第壱拾伍話  


『Suppe(2)』

邦題 :スープ(2)

 

  ここは第三新東京市立第壱中学校。アスカやシンジ、もちろんトウジやヒカリやレイも通っている
中学校だ。
しかし今日に限っては、太陽の光が差し込む教室内に、アスカとシンジの姿は無かった。

「碇シンジ」
 シンジのいない教室に、老教師がシンジを呼ぶ声が空しくこだまする。
老教師はシンジの返事がないのを確認して、鉛筆をなめなめ、教務手帳にシンジの欠席を記録する。
「碇は休みか……」
何の感慨もなく呟いて、彼は再び生徒の名前を呼び始めた。
名前を呼び、その子が返事をするといういつもと変わらぬ風景が、幾人かに渡って続いていく。
そうこうしている内に、今度はアスカの番になった。
「惣流・アスカ・ラングレー」
アスカは学校に来ていないのだから、返事があろうはずもない。
「惣流も休みか……」
シンジの時と同じように、無関心そうに教務手帳の「惣流・アスカ・ラングレー」の欄に「×」と書き込む。
そして再び、次の生徒の名前を呼び、出席を取り続けて行く。
出席をとっている間は何とか、生徒達もおとなしく教師の話を聞いていたが、授業が始まって教師が昔の思い出
話をしはじめた頃には、何があっても学校を休むことなどなさそうなシンジとアスカが学校を休んだことで、
教室内は騒然として、教師の話など誰も聞いてはいなかった。もっとも、この教室の生徒が教師の話を聞いていない
のは、別に今日に限ったことではなく、いつもの事ではある。
殆どの生徒が話を聞いていなそうではあるが、その中でも特に教師の話を聞いてなさそうなのは、男子ではどう見て
も鈴原トウジであり、女子では圧倒的な大差をつけて綾波レイと洞木ヒカリのコンビであった。
「碇夫婦が仲良く欠席とは、珍しいことやのぉ。」
授業中に勝手に話をしているにも関わらず、悪びれた様子を微塵も感じさせない軽い調子で、トウジは隣の席の
ケンスケに話しかける。
それに対してケンスケは、一応は教師の話を聞いているかのように前を向きながらも、手元の情報端末を操作しなが
ら同じく軽い調子で言葉を返す。
「風邪でも引いたんじゃないか?」
実はその言葉は的を得たものであったのだが、トウジはそうは思っていないようであった。
「いや、あの二人のことやから、勉強が嫌でサボったんやろ。」
何を根拠にしているのかはわからないが、妙に自信たっぷりに、トウジは断言する。
「碇はともかく惣流が、『勉強が嫌でサボる』なんて事があるんだろうか」とケンスケは思ったが、あえてそれ
を口にはしなかった。言ったところで、トウジが納得するなんて事は無いと思えたからだ。
ケンスケの沈黙を自分の意見への肯定と受け取ったか、トウジは勝手に言葉を続けていく。
「それにしても、最近の若いもんは、根性がたりんのぉ。わしが若い頃は、・・・・・・・」
なぜか、『若いもん』への愚痴をこぼし始めたトウジの話を、すでにケンスケは聞いてはいないのだが、それとは
知らずにトウジは、熱く何かを語り続けていた。
トウジが、熱く意味の分からないことを語っている頃、少し離れた席に座っているレイとヒカリも、なぜシンジと
アスカが休んでいるのかについて話していた。
「二人で、デートにでも行ったんじゃないの?」
レイは話をしながら、指の上で器用に鉛筆をくるくると回している。
「まさか」
レイの細い指の上で、軽快に回り続ける鉛筆を目で追いながら、ヒカリはすかさず答えた。
「それもそうね。あの二人が、そんなに急に進展するわけもないか。」
どう考えても、「学校を休んで二人でデート」という線は考えられなかった。シンジがそんな事を提案することは
120%ありえない。アスカは心の底では行きたいと思っているかもしれないが、素直にシンジにお願いするとは思え
なかった。
「となると、風邪を引いたって線が妥当なのかな・・・・・・・・・」
「そうかもね・・・・・・・」
レイもヒカリも、アスカとシンジの休む理由として思い付くのは、結局その程度であった。
「理由がなんであっても、学校が終わったら、アスカの家に行ってみないとね。」
学級委員長らしく、ヒカリはレイに、様子を見に葛城家に行く事を提案する。レイにも断る理由があるはずも
ない。二人の間で、放課後の予定は決定した。
「そろそろ授業を聞かないと駄目よね。」
自分たちの用事が終わったので、やっとレイとヒカリは授業を聞く気になったのか、一応前を向く。しかしその目は
教師がせっせと書き込んでいる黒板ではなく、手元の携帯情報端末を覗き込んでいた。
学級委員長のヒカリでさえこの調子であるのだから、ほかの生徒が授業を聞いているかどうかは、推して測る
事ができるであろう。
いつもの日々と変わることなく、生徒にとってはつまらない授業が、淡々と続けられていった。




4時間目、お昼休みの前になっても、シンジとアスカは学校には現れなかった。
だが、シンジとアスカがいないからといって、授業中の風景が変わる訳でもなんでもない。いつもの様に生徒達は、
授業を聞かずに情報端末を覗きこんだり、隣の友達とヒソヒソと私語をしたりしている。
老教師もそんな状況に気が付かないのか、はたまた既にあきらめているのかは定かではないが、注意するでもなく、
微妙なざわめきの中で授業を授業を続けていた。
と、そのざわめきを切り裂くかの様に、「ガラガラッ」と教室のドアが勢いよく開かれる。
突然のことに、教師は話すのを止めてドアの方を見る。生徒達も、びっくりして身を震わせて、一斉にドアの向こうに
に立つ人物に目を向ける。
そこに立っていたのは、あまりに静かな教室の様子に驚いたような表情の、碇シンジであった。




お昼休み、シンジとトウジとケンスケ、そしてレイとヒカリは、一緒にお弁当を食べていた。
「碇センセぇ、なんで遅刻して来たんや?」
トウジはお昼の弁当を凄いスピードでパクパク食べながら、シンジの方を見る。
それにあわせるようにヒカリも言葉を続けた。
「ね、アスカはどうしたの?」
「アスカが風邪をひいたんだよ。」
サンドイッチを口に運ぶ手を止めて、シンジはヒカリに答えた。
「やっぱり風邪?」
箸を止めて心配そうにヒカリが聞いてくる。
「うん。気持ち悪くは無いみたいだったけど、熱は38℃はあったみたいだから。」
「で、お医者さんには行ったわけ?」
勢い込んだように、レイが尋ねてくる。
その言葉に、今まで比較的に穏やかだったシンジの顔が曇った。
「僕は、『行ったほうがいいよ』って言ったんだけど、アスカが『大丈夫』って言うから・・・・」
「じゃ、行ってないのね?」
「うん……自分の体調は、自分が判るからって言うから……市販の薬を飲んで寝てる………大丈夫かな………」
アスカに『大丈夫』と言い切られて、医者に行かないことを認めてしまったシンジだが、アスカの体調を心の底から心
配しているのだろう。脇に座っているレイとヒカリにも、シンジの表情から、アスカを気遣う心の内を見て取る事ができた。
だが、トウジにはそんな細かい心情の機微は判らないようであった。
「なに言っとんのや、碇せんせぇ。」
トウジは弁当をかばんの中に片づけてから、おもむろに腕を組んで目を閉じる。
「男たるもの、女の言うことをいちいち聞いてたらあかんでぇ。ガツーンと、強く言って………」
自分のポリシーである、かなり時代遅れな男尊女卑の思想を口にするトウジであるが、最後まで言いきる前にヒカリが言葉を
重ねる。
「す・ず・は・ら」
ヒカリは拳を握り締めて、眉毛のあたりをピクピク痙攣させているのだが、トウジは目を閉じているのでそれが見えていない。
「やばっ」とケンスケが思うが、トウジの口をふさぐ暇もあればこそ。
「なんや、いいんちょ。ワシの言っとることの正しさに、感動したやろ。」
ケンスケの手は、トウジの口に先んずることは出来なかった。このあとヒカリの怒りが炸裂するのは間違いないと判断したケン
スケは、弁当を素早くまとめて、他の生徒達の食事の輪の方へ逃げ去っていく。
レイもシンジも、トウジがヒカリに張り倒されるシーンを思い浮かべた。しかし意に反して、ヒカリはゆっくりと立ち上がった
だけだ。だが、その眼は、いつもより更にアブナイ感じである。
「ちょっと来て頂戴。」
この期に及んでトウジは、ヒカリの目の色が尋常でないことに気がつく。しかし、すでに後の祭りであった。
ヒカリはトウジのジャージの襟首をしっかりとつかんで、教室の外へと歩き去っていった。
弁当を食べている生徒達も、これからトウジに訪れる運命を思い心の中でそっと手を合わせるが、とばっちりを恐れて、口を出す
者はいなかった。
「鈴原も、少しは学習しないのかしらね。」
二人の消えて行ったほうを見て、レイは呆れたように呟く。
だがシンジからは何の反応もない。
シンジは目の前の缶ジュースのほうを向いてはいるが、焦点はそこに合っていない。心ここにあらず、といった感じである。
「碇君、アスカのこと、心配?」
「そりゃね。」
レイの問いかけに、さえない表情でシンジは答えた。
シンジの心の中では、アスカに嫌がられても、無理矢理に医者に連れて行くべきだったかもという思いが膨れ上がっていた。
もしかしたら、熱がもっと上がっているかもしれない、症状が悪化しているかもしれないと、悪い想像ばかりが膨れ上がる。
「せめて、学校を休めば良かったんだ・・・・・・・・」
思わず口を衝いて、そんな言葉がでてくる。
「そんな事、ないみたいよ。」
予想もしなかった事であるが、シンジの独り言にレイが返事をした。
「え?」
慌てて顔を上げると、そこには、携帯電話を耳に当てたレイの姿があった。
話の内容から察するに、アスカに電話をかけたようである。
「うん・・・・・・・・・そっか。・・・・・・熱は?・・・・・・変わってない?」
シンジはレイを食い入るように見つめる。熱が上がっていないように、シンジはそれだけを願っていた。
しばらくの後、レイはシンジに向かってOKサインを出した。
それを見て、シンジはほっとした表情を浮かべる。
「ちゃんと寝てるのよ。後で見に行ってあげるから。・・・・・・・うん。あとさ、碇君が心配してるから代わるね。」
レイは電話先のアスカにそこまで言うと、シンジの腕を引っ張って廊下まで連れて行き、シンジに電話を手渡した。そして、
「ごゆっくり」と言って、教室の中に戻っていく。
「ごゆっくりったって・・・・・・・・・電話料金・・・・・・綾波が払うんだよ・・・・・・・」
困ったような表情を浮かべたまま、シンジは電話を耳に当てた。
「アスカ?大丈夫?」
「シンジぃ?あれほど、『大丈夫っ』って言ったでしょ?あたしなら、だいじょーぶよ。心配することないわ。」
電話先から、アスカの元気のいい声が聞こえてくる。
だがシンジには、その威勢の良さの中に、空元気も含まれているように感じられた。
「今日はミサトさんもいないんだし、調子が悪いんだったら無理しないで医者に行ってね。」
心配するシンジの言葉にも、電話先のアスカの声は、あくまで明るい。
「だいじょーぶよっ。そんなに心配することないわよっ。」
元気なアスカの言葉にも、シンジは心の中から不安を完全に取り除くことはできない。というよりは、アスカの妙に元気な声
が、アスカが虚勢を張っているようにも感じられて、かえってシンジには不安であった。
「心配するなったって・・・・・・・・・心配なものは心配だよ。」
その言葉に、アスカは胸が熱くなった。シンジが本当に、心の底から心配してくれている。その事が嬉しかった。
「その・・・・・・心配してくれて、ありがと。でも、本当に大丈夫だから。心配しなくても大丈夫だから。」
「・・・・・そこまで言うなら。」
シンジは本当にアスカの体調が「大丈夫」と確信したわけではないが、アスカがここまで真剣な調子で「大丈夫」と言うのだか
ら、それを信じなければと思った。
「じゃ、ちゃんと寝ててよ。汗をかいたらシャワーを浴びて着替えてね。あと、こまめに熱は測っておいてね。お昼ご飯の皿は、
台所に置いておいてくれれば、僕が帰ってから洗うから。後は・・・・・もうないかな。あ、綾波も学校が終わったら行ってくれるって
言うから。」
風邪を引いた子供に言い聞かせるかのように、こまごまとシンジはアスカに言い聞かせる。
「はいはい。じゃ、アタシの分もちゃんと勉強してくるのよ。」
「うん。じゃあね。」
シンジは電話が切れたのを確認してから、電話を手に、お昼休みに独特の雰囲気が漂っている教室に戻っていった。



「それにしても、シンジって心配性よねぇ。」
アスカは受話器を置いて、自分の部屋に戻りながらそう言った。
ベッド上の布団の乱れを直してから、布団にごそごそと潜り込む。
「でも・・・・・・・・・・」
布団を顔のあたりまで引き上げてから、アスカは小さく呟いた。
「誰かが心配してくれるって・・・・・・・・嬉しいな。」
風邪をひいてだるいけれども、それをはるかに上回る、幸せをアスカは感じていた。

続劇

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