第壱拾六話  


『Suppe(3)』

邦題 :スープ(3)

 

「ごめんくださぁい!」
第三新東京市の山の手にあるコンフォートマンションに、少女の元気な声が響き渡った。
マンションの廊下に付いているインターフォンに向かって話すにしては、多少、声が大きすぎるように思えるが、
このマンションに住んでいるのは殆どが研究所勤めの人間であり、この時間帯には家にいないので、誰も文句を言う
者もいなかった。
この大きな声の少女の名前は、綾波レイ。このマンションに住んでいるアスカが、風邪を引いたというので、お見舞
いに来ていた。
レイが叫んでからややあって、インターフォンからくぐもったようなアスカの声が聞こえてきた。
「どうぞ」
その声とほぼ同時に、玄関のロックが外れる音がして、次いでドアがプシュッという音を立てて開く。
そこにはアスカではなく、葛城家でペットとして飼われている、温泉ペンギンのペンペンが首を傾げながら立っていた。
「ペンペン!」
ペンペンを見て、レイの顔が緩む。彼女はこの温泉ペンギンが好きだったし、またペンペンにも好かれているようだった。
「おじゃましまぁす!」
飛びつくように近寄ってきたペンペンを胸に抱き上げて、レイはダイニングキッチンへと歩みを進める。
アスカは部屋で寝ているのだろうというレイの予想に反して、アスカはキッチンのテーブルに座って、リンゴジュース
を飲んでいた。思っていたよりも、顔色ははるかに良い。
「アスカ、起きていても大丈夫なの?」
ペンペンを床におろしてやりながら、レイはアスカに尋ねた。
「本当は立ち上がるのもやっとなんだけど、レイがインターフォンを鳴らすから、仕方なく起きてきたのよ。」
飲み終えたコップを洗いながら、アスカはレイを軽く睨む。しかし、「立ち上がるのもやっと」とは言っているものの、
アスカの声はそれほど辛そうな声ではない。
「そっか・・・・・・・ごめんね。」
アスカの顔色がそれほど悪くは無いので、「立ち上がるのもやっと」という言葉は冗談だろうとは思ったが、レイは一応
頭を下げる。
「なーんてね。最近は良く効く風邪薬があるから、結構、楽なんだけどね。」
予想通り、先ほどのは言葉半分だったようである。アスカはレイに軽く笑って見せた。そして、スタスタと自分の部屋に
向かって歩いていった。
レイは鞄をテーブルの上に置いてから、アスカの後を追って部屋に向かう。
「碇くんは、ちょっと買い物してから帰ってくるって。」
レイはシンジから頼まれていた言付けを伝える。
「そうなの・・・・・」
アスカは後ろを振り返るでもなく返事をしたが、その言葉の調子に、少しだけ落胆の色が見えたような気がしたのは、レイ
の思い違いであろうか。
「また、寝よっかな。」
アスカは誰に言うでもなく呟いて、ベッドへと向かった。
その後に付いて部屋に入ったレイは、前に遊びに来たときと、部屋の様子が変わっているのに驚いた。レイは何度もアスカ
の部屋に来た事があるが、良く考えると、その度に家具の配置が変わっていた様な気がする。よほど模様替えが好きなのだろう。
「前に来たとき、こんな椅子ってあったかな?」
レイは記憶の中の部屋の様子と比べながら、机の前にある木製の椅子に座る。
その間に、アスカはベッドの中に潜り込んでいた。
「で、熱はさがったわけ?」
レイは机の上に広げられたファッション雑誌をペラペラめくりながら、アスカに尋ねる。
「お昼に測って、37.0℃あるかどうかって感じだったわね。」
それを聞いて、レイは雑誌を閉じて、アスカの方に向き直った。
「でも、薬を飲んでるから下がってるだけよね、きっと。」
そのレイの言葉に、アスカは無言で首を縦に振る。
比較的に気分はいいのだが、それでも風邪をひいた時に特有の気だるさを感じている。恐らく熱が下がっているのも、
レイの言う通り、薬が効いているからなのだろう。
「今日は一日中寝てたから・・・・・・・・・・・明日、もう一日寝てれば、治るんじゃないかな。」
シンジがお昼の準備など、学校へ行く前に必要な事はすべてやっていってくれたので、アスカはおとなしく寝ているだけで
よかった。
「そうだといいわね。あんまり、碇君に心配かけちゃだめよ。そのうち、心労で倒れちゃうわよ。」
「シンジ・・・・・・・・・そんなに心配してたの?」
不安そうな顔で、アスカはレイの顔を覗き込む。シンジが心配してくれたのは、ちょっぴり嬉しいが、それでも「心労で倒
れる」ほどに心配をかけたのだとしたら、それはそれで胸が痛む。
そのアスカの心配そうな表情を見て、レイは笑いを浮かべる。
「碇君が、風邪ひいてるアスカを家に残して来たとき、どんな顔してたか気になる?」
「べ、べつにそう言うわけじゃないけど・・・・・・・・・・」
アスカは慌てて明後日の方向を向く。
素直じゃないアスカに心の中で苦笑しながらも、レイは学校でのシンジの様子を伝える。
「もう落ち着きがなくて、凄かったわよ。いつでも結構ボケボケっとしてるのに、今日は更にボケボケっとしてたわ。」
「別にシンジは、ボケボケっとなんかしてないわよ。」
口を尖らせてアスカは反論する。いつも自分が、シンジを指して「ボケボケっとしている」と言っているのだが、他人
に言われると腹が立つらしい。
「あら、碇くんのこと、『ボケボケっとしてる』って言ってるのはアスカよ。」
その言葉に、アスカは口をつぐむ。それも本当の事だからだ。
「ま、誰でも好きな人の事をけなされると、頭にくるものよねぇ。」
レイは、腕を組んで一人で納得している。
そう言われてアスカは、布団を跳ね飛ばして起き上がる。いつもの事だが、顔は紅い。これは熱があることだけが理由な
のではないだろう。
「だだだだ誰がシンジの事が大スキだってぇのよ!」
「アスカ」
レイのストレートな言葉に、アスカは返す言葉が無い。しばらく口をぱくぱくさせて、何か言いたげな表情を見せていたが、
その内にふて腐れたような表情で、布団をかぶる。
「別にアタシ、シンジの事なんか好きじゃないもん。」
「アスカって、思ってたより頑固ねぇ・・・・・・・・」
その言動が、明らかに「シンジを好き」という事を指し示しているにもかかわらず、なかなかシンジを好きだという事を認
めようとはしないアスカに、レイは呆れたような表情を浮かべる。
しばらく処置無しという表情を浮かべて、布団をかぶったアスカを眺めていたが、やがて良いアイデアを思い付いたようだ。
呆れた表情が、悪戯っぽい表情へととって変わる。
「そっか・・・・・・・アスカが碇君の事、好きじゃないんだったら、あたしが碇君にアタックしちゃおっかな・・・・・・・ちょっと頼り
ないけど、結構、いい男だし・・・・・・・・・・」
わざとらしくそう言いながら布団の方を注視していると、期待通りにアスカが布団の端から顔を覗かせた。
「そんなぁ・・・・・・・・・・」
レイの言葉は効果抜群であった。布団の端から覗いた顔には、「シンジをとらないで」という表情をありありと見る事が
できる。
「やっぱり碇君の事、好きなんじゃない。おとなしく、認めちゃいなさいよ。」
勝ち誇ったように言うレイに、アスカはしばらく黙っていたが、レイの促すような目つきに屈したのか、
「そうよ、アタシはシンジの事が好きなのよっ」
と、紅い顔をますます紅くして叫んだ。恥ずかしかったのか、すぐに顔の上にまで布団を引き上げてしまう。
「やっぱりね。」
良く考えてみれば、レイはアスカの言動から、「アスカはシンジの事が好きだ」という確信にも近い考えを抱いてきたが、
それをアスカの口から聞いたのは始めてだったような気がする。
「で、碇くんは、その事知ってるの?」
「知ってるわけ、ないじゃない・・・・・・・・・・・」
依然として顔を布団で隠したまま、アスカは答える。
「あたしが言うわけにもいかないしねぇ・・・・・・・・・」
別にレイが困る事では無いのだが、いつもは勝ち気なくせにシンジの事となると弱気になるアスカと、超の字を何個つけても
たりないくらいの鈍感男であるシンジの組み合わせでは、いつまでたっても二人の関係が進展するとは思えない。
一応、レイにとってアスカは「親友」であるのだから、その恋を応援してあげたくなるのも無理はない。
「あたしが碇くんに、どんな子が好みか、それとなく聞いてこようか?それに合わせて、アスカも碇くん好みの女の子になれば
いいじゃない。」
好きな男の子に好かれるように自分を変える。それは普通の事だろうと、レイは思っていた。だからこのように提案したの
だが、アスカはこの点について、少し違う考えを持っているようであった。予想外の答えが返ってくる。
「それだけは、ダメ。」
アスカは布団の中から、顔だけ覗かせる。顔はまだ少し紅いが、表情はいつに無く真剣であった。
「どうして?」
レイは不思議そうな表情を浮かべた。
その顔をしっかりと見詰めながら、アスカは自分の考えを、言葉を選び選び、伝えていく。
「アタシは確かに、シンジが好きなの・・・・・・・・どこが好きなのかは判らないけど・・・・・・・とにかく好き。でも、レイが言ったみたい
に、シンジが好きな女の子になるってのは・・・・・・・・・違うような気がするの。アタシはシンジが好きだし、シンジにもアタシを
好きになって欲しいけど・・・・・・・・・でも好きになって欲しいのは、このまんまのアタシなの・・・・・・・・もちろん、悪いところは
直すけど・・・・・・・アタシの個性を壊してまで好かれたいってのは・・・・・・違うような気がする。アタシは、今のままの、惣流・ア
スカ・ラングレーを好きになって欲しいなって思うの・・・・・・・・・これって、贅沢かな?」
アスカにも自分が言っている事が正しいという実感などは無い。もしかしたら、レイの言っている事が正しいのではないかとも
思う。でもアスカは、自分を変えてまで人に好かれようとするのは、何かが間違っているような気がした。
アスカのしっかりとした考えにレイは舌を巻く。もちろんレイだって、アスカの言葉が正しいのかどうかを判断できるほどの人生
経験があるわけもない。だが中学生にして、これだけしっかりした自分なりの考えを持っている事は、驚き以外の何物でもない。
レイは反論する事は出来なかった。
「そっか。アスカの言う事も、正しいかもね。」
「そうかな・・・・・・・・」
不安を隠せない表情で、アスカはレイに聞く。それもそうだろう。もしも自分の言っている事が全く間違っていたら、それでシン
ジを失う事にもなり兼ねないのだから。
「だいじょーぶよっ」
アスカの不安を吹き払うような明るい顔でレイは言った。
「アスカぐらい可愛いなら、なんとかなるって。」
根拠など全く無い言葉なのだが、今のアスカには頼もしく聞こえた。
毛布の端をしっかりと握り締めたまま、首をこくりと振る。
その様子をみて、レイはにっこり笑った。しかしその笑いもつかの間、慌てたように椅子から立ちあがる。
「そうだ、宿題のプリントを預かってきたんだった!」
「まぁったく、レイって忘れっぽいんだからぁ。」
そう言って口を尖らせたアスカの表情は、すでにいつものそれであった。
「いま持ってくるねっ」
レイはバタバタとキッチンの方へと走っていく。




まだまだ第三新東京市は、夕暮れまでに時間を残していた。

続劇

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