「なんか、気分悪いのお。」
その問いかけは、今日のお昼休みになってから3度目のものだった。
3度とも全て、制服のある学校で、なぜか上下揃いのジャージを着込んだ少年が発したものである。
その言葉は、傍らで一緒に昼食を食べていた、碇シンジに向けられたものである。
シンジは、その言葉を聞いていないフリをしていた。だが、そろそろ返事をしないと、ジャージ
の少年、鈴原トウジの怒りの矛先がこちらに向けられそうなことに気がついていた。
「そうだね。最近、気象の変化とかでセミが多くなったからね。まだ、セミが鳴くには早い時期
のはずなのに、こんなに沢山で鳴いてると・・・・」
「碇せんせぇ・・・ワイをなめとんのかい?・・・・セミやのうて、あいつのこっちゃ。」
トウジは、本当に面白くなさそうな表情で、教室の一角を見やる。
その視線の先を追うと、ほとんどクラス中の女子、それに他のクラスの女子までが集まって、人だ
かりができ、黄色い嬌声が上がっているのが見える。
「なんだ。渚のことかよ。」
シンジ、トウジと一緒にご飯を食べていた少年、相田ケンスケが、ノートパソコンで国連海軍
の制式戦闘機の画像を見ながらつまらなそうに答えた。
「なんだって・・・・・おまえはなんとも思わんのか?男ともあろうものが、女に囲まれて鼻の
下を伸ばしているとは、嘆かわしいやないか。そう思うやろ?」
ケンスケが見ている国連海軍制式戦闘機の機関銃とタメを張るくらいの速さで、トウジはまくし
たてた。
トウジは、腕を組んで胸を張りながらケンスケとシンジのあいづちを待つ。
が、予想された反応は、無い。
トウジがゆっくりと目を開けてみると、ケンスケはパソコンのディスプレイ上で、制式戦闘機の
立体映像をぐりぐりと回転させながらウットリと見入っているし、シンジにいたっては、お弁当箱を
片づけて、居眠りを始めていた。
「おまえらは・・・・・友情ってえもんが、ないんかい!」
トウジがついに切れて、頭に血を上らせ、真っ赤な顔で大声で怒鳴り散らす。
その声にびっくりしたように、教室中がシーンと静まり返る。
「ちょっと、鈴原。なに馬鹿な声出してんの?」
後ろの入り口の方から、静かな教室の空気を震わせてリンとした声が響く。
「い、いいんちょ・・・・・・」
先ほどまでの真っ赤な顔が嘘のように真っ青な顔をして、トウジは、踏み潰された蛙のような声を、
喉の奥から絞り出した。
「教室では怒鳴るなって、あれほど言ったでしょ?」
教室の後ろの入り口から入ってきて、トウジを叱り付けているのは、「いいんちょ」と呼ばれた
女の子、洞木ヒカリである。「いいんちょ」という呼称からも何となく想像できるとおり、彼女は
学級委員長であり、今も胸には学級日誌を抱えている。
「す、すいません。今後気を付けます。」
なぜかトウジは、「いいんちょ」ことヒカリには弱い。いつでもあっさりと引き下がる。
トウジが折れて静かになったことで、教室は、再び貴重なお昼休みを満喫する為の会話で満たさ
れていった。
「まぁったく。3バカトリオの中でも、鈴原、あんたが一番のバカね。」
ヒカリの後ろから入ってきたアスカが、心底馬鹿にしたような顔でトウジに言った。
「ほんと。鈴原君って野蛮なのねえ。私、野蛮な人と肉って嫌いなの。」
さらにアスカの後ろから現れた、薄い青の髪に紅い瞳をした少女が勝手なことを言う。
紅い瞳の少女の名前は、綾波レイ。シンジとは幼稚園の頃からの幼なじみである。彼女は、アスカ
がこの学校に転校してきたときに、なぜか意気投合し、親友になってしまった。シンジは、きっと
口が悪い同士気が合ったのだろうと思っている。
「どーせ、またカヲルに嫉妬してたんでしょうけど」
アスカの言葉を継いで、さらにレイが続ける。
「しょせん、格が違いすぎるわよねえ。逆立ちしても、かなわないわよ。整形でもしない限り、ね」
さらにアスカがレイの言葉を引き継ぐ。
「レイ、きっと整形しても無理よ。だって、骨格がヘンだもん。」
どうやらシンジの考えている、口が悪い同士で意気投合したという考えは、当たらずと言えど遠
からずのようである。
「この、わがまま女どもが・・・・・・」
アスカとレイの挑発に、トウジがヒートアップし始めた所に、ちょうどよく先生がやってきた。
渚カヲルの周りに集まっていた女子生徒たちも、さーっと自分の席に戻っていく。
「起立っ。礼っ。」
ヒカリの号令によって、授業は始まった。
教師は教卓の上に置いたスケッチブックを軽く二度ほど叩いてから、喋り出した。
「今日の美術は・・・・肖像画を描いてもらいます。」
幾多の齢を重ねたであろう老教師の声を聞いて、教室がざわめく。
それもそうだろう。「肖像画」なんてものは、誰も描いたことが無い。第三新東京市には美術館
が無いから、「肖像画」を見るのは美術の教科書の中でだけである。それを描く、と言う言葉に
生徒が不安を覚えたのも無理からぬことであろう。
そんな生徒の気持ちを感じ取ったのかは判らないが、老教師は手を叩いて騒ぎをを静める。
「肖像画と言っても、デッサンの練習をするだけなので、大したことではありません。二人一組
になって、相手の顔を鉛筆で描くだけですよ。」
生徒の間に、「何だ、そんなことか」といった、安心したような空気が流れる。
それもつかの間、今度は一部の女子生徒が騒ぎ始める。
「あたしっ、渚君の顔が描きたいなぁぁ」
「えぇぇ!あたしだって、描きたいよぉ。」
彼女たちの、黄色い歓声を聞きながらまたもやトウジが苦虫を噛み潰したような表情でぼそっと呟く。
「おもろおないのお。」
「さっき、綾波が言ってたけど、トウジじゃ逆立ちしても歯が立たない・・・・・」
突っ込みを入れたケンスケは、トウジの張り手一発で、粛正された。
女子生徒の騒ぎを、老教師はまたもや手を叩くだけで静める。この老教師、こう見えて生徒か
らの信頼は厚いらしい。
「えぇ、組み合わせは、私がもう決めてきました。」
「そんなぁぁ」
と、叫ぶ女子生徒を老教師は無視して、組み合わせを発表する。もしかしたら耳が遠くて聞こ
えなかっただけかも知れないが。
「えぇ、では、まず一組目。惣流・アスカ・ラングレーと・・・・碇シンジ」
老教師の発表にトウジは、先ほどの恨みをここで晴らそうとばかりに言った。
「碇せんせぇ。あんな変な女の顔を描くなんて、災難やなあ。」
「うっさいわよ、バカのくせに!」
アスカも負けじと、言い返す。
「へん。肖像画で良かったな。全身の絵だったら、その貧相な胸を描かれて世界中に恥をさらす
とこだったやないか。」
「鈴原って、あったま悪そうな顔してるから、サルの肖像画と間違えられるわよ。」
口の悪さでは負けてはいないレイがアスカの援護射撃を始める。
果てしなく続く、アスカとトウジの言い争いなど知らぬように、老教師の組み合わせ発表は続い
ていった。
「ちょっと、シンジ。このあたしの顔を描くんだから、思いっきり美人に描かないと承知しない
わよ。」
イーゼルを挟んで向かい合ったシンジに、アスカが言った。
「でも、肖像画なんだから、そっくりに描かなきゃいけないと思うんだけど。」
シンジがアスカの神経を逆なでするようなことを言う。
「あんた馬鹿ぁ?あたしは美人だから、そっくりに描けば美人に描けるのよ。わかった?」
普通の人間が言ったら、馬鹿だと思われかねないが、実際にかなりの美少女であるアスカが言う
と、なぜか説得力がある。
「わ、わかったよ。上手に書けばいいんだろ。」
アスカの迫力に押されて、シンジは思わずうなずいてしまった。
その返事に満足したかのように、アスカは絵を描く準備を始めた。
「何や、あの女。あの顔で美人だと思っている・・・・・」
またアスカに悪態をつこうとしているトウジは、隣に座っていたヒカリの視線を感じて口をつぐむ。
クラスの二大騒音源が静かになれば、クラス中が静かになったも同然である。
こうして、クラス中が肖像画描きにに没頭していった。
かなり長い時間が経過した。
老教師は教卓の隣のイスで、うつらうつらしている。
しかし、誰一人としてその事に気がつかないほど、クラス中は熱心にパートナーの肖像画を描きつ
づけていた。大抵の生徒は、大半の部分を描き終えて仕上げの段階に入っている。
だが、たった一人、全く進展していない生徒がいた。
「美人に描けったってさあ・・・・・・」
碇シンジは、絵が苦手だった。もう、授業時間が終わろうとしているのに、納得できる絵は描き
あがっていない。
自分のスケッチブックにある絵は、良くて近所のおばさん、悪く言えば赤鬼みたいな顔である。
それがアスカの肖像画であるとは誰にも判らないであろう。シンジの頭の中で、この絵を見せたとき
のアスカの反応と、自分の将来がちらつく。
「また、書き直しだな。」
心の中で一人呟くと、かさかさという音を立てないように、そっとスケッチブックをめくる。
「デッサンの基本は、対象をよく見ることだって先生が言ってたっけ。」
シンジは基本に戻ろうと、対象、つまりアスカのことをまじまじと見た。
アスカは、目の前のスケッチブックに向かって熱心に鉛筆を走らせている。
その姿を見ながらシンジは、自分がアスカの顔をこんなに長い間見ているのは始めてだというこ
とに気がついた。いつもは、アスカの気迫に押されるように目を逸らしてしまうことが多い。
絵を描くアスカを見ているうちに、シンジは、あることを発見した。
「アスカは、可愛い。」
今までの数ヶ月、同じ屋根の下で暮らしてきたにも関わらず、アスカを可愛いと思ったことなど
一度も無かった。クラスの男子は、「惣流と同じ家に住めるなんて羨ましい」という。しかし、シ
ンジにとってアスカとは、何より性質の悪い同居人でしかなかった。風呂がちょっとでも熱ければ
文句を言い、ご飯の味付けが少しでもおかしいと文句を言う。下僕のように扱われている、といっ
ても過言ではないだろう。シンジが、家事全般が嫌いでないからいいようなものの、普通の人間な
らば、とっくの昔に逃げ出しているところだ。シンジでさえも、逃げたいと思ったことがある。
しかし、現金なことに、たった今アスカが可愛いということに気がついたシンジは、
「こんなに可愛い女の子と同居しているなら、そのくらいは、しょうがないのかな?」
とさえ、思い始めていた。
そんな事を取りとめも無く考えているうちに、授業終了のチャイムが鳴った。
「それじゃあ、絵も描き終わったことだろうから、各人、後片付けをしてから解散しなさい。」
老教師は、そう言い残して教室から出ていった。
「うわぁ!これが、あたしなのお?わたし、もっと可愛いいよお?」
レイは、パートナーの描いた絵を見て、大胆にもケチをつけている。
「アスカ、すっごく上手だよ!碇君にそっくりじゃない!なんていうか、気の弱そうなところが!」
アスカの絵を見て、ヒカリが大きな声を上げた。
その声を聞きつけて、大勢の生徒がアスカの後ろに回り込み、アスカの描いた絵とシンジとを
見比べ、称賛の声を上げ始める。
シンジは、大勢の視線が、自分とアスカの絵との間を行ったり来たりするのを感じて、恥ずか
しさを覚えながらも、
「ねえ、アスカ。僕にも見せてよ。」
と、言った。
「あんまり上手すぎて、心臓が止まっても知らないわよ。」
わけの判らない事を言いながら、アスカはスケッチブックを手に取り、くるりとこちらへ向けた。
「う、うまい・・・・・・・」
シンジがそれしか言えないほどに、アスカの絵は上手だった。やや、実物よりもいい男だったり
する。それが、アスカのシンジに対する好意が無意識に為し得たわざだとは、シンジには気づくは
ずも無い。
「僕がシンジ君の絵を描いたら、もっと上手いだろうけど、これはこれでいいんじゃないかい?」
どこから現れたのか、カヲルはシンジの脇に立ちながら意見を述べる。
「で、あたしのことは、ちゃーんと美少女に描いてくれたんでしょうね?」
そのアスカの声に、シンジはスケッチブックを閉じようと、慌ててイーゼルに手を伸ばす。
その手を遮るようにカヲルの手は伸び、スケッチブックを取り上げてしまった。
「や、やめてよ、カヲル君!」
「なに言ってんだい、シンジ君。上手いじゃないか。惣流の性格が良く現れた名画だよ。」
カヲルはそう言って、スケッチブックを取り戻そうとするシンジの手を軽く交わして、アスカに
スケッチブックを手渡した。
アスカと、アスカの絵を見ていた大勢の生徒の目が、シンジのスケッチブックに吸い込まれる。
スケッチブックを見たアスカの顔が凍り付く。周りに居た生徒達も、何といっていいのか判らないよ
うな表情をする。感じたことを口にして良いのか、悪いのか、見当もつかない。口の悪いトウジ
でさえ、思ったことを口にしたら、シンジの命が危ないかもしれないと思い、口を噤んでいる。
しかし、レイは思ったことをすぐ口にする。
「赤鬼の絵かな?それとも、お婆ちゃんになったときの、アスカの予想図?」
それは、シンジの絵を見た全員が真っ先に思ったが、全員が口にするのをためらった言葉であった。
すでに、レイの言葉を聞いて、これからアスカがとるであろう行動を恐れたのか、アスカとシンジの
周りから人が離れ始めている。
アスカは、ひとしきり絵を眺めた後、ゆっくりと口を開いた。
まだ教室から逃げ出していない生徒の視線が、アスカの口元に集中する。
「これは・・・・・私の絵じゃないわよね、シンジ?」
一応、問い掛けるという形は取っているが、有無を言わせない口調でアスカは言った。
シンジは何と答えるのか?ギャラリーの生徒の視線が、今度はシンジに集まった。
「う、うん。・・・描き直そうと思ったんだけど・・・・・時間が無くて。」
「そう。じゃ、しっかりと美少女の私の絵を描くのよ。」
言うだけ言ってアスカは、教室を出ていった。
「ちょっと、待ちなさいよ、アスカ!」
まさかいきなり帰るとは思っていなかったのか、慌てて荷物を取りまとめて、レイとヒカリがアスカ
の後を追う。
それを見届けると、「ふーっ」という声が聞こえそうなほど、一気に教室の緊張が和らいだ。
「なーんや、あの女。シンジがへたくそな絵、描いたからってあそこまで怒ることないやろ。あんな
女の為に、新しく描き直す必要なんか無いで。」
ヒカリがいなくなると、トウジは急に強気になる。
「でも・・・僕も、この絵には納得してないから・・・・・・もう少し、描いてみるよ。」
シンジは軽く笑って、スケッチブックをまためくる。
「せんせぇがそう言うんなら、しょうがないな。じゃ、悪いけど俺は帰るでぇ。」
「じゃあな、シンジ。俺も、今日は横須賀まで行かなきゃだから。」
トウジとケンスケに続いて、他の生徒たちも片づけを終えると、次々と帰っていった。
「あれ、カヲル君は帰らなくてもいいの?」
帰る支度もせずに、シンジが描くアスカの絵を黙って見ているカヲルを見て、シンジは口にする。
「ああ、もう少しだけ、シンジ君が描く絵を見ていようかと思ってね。」
「そう。」
カヲルの言葉に一言だけ返すと、シンジはまたアスカの絵を描き始めた。
今、目の前にアスカは居ない。だけど、目を閉じると脳裏にはっきりとアスカの笑顔を思い描く
事ができる。その笑顔を頼りに、シンジは絵を描きつづける。
シンジとカヲルだけしか居なくなった教室に、鉛筆を走らせるサラサラという音だけが響く。
しばらくして、再びアスカの肖像画が出来上がる。まだ、アスカにそっくりという段階までは到達
していない。しかし、アスカを見ながら描いたさっきの絵よりは、アスカに似ているような気がした。
「さっきよりは、似ているね。」
その絵を見て、カヲルはシンジに笑いかけた。
「そうかな。でも、目のあたりが、まだ違うんだよな。」
そう言いながら、シンジは再びスケッチブックをめくり、再び鉛筆を走らせる。
「それにしてもシンジ君、何でここまで熱心に惣流の絵を描くんだい?」
そんなシンジを見ながら、カヲルは言った。
鉛筆を止めること無く、シンジは答える。
「初めは・・・・・こんな絵なんかどうでもいいと思ってたんだ・・・・・下手な絵で・・・アスカに
怒られたって構わないと思ってた・・・・怒られるのは慣れてるしね・・・・でも、アスカの顔をみ
ているうちに・・・・・アスカが可愛い女の子なんだって・・・気がついて・・・そうしたら急に、
怒られたくはないな・・・・って思い始めて・・・・・・」
そこまで言って、シンジは鉛筆を止めてカヲルに聞いた。
「なんでだろうね?」
カヲルはその問いを聞いて、シンジの鈍感さに小さく嘆息した。
「それは、アスカを好きになったかじゃないのかい?」
カヲルはそう言おうとしたが、その言葉を途中で飲み込む。恐らく、今のシンジにそんな事を言っ
ても無意味だろう。そのうち、自分の気持ちに気がつくときも来る。カヲルはそう思った。
その代わりに、
「惣流は、怒るとこわいからね。」
と、当たり障りの無いことを言った。
「そうだね。」
シンジは、絵を描きながら半分上の空で答える。
「じゃ、僕もそろそろ帰るよ。あまり遅くならないようにね。」
カヲルは座っていた机から飛び降りて、シンジに声をかけるが、絵を描くことに熱中しているシン
ジからの答えはなかった。
「これは、当分帰らなそうだな。」
そう考えながら、カヲルは、シンジの集中の邪魔にならないように静かに教室を後にする。
アスカの肖像画を描くことに熱中するシンジの背中を、オレンジ色の太陽の光が照らしていた。
続劇