かべてアスカに顔を向けた。
「どうしたの?」
シンジの声に、アスカはハッと我に返った。自分へと向けられている視線に気が付く。
「なななんでも無いわよ」
周囲の乗客には聞こえないように小さな声でそう言ってから、アスカは慌てて、隣に腰掛けているシン
ジの顔から視線をそらした。
それを見てシンジは、「なんかアスカ、変なの」と思いつつ、再び窓の外を見詰めた。両親と久しぶりに
会う事は嬉しくもあり、また、なんとなくではあるが不安でもあった。ユイは「学校から、シンちゃんが宿
題をしてこないってことで呼び出されたのよ」と言ってはいたが、ゲンドウはともかくユイはそんな事を
一々気にするような性格をしてはいないはずである。しかも、学校から連絡が行ってから随分とたってから
帰国を決めている。もちろん、全てにおいて「唐突な」ゲンドウが、急に思いたっただけという可能性も
無いわけではない。だが、シンジは、なんとなく腑に落ちない物を感じていた。
「・・・・・・・」
再び窓の外を向いて物思いにふけりはじめたシンジの隣では、アスカがさらに、硬直していた。
「やだ・・・・・・・・・ドキドキする・・・・・・・・」
なぜか急に感覚がするどくなってしまった自分の肩に、シャツの生地を通してシンジの肩の柔らかく暖かい
感触が感じられる。
別に、シンジの隣に座る事が始めてなわけではない。ディズニーランドへ行った時だって、アトラクショ
ンではいつも隣に座っていた。肩が触れたことだってあったであろう。
でも。今日は、あのときとは何かが違った。
冷静に考えれば、普通の生活のなかで、シンジとこんなに近い位置にいることなど無かったことに気が付
いたであろうが、すでにアスカには、冷静に考えることはできなかった。
「・・・・・・・・・ドキドキが聞こえちゃったらどうしよう・・・・・・・」
絶対にそんなことはないのだが、アスカには、自分の鼓動が余りにも速く大きいため、それがシンジに
聞こえてしまうのではないだろうかとさえ感じられる。
「なんでこんなにドキドキするのよ・・・・・馬鹿みたいじゃない・・・・・・・」
膝の上に置かれた手が、きゅっと強く握られる。強ばって握り締められた白い手が、アスカの緊張を表し
ていた。アスカはそんな自分の手を見て、自分が緊張している事を思い知らされる。そしてその緊張は新た
な緊張を生み鼓動は速くなり、鼓動の速さを感じて更に緊張していく。
そんな悪循環を繰り返して行くうちに、アスカの鼓動は、アスカに「シンジに絶対に聞こえてる」と
思わせるほどの速さになっていた。すでにアスカの目には膝の上で握り締められた両の掌しか見えず、耳に
響いているのは自分の胸のドキドキ音だけであった。
「アスカ」
そんな状態のアスカに声がかけられる。シンジだった。
その声を聞いた瞬間、アスカの胸の鼓動は、「ドクン」と一瞬にして一気に大きくなる。
それを感じながらもアスカは、慌ててシンジの方へと向き直った。体は未だ強ばり、鼓動は今までにも
増して速い。「早鐘の様に」とはこの事だろうな、とアスカは頭の片隅で思った。
シンジはそんな、ちょっと変な様子のアスカに首を小さく傾げながら、言葉を続けた。
「その・・・・・・降りないと」
アスカは、はっとして窓の外の風景を眺める。既にバスは、第三新東京市中央駅前のバスセンターに到着
していた。席に着いている乗客はアスカとシンジだけであり、バスに乗っている人も、運賃支払いを並んで
待っている数人だけであった。
「あ、ごめん」
そう言ってアスカは慌てて立ち上がる。その背中に向かって、シンジは声をかけた。
「なにか、考え事でもしてたの?」
「う・・・・・ん。ちょっとね」
バスカードで運賃を払い、タラップを降りながら、アスカは曖昧な答えを返す。
『もうっ。肩が触れてたからドキドキしてたの、なんて言えるわけ無いわよね』
アスカは憮然とした表情で小さく、絶対に誰にも聞こえないように小さく呟いて、胸の鼓動を確かめる
ために胸に小さな手を当てる。
が、もう胸は全然ドキドキしてはいなかった。
『はぁ・・・・・・・良かった・・・・・・なんであんなにドキドキしてたのかしら・・・・・・・・・』
アスカはほっと胸をなで下ろす。
だがほっとして周囲を見回すと、既に、そこにはシンジはいなかった。周囲にいるのは、スーツを肩に掛
けたサラリーマン、駅へと走っていく子供、ミニスカートにサンダル履きの若い女性、ミニスカートの女子
高生・・・・・・・・・・・・シンジはいなかった。
「シンジ?」
アスカの頭に「迷子」という二文字がくっきりと浮かび上がる。ここがどこだか判らないわけではないの
で、正確には「迷子」ではないのだが。
急に焦り出したアスカの心を落ち着かせたのは。
「アスカぁ・・・・・・・・・なにやってるんだよ」
はるか前方の人込みの中からかけられた、のんびりとした、シンジの言葉だった。
声を頼りにアスカは人込みの中を目で探り、シンジの居場所を見つけた。その途端、ほっと心が落ち着くが、
そんな事は顔には出さずに、逆に、怒ったような表情を浮かべてシンジの方へと駆けていく。
「ちょっとシンジ!スタスタ歩いていかないでよね!」
「そんな・・・・・・アスカが遅いんじゃないか」
「う、うるさいわね!それより、さっさと、お母さん達に電話しなさいよっ」
アスカの言葉に、シンジは慌てて電話をポケットから取り出して耳に当てる。
呼び出し音を聞きながら注意深く駅へと向かうシンジと、隣でその様子を見守りながら進むアスカと、二人が
人込みの中へ消えていくのにたいして時間はかからなかった。





その少し前。
駅前の喫茶店。
そこには携帯電話を手に、落ち着かない様子の碇ゲンドウがいた。
「・・・・・・・・・・」
「そんな、電話持って、待ってることもないでしょう」
ゲンドウの前に座っているユイは、コーヒーカップをソーサーに戻して苦笑を浮かべる。実はシンジの事を
いつも心配しているのに、本人を前にすると素直にならないゲンドウを見るたびに、「まったく、男は素直
じゃないわね」と感じるユイであった。
「いや・・・・・・・・・まあ、それはそうなんだが・・・・・・・・・」
ゲンドウはユイに言われて、携帯電話をスーツのポケットに戻す。それでもちらちらと視線は携帯電話に注
がれている
「でも、あなた」
そう言われてゲンドウは、ユイの顔にサングラス越しの視線を向ける。彼は室内に入っても、サングラスを
外していなかった。
「なんか、楽しみね」
「ああ、シンジか」
ちらりと父親の表情を浮かべるゲンドウだが、ユイが首をゆっくりと横に振るのを見て、疑問の色を顔に
表す。
そんなゲンドウの反応を楽しむようにユイは笑みを浮かべたままコーヒーカップに唇をつける。ゆっくりと
コーヒーの酸味を味わってから、カップをソーサーに戻した。カチャリとカップの底が音を立てる。
「確かにシンちゃんに会うのも楽しみだけど」
ゲンドウはユイが何を言うのか、ユイの桜色の唇に目をやった。形の良い唇がゆっくりと動く。
「それに加えて・・・・・・・・アスカちゃん。」
「あぁ・・・・・・・そうだな」
ユイの答えに、ゲンドウも納得する。
NERVドイツ支部に勤務する、惣流・キョウコ・ラングレーの愛娘、惣流・アスカ・ラングレー。シンジと同じ
歳でありながら既に大卒。眉目秀麗、容姿端麗、母をも上回る才媛だとの専らの噂である。NERVのドイツ支部の
気の早い人事担当者が家に押しかけていって、キョウコに叩き出されたとの噂も聞く。いくらなんでも気の早い
ことではあるが、裏を返せば、そこまでしても手に入れたいと思わせる能力を持っているということであろう。
「確かに・・・・・・・・・・・・」
ゲンドウは腕を組んで重々しく肯いた。そして暫くその姿勢のまま考え込んでから、唐突に口を開く。
「シンジの嫁になって欲しいくらいだな」
ゲンドウの言葉を聞いて、ユイはプッと吹き出した。その反動で、手にしたカップの中でコーヒーの液面が
激しく揺れる。
「どうして、あなたって、そんなに唐突なの」
ゲンドウは笑うユイに向かって、不服そうに眉をしかめてみせた。
「唐突・・・・・・・ではないと思うが・・・・・・・」
「容姿端麗、眉目秀麗、同い年、おまけに彼女はシンちゃんの事が好き。どこにも障害はあるまい、でしょ?」
ユイは、最後はゲンドウの口調を真似て、ゲンドウの考えを言い当ててみる。
ゲンドウは首を縦にも横にも振らず、顔色も変わりもしない。しかしユイは、ゲンドウが何も反論しない事
から、自分の考えがゲンドウの考えと同じである事を知った。
「図星、でしょ」
悪戯っぽく笑うユイの前で、ゲンドウは無言のままアイスティーを口にする。
「ま、確かに、いい娘よね・・・・・・・・」
ユイにとっての「いい娘」というのは、可愛いとか優秀とかという基準で図られる物ではない。もっと何か
別の物、人間としての「良さ」である。ユイは以前に電話で話した時のアスカを思い出した。いい娘だった。
「だけど・・・・・・」
そこでユイの顔から笑みが消えた。
それを見てゲンドウは、ユイが何を考えたのかを瞬時に悟る。さすがに長年連れ添った夫婦である。相手が
何を考えているか、ある程度は判るようになっていた。
「その道を閉ざす・・・・・・・・・・か」
こんども一見唐突なゲンドウの発言ではあるが、今回は、ユイにはその言葉の意味する所が自分の考えてい
たことそのものである事が判った。それで、固い表情のまま首を縦に振る。
「私達、間違ってないわよね」
自信無さそうに、自分を見詰めるユイの視線に、ゲンドウは自信たっぷりに答えた。
「ああ・・・・・・・・これでも、親だからな・・・・・・・・・・・・ただ、決定するのはシンジだ」
ゲンドウの言葉を聞いて、ユイは、自分を納得させるかのように、何度か小さく肯いてみせる。それから
顔を上げた。その顔には、先ほどまでの不安そうな色は、無い。
「そうね・・・・・・・・・・・・・・・・・でも、複雑よね」
言葉どおりに複雑そうな表情を浮かべるユイに、ゲンドウは尋ねた。
「なにがだ?」
ユイはピッと左手の人差し指を立てて、爪先を見詰める。
「だって、『Yes』なら嬉しいけどシンちゃんが成長してないってことだし」
そこまで言ってから、ユイは今度は右手の人差し指を立ててみせる。
「『No』なら、まあ、寂しいけど」
ユイの言葉を聞いていたゲンドウが、その後を継いで続ける。
「シンジが成長した・・・・・・・・・ということか」
「そ。複雑よね・・・・・・・親って」
そう言って苦そうにコーヒーを飲み干すユイの前で、ゲンドウはそのユイよりも苦い表情を浮かべる。
「それよりも、私は、葛城くんがちゃんとシンジの世話をしてたのかの方が心配だよ」
それを聞いてユイの表情が、一転して明るいものに変わる。
「あら、だって、あたしもあなたも、葛城さんにそんなこと期待してなかったでしょ?」
「まあ・・・・・・な」
ユイもゲンドウも、ミサトがシンジの世話をしっかりしている、ということなど期待していなかった。
というより、初めから二人は、そんな事を期待してミサトに預けたのではない。しっかりと面倒を見て
くれる、というならばもっと他に当てはあった。「葛城ミサトは仕事の面では優秀だが、家事などはダメ」
ということは事前の調査で判っていた。それでもミサトに預けたのは、そんなことを差し引いても、ミサト
の家で過ごすほうが得る物が多い、と夫婦で判断したからだった。
「少しはたくましくなってるわよ、シンちゃんも。葛城さんの家でならね。」
「だといいがな」
小さく呟くゲンドウのスーツのポケットから、「ピルルルルル」という軽い電子音が響いた。
ゲンドウは慌てた様子でポケットから携帯電話を取り出し、通話ボタンを押す。そして、咳払いを一つ
して、息を落ち着かせてから電話を耳に当てた。
自分が心配している事を悟られたくないゲンドウの様子に、ユイは笑いをもらす。そんなユイに視線を
流してから、もう一つ咳払いをして、ゲンドウは口を開いた。
「ああ、私だ」
頬杖をついてゲンドウを見詰めるユイの優しい瞳に気がつかずに、ゲンドウは固い口調で言葉を続けた。
「ああ・・・・・・駅前の喫茶店・・・・・・・そうだ。待ってるぞ。」
それだけ言うと、さっさと電源を切ってしまう。
「全く・・・・・・素直じゃないんだから」
伝票を手に立ち上がるユイに、ゲンドウは携帯電話をポケットに戻しながら、不服そうに声をかける。
「別にシンジの心配など」
ユイは人差し指を立てて、舌を鳴らしながら顔の前で軽く横に振ってみせる。
「あたしは、シンちゃんのことなんて何もいってないのよ。ちょっとは素直になりなさい、あなた」
ゲンドウの表情が硬直する。確かに自分が素直でないのは判る。
「いや、しかしだな」
荷物を手にして反論しようとした時には、既にユイは、店のドアを押し開けて外に出ようとしていた。
慌ててゲンドウも、両手の鞄をしっかりとつかみ直して外へと出る。
カランカランという鈴の音を鳴らして扉が閉まりきると、一気に夏の暑さが二人に押し寄せてきた。
「暑いな」
「暑いわね」
ユイは既に、ポケットからハンカチを取り出してハタハタと仰いでいる。
両手の荷物を降ろして、ゲンドウもハンカチをポケットに求める。と、そのゲンドウの視線の先に、こ
ちらへと真っ直ぐに向かってくる、シンジと蜂蜜色の髪をした少女の姿が現れた。
その事をユイに伝えようとするが、すでにユイも気がついていたようである。ユイはゲンドウの方を
向いてにっこりと笑った。
「シンちゃん、来たわよ」
「・・・・・・・とキョウコくんの娘、か」
「そ。いい娘よ」
ユイの言葉を聞いて、ゲンドウは小さく呟いた。
「いい娘じゃなければ迷う必要も無かった、か」
ユイはそのゲンドウの言葉を聞き流した。ユイもゲンドウと同じ事を考えないわけではないのだが、
それは言ってはならないことである。
「シンちゃん!アスカちゃん!こっちこっち!」
ユイは大声で呼びかけ、ぶんぶんと手を振った。その声に驚いて通行人が何人か振り返るが、ユイは
気にも留めない。
その声に、歩いていた少年と少女は顔を見合わせて、ユイ達の方へと駆けてきた。
久しぶりの家族再会の時は、もうすぐ訪れようとしていた。





続劇

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