よく人は風景を見て、「心が洗われるよう」だとか、「爽やかな」という冠詞を付けて
それを評価しようとする。もちろん、「絶望的な」とか「冷たい」、「寂しい」といった
ネガティブな表現の場合もありえるが。
しかし実際には、どんな風景にもそれに冠されるべき絶対的な枕詞など、無い。ありえない。
なぜなら人の目に映る風景は、その人の心象風景を反映しているからだ。
その事を鑑みても、今日の夏空は素晴らしい青空だった。夕方にはどうなるかは、今は誰にも判
らない。それでも今は、今だけは、「気分爽快」という冠詞を付けて呼んであげたいほどの、素晴
らしいまでの青空であった。
「暑いわね・・・・・・・・・・」
「気分爽快」な青空に燦燦と輝く太陽から逃れるかのように、浜茶屋の瓦屋根の下、日陰でアイ
スティーを口にするユイは、誰に対してというわけでもなく呟いた。
「暑いですね・・・・・・・・・・・」
と、その言葉に呼応するかのように、ちゃぶ台の向こうで腰をおろしているキョウコも同じような
言葉を口に出す。
二人の口から思わず同時にそんな言葉が出るほどに、今日は、暑かった。それでもここは、陽射しが
直曝していないだけましであろう。
「それにしても、二人とも子供よねえ・・・・・・・・・見てるだけで暑そうなのに・・・・・・・・よく遊ぶわね」
キンキンに冷えてグラスの周囲に汗をかいているアイスティーを手にとってから、キョウコは浜辺に
目を向ける。その視線の向こうには、強烈な陽射しに曝されながらも、波打ち際で戯れるアスカ達の
姿があった。
陽射しは南の海と変わりはしない。が、この日本海の風景は、南海のように「青い海、遠浅の白い
砂浜に椰子の木」というわけにはいかない。
ありていに描写すれば、「青黒い海、すぐに背が立たなくなる黒い砂浜、松の木」という「純日本」な
感じである。もちろん「青黒い海」とは言っても、海が汚い事を意味するわけではない。透明度は十
分にある。しかし潮の性質であろうか、海の色は「マリンブルー」とはいかない。
しかし波打ち際の二人には、ここが南の海であろうと日本海であろうと、そんなことなどお構いな
しであるかのように、夏の日の一日を満喫しているようだった。
まるで子供のように、ビーチボールを追ってはしゃぎ回っている。
二人に注がれる視線に気がついたユイも、キョウコと同じ方向へ視線を向けた。黒っぽいとは
言え、砂浜は、夏の陽射しを乱反射させて、ユイの瞼を強烈に射る。
「うぅん・・・・・・・・・・・・・でも、アスカちゃんなんか、わたし達よりも2周りは若いわけだし」
そのユイの言葉の後をキョウコが継いで続けた。眼には微笑が浮かんでいる。
「実際に子供・・・・・・・・・・ですもんね。あたしの娘って意味でも、年齢からの意味でも」
ユイはキョウコの言葉に、ストローを口にしたまま無言でこくこくと肯いた。その反動でグラスの
中の氷が揺れて、あたかも返事をしたかのようにカラカランと涼やかな音を奏でる。
「それにしてもアスカちゃん、キョウコさんに似て、美人で聡明で。いい子に育ったわね」
グラスをちゃぶ台に戻してからそう言うユイに、キョウコはアスカ達から視線を外して、ユイに
恥ずかしげな笑みを向ける。
「ユイさん、誉めすぎ・・・・・・・」
「あら、誉めすぎってことも無いと思うけど。あれならどこの男の子だって放っておかないわよ。
是非とも、うちのシンちゃんのお嫁さんに欲しいくらいだもの。ね、シンちゃん」
浜辺で戯れる二人、アスカとミサトをぼうっと眺めながら、意識の端で聞くとは無しに二人の
会話を聞いていたシンジであったが、いきなり話を振られて困ってしまう。しかも、振られた
話題が「アスカをお嫁さんに欲しいかどうか」などという話題である。なんて答えて良いものやら
シンジには全く判らない。
興味津々という顔で眺めているユイと、苦笑混じりの笑顔で覗き込んでくるキョウコの碧い瞳。
答えを求める二人の視線に困ってしまい、助けを求めるかのように、煎茶をすすっていたゲンドウ
に視線を向ける。しかしゲンドウは、湯飲み茶碗を手にしたまま、面白がっているかのように「フッ」
と小さく笑って視線を逸らしてしまった。
シンジに助け船を出してくれそうな人は、いない。
『どう答えればいいんだよ・・・・・・・・・キョウコさんがいるのに、「いいえ」なんて言うのもなんだし
・・・・・・・どうしよう・・・・・・・・なんて答えればいいんだよぉ・・・・』
この場に、いつでも冷静沈着がモットーの綾波レイでもいれば、「良く考えて、自分の気持ちを
整理すれば、言う事なんか判りきってるんじゃないの」とでも言ったであろうが、ここには彼女は
居はしない。
悩んだシンジは、結局、当たり障りのない答え方をしてしまう。自分の心の奥底にある感情には
気が付かないまま。気が付こうとしないまま。
「クラスの男の子の中では、そう思っている人が多いと思いますけど」
キョウコに向かってシンジはそう口にする。
一瞬、キョウコの顔色が複雑な表情になる。驚きか戸惑いか、もしかしたら悲しみか、それらの
感情が一瞬、もつれるようにキョウコの顔の上を駆け抜けていく。しかし、シンジがその事に気が
付く前に、キョウコの顔にはいつもと変わらない笑みが浮かんでいた。
「あらあら、どうやらアスカ、結婚相手には困らなそうね。あのコ、あたしに似て性格キツイから
駄目かと思ってたけど」
「そんなこと、ないですよ」
キョウコの言葉にあわせるシンジは、ユイとゲンドウの顔にも複雑な表情が浮かんでは消えていっ
たことに気づく由も無かった。
「ユイさん、なに深刻な顔してるんですか?」
シンジは気が付きもしなかったが、一瞬、キシッという音を立てて軋んでいたその場の雰囲気が、
端からかけられた能天気としか言いようの無い声によってスッと霧散する。
「夏なんだし、もっと、パーッといきましょうよ」
声の主は、水着の上からサマーパーカーを羽織ったミサトだった。手にはさっきまでアスカと遊ぶ
のに使っていたビーチボールが乗っている。
「葛城君・・・・・・・・いつまでも子供の心を失わない・・・・・・素晴らしいな」
苦笑としか言いようの無い表情を顔に貼り付けながら、ゲンドウが声を掛ける。
それを聞いてミサトは、照れたような笑いを浮かべながら頭をポリポリと掻いた。
「所長・・・・・・・誉めてもなにもでませんよ」
『多分、父さん、「子供っぽいぞ」って皮肉ってるんだと思うけど・・・・・・・』
その場にいた人たちで、誉められていると思ったのはミサトだけで、他の人たちはゲンドウが苦言
を呈しているのだろうと思ったが、ミサトが喜んでいるのなら別にいいかと思い、誰も口にはしない。
だがミサトの後ろから現れた、ショートパンツタイプの水着の上に黄色いTシャツを着た少女、アスカ
は違った。
「ミサト、多分、子供っぽいのもいい加減にしろってことよ、もう29歳なんだし」
「そ、そうなんですか、所長?」
ショックをありありと表情に浮かべて、ミサトはゲンドウの方に目を向ける。
「いや、その・・・・・・・・・・・・・」
こういうことは、面と向かって言われると何といったらいいのか答えに窮してしまうものだ。ゲン
ドウもご多分に漏れず、答えを探して視線が宙を泳ぐ。
いつも冷静沈着で厳格で、常に何手も先を読んでいるかのような性格のゲンドウがうろたえている
のを見てユイとキョウコは忍び笑いを漏らす。
「それにしても、おばさま、早く帰らなくちゃいけなくなるなんて・・・・・・・・」
うろたえるゲンドウを気にも留めず、アスカはユイの目の前、つまりキョウコの隣りにに腰を
下ろした。手には、クーラーボックスから取り出してきた缶ジュースが握られている。
「そうね・・・・・・・・まさかこんな時に、研究所のコンピュータがダウンするなんてね・・・・」
ユイは本当に残念そうに、プルトップを引き上げるアスカに向かって笑いかけた。
昨日の夜、ゲンドウの携帯電話に「アメリカの研究所に設置されているニューロコンピュータが、
原因不明のシステムダウンを起こした」との連絡が入り、ゲンドウ・ユイ夫妻は明日にもアメリカに
とんぼ帰りする事を決めていたのだ。
「ユイさん、別に帰国を遅らせてもいいんじゃないですか?広報部の方から連絡とりますから」
ミサトが、ゲンドウ追及からユイ達との会話に移行した事で、ゲンドウはほっとした表情を浮かべる。
その様子を目の端でちらっと捕らえて唇の端に微笑を浮かべながら、ユイはミサトに向き直る。
「まあ、わたし達が帰ったからどうなるわけでも無いんだけど・・・・・・・・・」
「皆が働いているのに、我々だけ休暇を取っているというのも、な」
「気が引けるのよね」
「さっすが働き者夫婦ですねえ」
茶化すようにキョウコがそう言う。こんな口の聞きかたを碇夫婦にできるのは、おそらくキョウコ
位のものだろう。元々の仲のよさ、そしてアスカにも引き継がれている事だが、何者をも恐れない
気性がなければ、とてもではないがこんな口の利き方はできるはずも無い。
「でも父さん達、学校いかなくていいの?」
苺シロップのたっぷりとかかったかき氷をスプーンですくって口に運びながらながら、シンジは
ゲンドウとユイに向かって問い掛ける。
「あ、そっか」
シンジの言葉を聞いて、アスカも思わず声を漏らした。
今の今迄アスカもシンジもミサトも忘れていた事であるが、ゲンドウとユイが帰ってきたのは、
シンジの成績に関して学校から呼び出しがあったから、であったはずだった。
「あ、それは大丈夫よ。もう電話で話は付けてきたから。ま、でもシンちゃん、宿題はできるだけ
やっていかなきゃ駄目よ」
ハタハタと手を振りながら、ユイはウンウンと肯いてみせる。
そんなユイの様子を見てシンジは、怪訝そうな顔になる。
「へ?じゃあ何しに来たの?」
それを聞いて大人3人と半大人のミサトが、一瞬にして沈黙した。
その沈黙を、アスカは漠然とではあるが「なんか変だな」と感じた。しかしそれが何なのかは
判らないまま、沈黙を破る。
「シンジ・・・・・・・・久々に会いに来てくれたおばさま達に向かってそれはないと思うけど・・・・・」
「そうよ、シンジ君。たまには子供に会いたいってのが親って」
アスカに続いてミサトも慌てたように言葉を続けたが、それはユイによって遮られる。
「あ、いいのよ葛城さん。なんで来たのか、いつまでも言わない訳にもいかないでしょ」
ユイの表情はさっきまでのものとはうってかわったものとなっていた。「厳しい」というほどの
ものではないが、引き締まった表情の端々に緊張が見え隠れする。
『来た理由って?学校じゃないなら・・・・・・・なにか他に理由があるってこと?』
アスカの胸に、夏空に広がる入道雲のように、言い知れぬ不安感が広がる。
不安を顔に出してそれを隠さないまま、隠せないまま、アスカはゲンドウへと目を向ける。
ゲンドウは気まずそうにサングラスの向こうの目をフイとそらす。
『なんで目をそらすの?』
次にミサトに目を向ける。
ミサトと視線が合う。碧い瞳と茶色の瞳が真正面から向かい合う。そして。困ったような、そう
としか表現しようのない笑みを浮かべて、頭をぽりぽりと掻いた。
『どういうこと?』
続いてアスカがすがるように視線を向けたのはキョウコ。そのキョウコは、ミサトと違い、アスカ
の視線に対して、なんの反応も返してはこなかった。少なくとも目に見えるような反応は。
しかしアスカは気が付いてしまった。生まれた時からずっと近くに居てくれたキョウコ。その表情
に目に見えての変化がなくても、瞳の奥に潜む光で、アスカには判ってしまった。
キョウコは理由を知っている事を。その理由が、アスカにとって嬉しくないものである事を。
「それで」
シンジが口を開き始める。
『聞きたくない』
アスカは心の中で悲鳴を上げる。だが口は動いてはくれない。
「母さん達」
『でも・・・・・・』
「なんで来たの?」
シンジが最後まで言葉を口にする。
『やっぱり聞きたくない・・・・・・』
聞きたくないという思いと、聞かなくちゃという思い。二つの思いがアスカの心の中で混ざり合い、
アスカに口を開かせてくれない。
浜茶屋の屋根の下に沈黙の時間が流れる。
砂浜に打ち寄せる波の音と、松の木にしがみついている蝉の鳴声だけが響き渡る。
口を最初に開いたのは、やはりというか、当然というか、ユイだった。
ちらりとアスカの方を見やってから、シンジに向かって声を掛ける。
「シンちゃん、今の学校やめて、アメリカの学校に通わない?」
その言葉を聞いた瞬間。
アスカは体中の血管が、ドクンと音を立てたのを確かに聞いた。
そしてその音を最後に、アスカの耳には何の音も聞こえなくなった。波の音も蝉の声も皆の声も。
ユイ。
ゲンドウ。
キョウコ。
ミサト。
そしてアスカとシンジ。
ユイ達の来た理由を知っていたがゆえの、また知らなかったがゆえの沈黙がその場を支配する。
屋根の向こうに広がっている青空は、今は、絶望的なほどに青く冷たく透き通り、寂しそうな一匹の
蝉の鳴声が、浜辺の6人を包み込んでいた。
続劇