第三話  


『Bild (2)』

邦題 : 絵(2)
 


中学校の校庭は、まだ初夏なのに、シャワシャワという騒々しいセミの鳴き声で満ちていた。
このセミの鳴声、第三新東京市に限ったことではない。旧世紀の終わり頃から、異常気象が恒常化し、
生態系が変化してしまい、日本中でセミが大発生しているためだ。
そのセミの鳴き声をかき分けるように、一人の少女が校庭を早足で駆け抜けていく。
その娘の髪は、日の光を反射して美しい金色に光っている。美しいのは髪の毛の色だけではない。
スタイルもいい。顔も可愛い。
しかし彼女はご機嫌斜めらしく、可愛い顔には少しきつい表情が現れている。
「ちょっと!アスカぁ!待ちなさいよ!」
その金髪の少女、アスカに、後ろから追ってきた黒い髪の少女が声をかけた。
しかしアスカの歩く速度は緩まりはしない。
今度はさっきとは違うショートカットの女の子が声をかける。彼女もアスカに劣らず美少女である。
「ねーえ!アスカったら!もう少しゆっくり歩かない?」
それでもアスカの足は止まらない。
が、少し歩く速度が緩まった。
そのおかげで、ショートカットの少女はやっとのことでアスカに追いつく。
やっとアスカに追いついた、二度目にアスカに声をかけた少女、綾波レイは、乱れた息を整えるよう
に大きく息をしてから、アスカに向かって口を開く。
「全くぅ。アスカったら、何そんなに怒ってんの?」
その言葉に、今まで何を言っても止まりはしなかったアスカの足が、ピタリと止まる。
「何、ですって?」
剣呑な空気を含んだ口調でアスカがレイに言った。
レイが口を開くよりも速く、アスカの口が開いた。
「アンタ、バカぁ?このアタシが、超美少女にしてスタイル抜群で当然学業優秀おまけに家事も
万能で「恋人にしたい女の子」って言うアンケートを取ったらぶっちぎりで世界チャンピオン
になること間違いなしの惣流・アスカ・ラングレー様が、居るんだか居ないんだかわかんない
ような冴えないバカシンジの肖像画を、あーんなに上手に描いてやったのに、あのバカシンジ
ときたら、世界美少女コンテストで間違いなく優勝しちゃうほどの美少女・・・・・・・」
機関銃も裸足で逃げ出すほどの速さで、まくしたて続けるアスカの声を聞きながら、綾波レイ
ともう一人の少女、洞木ヒカリは大きくため息を吐いていた。
どうやら、アスカがご機嫌斜めなのは、先ほどまでの美術の授業中に描いていた肖像画の事が
原因らしい。
その時アスカの絵を描いたのがシンジだったのだが、その絵は、控えめに言うなら「アスカには似
ていない」絵で、真実を率直に述べるならば「人間じゃない物を描いた」絵であった。
レイ達はその絵を見たときに、間違いなく、アスカの怒りが大爆発すると思ったほどだ。
しかし、アスカが思ったほどには大騒ぎをしなかったので、二人はアスカが絵の事はそれほど気にし
ていないのかと思っていた。
が、それは違ったようだ。
「このまま喋らせておいたら、どれくらい喋り続けるのかしら。」
レイとヒカリはそれを試してみたいとも思ったが、そういう訳にもいかない。
道の向こう側を歩いている人さえ、アスカの大声が耳に入ってくるらしく、こちらをチラチラと気に
している。アスカだけならまだしも、自分達まで注視されるのは、恥ずかしくてたまらない。
延々と続くアスカのシンジに対する文句を打ち切るべく、レイは口を開いた。
「ねえ、アスカ。結局、碇君がアスカの事をもうちょっと上手に描けばいいのにって話でしょ?」
「そうっ!そういうことよ!」
アスカは無意味に力を入れて同意する。
再び歩き始めたアスカにおいていかれないように、小走りになりながら、
「でも、碇君が絵を描くのが下手なのは知ってたしねえ。上手に書いてもらおうなんて、期待す
るほうが間違ってるんじゃないかな?」
と、ヒカリは言った。
その横では、レイが「まったくよ」といった顔でうなずいている。
「そりゃ、レイ達は昔からシンジの事を知ってるから、シンジの絵は下手くそだって知ってるだ
ろうけど、アタシはまだシンジと知り合ってから3ヶ月位だから知らなくて、当然よ。」
アスカの言葉が物語るとおり、レイやヒカリはシンジの事を幼稚園のころから知っている。もっ
ともそのころはまだシンジは、ミサトではなく両親と、碇ゲンドウ・ユイと暮らしていたのだが。
肩を竦めるアスカを見ながら、
「とはいってもぉ、アスカは碇君と同棲してるんだし、そのくらい判るんじゃないの?」
ヒカリは何気なく、しかし大きな声でその一言を口にした。
その声にレイとアスカは明らかに顔を引き攣らせながら、再び足を止めた。
たまたま同じ道を通っていた同級生もヒカリの声に驚いたように足を止めたが、アスカの顔色
をみて、関わり合いにならない方が良いと判断したのか、明後日の方向を見て、「私は何も聞いて
いないわよっ」という顔をしながら走り去っていった。
ヒカリには、「シンジとアスカが同じ家に住んでいる」という意味以外に他意は無い。「同棲」
という言葉を「同居」という言葉と同じ程度にしか考えていなかったのだ。
しかし一般人にとっては、「同棲」と「同居」は、全く別の物である。
「・・・同棲ってのは・・・・恋人同士が・・・・一緒に住むって事でさ・・・碇君とアスカが
・・・・付合ってるわけでもないんだし・・・同棲ってのは違うんじゃ・・・」
これからアスカがどんな反応をするのかと思うと、生きた心地もしないレイは、思いっきり引き
つった顔で喉の奥からフォローの言葉を絞り出した。
アスカはといえば、声も出ないほどに怒っているのだろう。顔を真っ赤にして、肩をプルプル震
わせてヒカリの事を睨んでいる。
しかしヒカリは、そんなアスカの表情など気にもしていないような顔で、レイに言った。
「でも、アスカだって碇君のことは嫌いじゃないだろうし、碇くんだってアスカの事を嫌いなん
てことは無さそうだし、だったら同棲って言ったっていいじゃない。レイもそう思うでしょ?」
訳の判らない論理である。
「あ・・あのねぇ!どうして、このアタシが、超美少女のアタシが、あーんな冴えないバカシン
ジなんかの事を好きにならなきゃなんないのよ!」
ヒカリは「アスカがシンジを嫌いじゃないだろう」と言っただけで、「アスカがシンジの事を
好きだ」と言ったわけではない。だが実際にシンジの事が気になっているアスカは、ヒカリの言葉
に自分の気持ちを言い当てられたように感じて、こんな反応をしてしまったのだ。
頭に血が上っているアスカよりは冷静なレイには、アスカの発言が、アスカがシンジを意識
している事を白状したようなものだと気がついた。だが、アスカが本気で怒ったらどうなるかと
考えると、さすがのレイでもそのことを口にするのに躊躇してしまう。
アスカとレイは3ヶ月程度の付き合いであるとはいえ、もう、親友といってもいいほどの仲である。
その短い三ヶ月の間ではあっても、レイはアスカの気性を嫌と言うほど思い知らされていた。
「素直じゃないから、図星の事を言われると余計に怒る。」
レイはアスカの性格をそう分析していた。
レイも、アスカがシンジの事を好きなのかもしれないと薄々感づいてはいた。そして今日のア
スカの発言は、レイの想像が当たっている事を示してくれた。
だからこそ、アスカが本当にシンジの事を意識しているであろうからこそ、ここでその事実を
アスカに突きつけるわけにはいかなかった。「素直じゃない」アスカは、それが図星であるからこそ
それを認めないし、怒るに決まっているからだ。
しかも、ここは道路、公衆の面前である。こんなところで好きな男の子の話をされた日には、
どんなに温厚な人間であっても、怒ることまちがいなしである。
だから、
「ここはおとなしくアスカの機嫌を損ねないようにしておいて、後でゆっくり聞き出せばいいわ。」
そうレイは思い、とりあえずアスカのご機嫌をとる為に口を開こうとした。
しかし、そんな事を考えていた時間だけ口を開くまでの時間が微妙に遅れたのかもしれない。
レイの言葉に僅かに先んじて、ヒカリの言葉が響き渡る。
「あら、「冴えないバカシンジ」って言うけど碇君って人気あるのよ。ちょっと頼りないけど、
結構、格好いいし。隣のクラスの・・・・・・誰だっけ?・・・名前は忘れちゃったけど、ショー
トカットの可愛い女の子なんか、碇君にゾッコンって噂だしぃ。もたもたしてると、アスカ、碇君
のこと、その娘に奪られちゃうわよ。」
ヒカリの言葉は真実ではある。男子に対するアスカやレイの人気ほどではないにしても、シンジだっ
て、学校の男子の中では十本の指には入るほどの人気がある。もっとも、シンジの友達の渚カヲルの圧
倒的な人気には及ぶべくも無いが。(ちなみにではあるが、同じくシンジの友達であるトウジは、下から
数えた十本の指に入っているほど、女の子受けが悪い。ファッションセンスの全く無いところが、その
原因であろう。)
「だけど、いくらホントの事とはいっても、何もこの場で言う事は無いのよね。アスカは「図星の事
ほど、余計に怒る」んだから。」
レイは心の中でそっと呟きながら、ちらりとアスカの方を見やる。
案の定、アスカはさっきよりも頬を紅くして、さっきより肩を震わせながらヒカリに詰め寄っていた。
「ヒーカーリー・・・・・・・アンタ、どーしてもあたしがあのバカシンジの事を、好きだって事に
したいわけ?」
超鈍感のヒカリでさえ、詰め寄るアスカの表情に自分が地雷を踏んでしまったことに気がついたらしい。
頬に一筋の汗など流しながら、必死で弁解を始めた。
「えっと・・・その・・・私はアスカを怒らせるつもりは・・・・無いっていうか・・・・・・」
目の前に立ちはだかるアスカの迫力に押されたのか、いつもは毅然としてきっぱりと話すヒカリがしど
ろもどろで弁解を続けている。
そんな二人の姿を見ながら、レイは小さくため息を吐いた。
道の真ん中で、女の子二人が口喧嘩をしている(というよりは、アスカが一方的にヒカリを苛めている)
姿など端から見ていて、良いものではない。通りの向こうでは、買い物帰りのおばさん達がこちらをチラチ
ラ見て、何やら噂話をしているようである。
「痴話げんかよ、痴話げんか。若いのに、お盛んねえ。」
おばさん達からは、そんな声が聞こえてくる。
レイはその声を耳にして、今度は大きなため息を吐いた。
「恥ずかしい・・・・・・情けない・・・・」
レイはヒカリを助ける為というよりは、この恥ずかしい状況から逃げ出す為に、恐る恐るながら助け船
を出してみた。
「ねぇ、アスカ。ヒカリも悪意はなかったんだろうし、そのくらいで止めてあげなよ。」
案ずるよりは生むが易し、とはこの事であろう。アスカはレイの言葉をあっさりと受け入れた。
「ま、しょーがないわね、レイがそう言うんだったら。」
アスカもやっと冷静さを取り戻したようである。顔ももう紅くはない。
ヒカリはアスカから解放されてよほどホッとしたのだろう。顔中に安堵の表情を浮かべながら肩で大き
な息をしている。
「ただし、条件があるわ。」
コンフォートマンション、葛城家へ向かう道を歩き始めながらアスカは「ピッ」と人差し指を立てなが
ら、後ろをついてくるヒカリに言う。
「な、なに?」
無条件で許してもらったと思っていたヒカリは、アスカの「条件」という言葉に再び顔を引き攣らせる。
そんなヒカリの顔をちらっと見て、アスカはゆっくり口を開いた。
「今日の晩御飯当番、シンジの奴なのよ。まあ、シンジも男にしちゃ料理が上手だけど、アタシに比べる
とやっぱり、下手なのよねぇ。で、今日の晩御飯を作るの、手伝ってやってくれると嬉しいわ。別に何
も材料は持ってこなくていいから。6時くらいに来てくれると嬉しいわ。」
一応お願いするような言葉づかいではあるが、「イヤ」と言わせない響きがあった。
しかしヒカリは、思ったより酷い条件じゃない事にホッとしていた。
「いいわよ、別に。私、ご飯作るの大好きだし。」
ヒカリは二人の姉妹と同居しており、食事は殆どヒカリが作っている。その為、食事を作るのはお手の
物なのだ。
アスカの出してきた条件が大した物でなかった事に安心したのか、ヒカリは言葉を続けた。
「でも、せっかくのアスカと碇君二人きりの食事を邪魔したら悪いわね。」
またしても失言である。
やっと冷静になったアスカだが、この言葉にまたもや顔が紅くなっていく。
その顔を見て、ヒカリはまたも自分が失言をしてしまった事に気がついたらしい。
「はははっ・・・・・・」
表情を凍り付かせながら、乾いた笑いを浮かべている。
「ヒカリったら学習能力がついてないのかしら・・・・・・」
レイは、授業が終わってから何度目か判らないため息を吐いた。ヒカリの学校での成績は悪くはない。
その事を考えれば「学習能力なし」の筈はないのだが、こういう時の振る舞いを見てると、ヒカリの
「学習能力」について疑いを挟まざるをえない。
もう、ヒカリを取り敢えずアスカの側から引き離すしかないと、レイの理性が告げていた。
「ね、私もアスカの家にいってもいいわよね。」
「レイは一人暮らしなんだし、当然いいわよ。」
ヒカリを睨み付けながらも、アスカは肯いた。
「じゃ、アタシ達は、とりあえず帰って準備をしてくるから。また、後でねぇ!」
大急ぎでそう言うと、レイは硬直しているヒカリの肩を引っ掴んで、凄い勢いで商店街の方へ歩き去っ
ていった。
それを呆然とした面持ちで見送ったアスカは、
「まぁったく。ヒカリにも困ったもんだわ。」
と言いながら、コンフォートマンションへの道を一人で歩き始める。
初夏にしては日差しの強い空を眩しそうに見上げながら、アスカは何か小さく呟いて苦笑した。
「アタシがシンジの事、好き、か・・・・・・・」
その呟きは、シャワシャワと騒々しい蝉の声にかき消されて、他の誰の耳にも入る事はなかった。



「まったく、ヒカリもいい加減アスカの性格、少しは判りなさいよね。」
その数十分後、第三新東京市の中心部にある、伊勢丹デパートの前をレイとビニール袋を下げたヒカリ
が歩いていた。
アスカは「何も持ってこなくてもいい」とは言ったものの、そういう訳にもいかないだろうと、お菓子
やなにかを買い込んできた帰りである。
「そんな事、言われたって・・・・・・・あんなに怒ると思わなかったんだもん。」
両手に重そうなビニール袋と二つの学生鞄を抱えたヒカリが、そう文句を言う。
ちなみに、レイはUCCの缶コーヒーを持っているだけである。ヒカリのピンチを救ったのだから、とい
う理由で、荷物は全てヒカリに押し付けたのだ。
「いっくら、碇君の事が好きだからって、アスカが簡単に認める訳ないじゃないの。」
缶コーヒーを飲みながら、レイはそういってヒカリの頭を軽く小突く。
重い荷物を持っている為か、軽く小突かれただけでよろめきながらも、ヒカリは自分の疑問を口にする。
「やっぱり、アスカって碇君の事、好きなのかなぁ。」
「そうでしょ。アスカが否定したって、長い付き合いの私の目は誤魔化せないわよ。」
軽い足取りで歩道橋を上りながら、くるっとターンしてヒカリの方を向き、レイはそう答える。
ターンした瞬間、スカートがふわっと捲れあがって、形の良い脚があらわになる。
「まったく。パンツ見えちゃうわよ。」
ヒカリは心の中でそうぼやきながらも、
「でも、レイとアスカって、知り合ってからまだ3ヶ月位しか立ってないんじゃないの?」
と言った。
「それは、言葉の綾ってもんでしょ・・・・・・・って、あれ?あそこに歩いてるの、碇君じゃない?」
レイは、少し離れた歩道を歩くシンジを見つけて、唐突に立ち止まった。
「ほんと?・・・・・本当ね・・・・なにしてんのかしら」
重い荷物に疲れてへろへろのヒカリも、立ち止まってレイの視線を追い、シンジの事を見つけたようだ。
「いーかーりーくーん!」
歩道橋の上からヒカリとレイは、大声でシンジを呼ぶ。その声量なら、向こうを歩いているシンジにも
聞こえるだろうと思った。しかし雑踏のざわめきにかき消されたのか、シンジには届かなかったらしい。
シンジは、何も聞こえないかのように、雑踏の中に姿を消してしまった。
「碇君・・・・・だったわよね?」
あんなに大きな声で呼んだにもかかわらず反応が無かったので、ヒカリは、あれはシンジではなかった
のではないかとさえ疑ってしまう。
「・・・・・・間違いなく、碇君よ。」
缶コーヒーの残りを飲み干したレイは、空缶を手すりに置きながら断言する。レイはシンジを幼稚園の
ころから知っている。間違えようはずが無い。
「人込みの中って結構うるさいから、聞こえなかったのね、きっと。」
ヒカリは、荷物を全部足元に置いてハンカチで顔の汗を拭きながらそう言った。
「ま、そうかもね。さってと、碇君も学校から帰ってきたみたいだし、私たちも早く帰らなくちゃ。」
レイはそう言いながら、足元に置いてあった自分の鞄をつかんだ。
「じゃヒカリ、お菓子をアスカの家にちゃんと持ってきてね。集合は6時よ。」
お気楽にそういって、ひらひらと手を振りながらレイは歩道橋を渡り始める。
「ちょ、ちょっと待ってよ!どうせ家は近いんだから、一緒に帰りましょうよ!」
慌てて荷物を持ってレイの後を追おうとするヒカリの声を背中で聞きながら、レイはある一つの事に
思い至っていた。
「そういえば、碇君、鞄持っていなかったわよね・・・・・・何してたのかしら?」
そんなレイの疑問など知らぬげに、第三新東京市は、夕暮れを迎えようとしていた。

続劇


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