第参拾八話  


『海の彼方へ(8)』

 
  アスカが新潟空港で、後悔だけをその小さな胸に浮かべていた時より、時間を少しさかのぼる。
わずか後にキョウコとアスカが立つ事になる、チャーター機専用の建物に、三人の人影があった。
碇ゲンドウ、ユイ、そしてシンジ。
三人とも無言であった。
無言のまま、ゲンドウはロビーにあったソファーに腰を下ろす。
無言のまま、ユイはカウンターに向かい手続きを行う。
そしてシンジは、彼も無言のまま、ゲンドウの向かいに腰を下ろした。
腰を下ろした時に邪魔になったのか、ポケットから携帯電話を引っ張り出して、ソファーの前のガラス
テーブルにそれを置く。
そんなシンジの動きを目で追いながら、ゲンドウがボソリと口を開く。
「それでシンジ、どうするんだ、結局」
シンジはここまで来ても、まだ結論を出していなかった。アメリカに行くのか、それとも日本に残るのか。
「その・・・・・・一応、殆ど、そう、殆ど決まってるんだけど・・・・・・・・・」
歯切れの悪い口調でそう答えながら、シンジは上目遣いでゲンドウを見やる。
「どう決まったんだ」
とゲンドウが聞き返そうとするが、それより速く、ゲンドウの背中から女性の声がかかる。
「シンちゃん、で、結局どうするの?」
ソファーの向こう、ゲンドウの斜め後ろに立っていたのはユイだった。カウンターに向かったが、
戻ってきたらしい。
「手続きしちゃおうかと思ったんだけど、良く考えたら、シンちゃんがどうするか決めないと、
手続きのしようがないのよね」
「あ、そっか・・・・・・・・・」
ユイの言葉に、シンジは浮かない表情で呟く。
シンジは、一応、どうするか決めていた。「一応」なのは、自分の決定に自信が持てないからに他
ならない。
『これで・・・・・・・いいんだよ・・・・・・ね』
自分の決定が正しい事を誰かに認めて欲しく、シンジは心の中で自分に問い掛ける。しかし、誰も
答えてくれるはずもない。
無意識に視線は、ガラステーブルの上の携帯電話に向かう。
電源は、入っている。
ユイとゲンドウは、車に乗って空港に向かう途中で、携帯電話の電源を落としていた。もうすぐ、機
上の人になってしまうからだ。。
だがシンジはそのとき、携帯電話の電源を落としてはいなかった。
それは、多分、携帯電話を使う事になるだろうと思っていたからだ。
アスカに電話をするために。
自分の決定を伝えるために。
確かに、ユイが「アメリカに来ないか」という話をしたのは昨日で、決定するのに許された時間
はとても短かった。でも、それでも本当は、自分がどうするのか早く決めて、アスカに伝えてから来
るべきだったのだろう。
だが、朝の時点ではどうするのか決まってすら居なかった。もう一度、アスカに相談しようかな、
と思っていたのに、アスカは、朝食も早早に切り上げてどこかに消えてしまった。それで結局、どう
するのか、アメリカに行くのか、日本に残るのかの決定をギリギリまで伸ばすために、ユイ達について
空港まで来たのだった。アスカには、空港からでも連絡すればいいや、と思いながら。
シンジは浮かない顔で携帯電話を手にした。もっともシンジには、自分の表情が浮かないものである
ことに気が付くことはできないのだが。
ジョグダイヤルを廻し、電話帳を呼び出す。液晶の画面上を高速で沢山の名前が通り過ぎていき、
『惣流アスカ』という名前で停止する。
今までに何度も呼び出した名前。
その名前を見て、シンジはコールボタンに親指を添える。
自分が決めた事をアスカに伝えるために。
アメリカに、行く事を。
でも、押せない。機械が壊れたとかいうわけではなく、なぜか押したくない気がして、押せなかった。
そこで自分の意志を確定させようとするかの様に、シンジは立ち上がり、ユイとゲンドウに向かって口を開
いた。顔色は、多少白い。
「僕・・・・・母さん達についていこうと思う。今、アスカにも電話してくるから、ちょっと待ってて」
そう言ってシンジは、少しでも電波の強い所へ、窓際へと歩んでいった。
窓からは八月の陽光が燦燦と差し込んでいる。その光を体中に浴びながら、シンジは思い切って、
携帯電話のコールボタンを押し込む。ボタンはなんの抵抗も無く、指の力を受け止めた。
送信を始めた携帯電話を耳に近づけていきながら、シンジはポツリと呟いた。
「アスカに・・・・・・・なんて言おう・・・・・・・」
アメリカに行くと決めた事を伝えるだけなのに。
なぜか言葉がまとまらない。
そうこうする間にも、液晶画面をアスカの電話番号が流れて行き、ダイヤル音がピッピッと携帯電話
から漏れてくる。
「・・・・・・なんて言うかな・・・・・・・『ふぅん。アンタが決めた事だから勝手にすればぁ』とか言うんだろ
うなぁ・・・・・・・・・でも、そういえば・・・・・・・・・最近アスカ、僕の事、アンタって言わなくなったな・・・・
・・・・・なんでだろ・・・・・」
ダイヤル音を右耳に感じつつ、シンジは意味も無くそんな事を考える。
ユイはそんな息子の様子を眺めてため息を吐いた。そしてゲンドウの方に白い手を置く。
「これでいいのかな?」
それに対してゲンドウは、憮然とした表情のまま、腕を組む。
「シンジが望んでいるなら・・・・・・・・仕方ないだろう・・・・・・・」
「そうね・・・・・・・・・」
複雑な表情のままユイは呟いた。
ユイの気持ちも、表情に負けず劣らず複雑である。確かにシンジに「アメリカに来ないか」と
言ったのはユイだし、ユイの気持ちは今でも変わらない。可愛い息子は、やはり、手元に置いて育て
たい。
だが日本に来てから、正確にはアスカに会ってから、その気持ちに加えて、全く別の気持ちも胸に
浮かんできていた。シンジを日本に置いておく方が、アスカ達と一緒の方が良いのではないかという
気持ちである。
もちろん、ユイがアスカを気に入っていて、アスカがシンジを好きなのをユイが知っているから、
それも理由である。アスカの気持ちを考えると、シンジを連れて帰っていいのか、ユイは悩んでしまう。
しかしユイがシンジを日本において置こうかと思うのは、それだけが理由ではない。なんとなく、なん
となくではあるが「シンジもアスカを心のどこかで頼っているのではないか」と感じるからだ。もちろ
んシンジ自身はそんな事を口にはしないし、本当にそうなのかは判らない。ただのユイの勘でしかない。
「やっぱり、シンジ、残した方がいいのかな・・・・・・・」
ユイが再びゲンドウにそう問い掛ける。自分でも正しい答えがどれであるのか分からないから、ゲン
ドウの言葉が欲しいのだ。
しかしいくらゲンドウでも、こればっかりは判らない。決めようが無い。そうユイに言おうとして、
ゲンドウが口を開きかけた時。
「アスカ、出ないや・・・・・・・」
シンジがスタスタと二人の方に向かって歩いてきた。手にはアンテナの伸びたままの携帯電話がある。
「まあ、あそこ、電波状況がわるそうだったからね。もう少ししたら、掛け直してみたら」
ユイの言葉にシンジは、小さく「そだね」とだけ返して、再びソファーに腰を落とした。
親子の間を、気まずい沈黙が支配する。
ゲンドウは仏頂面、シンジは浮かない顔。父子そろって、いい表情をしているとは言い難い。
そんな二人を見ていたユイは、視線を宙にずらす。
大きな窓ガラスの向こうには、抜けるような青空が広がっていた。
「そう言えば・・・・・・・この人にプロポーズされたのも、こんな、いい天気の日だったなぁ・・・・・・・」
青空の色から、ゲンドウにプロポーズされた日、結構遠い昔のある日の事を、ユイは思い出して
いた。そして、その時の気持ちも、一緒に思い出す。そしてそれにつられるかのように、色々な
風景を、季節を、気持ちを思い出す。
しばらくその思い出に浸った後、ユイは、小さく微笑した。
そして、青空から瞳をそらし、ソファーに腰を下ろす。
「とさり」という軽い音を立てて腰を下ろしたユイにシンジが視線を向ける。
そのシンジの視線を真っ正面から受け止めながら、ユイは口を開いた。
「シンちゃん、アメリカに来てくれるっての、わたし達、嬉しいわ。でもね、一つだけ聞いて欲しい
ことがあるの」
「なんだ、一つだけって?」
ユイの言いたい事がなんなのか判らないゲンドウは、ユイの言葉に口を挟んだ。
しかしユイの視線一つでゲンドウは、黙り込んでしまう。もちろん、ユイの言いたい事が判ったわけ
ではない。ユイの視線の中に含まれる「黙ってて」の意味に気がついただけだ。
「シンちゃん、なんでわたしが、シンちゃんに「アメリカに来ないか」って誘ったか判る?」
シンジは、無言で首を横に振る。
それを確認してからユイは言葉を続けた。
「それは、お父さんと、わたしがシンちゃんを大事に思ってるからなの。大事なものは、側において
置きたい、離れたくないって思うの、それは判ってくれるわね」
今度はシンジは首を縦に振った。
「それは、判る。なんとなく、だけど」
シンジはユイ達の気持ちは理解できた。やはり親子は、年齢が大きく離れれば別ではあるが、シンジ
位の息子を持つ親が、子供と一緒に住みたいと思うのは当然の事なのだと思う。もっとも、シンジは
誰かの親になった事があるわけではないので、推測でしかないのだが。
そのシンジの「なんとなく」という答えを聞いて、今まで黙っていたゲンドウが、「フッ」と笑み
を小さく漏らした。「シンジらしい答え方だ」と思ったのだろう。
そんなゲンドウを横目で眺めながら、ユイはさらに言葉を継いだ。
「で、シンちゃんにとって大事なものは何?」
「・・・・・・・・・・大事なもの?」
「そ。大事な、もの」
いきなり質問をされて、シンジは面食らってしまう。
大事なものはなにか?
そんな事をいきなり聞かれて、すぐに答えられる人などそうそう居ない。普通の人なら、ある程度の
「大事なもの候補」を思い浮かべて、結局、それを絞り切れないものだ。
シンジもそんな普通の人であったらしく、暫くの間、下を向いて考え込む。
考え込むシンジを、ユイとゲンドウが優しい眼差しで見守る。ゲンドウの表情から、さっきまでの
いささか怪訝そうな、不審そうな表情が消えているのは、きっと、ユイが言いたい事が判ったからで
あろう。
考える息子と見つめる夫婦の頭上遥か彼方を、爆音を残して、また一機の飛行機がどこかへと飛び
去っていく。
しかしシンジは、そんな騒音に気を散らされる事無く、ユイに問い掛けられた、「自分にとって大事な
モノ」がなんであるのか考えている。
「大事な・・・・・・・もの・・・・・・」
色々なモノが頭の中に、パッと浮かんではすぐに流れて消え去っていく。
大事そうなものは色々ある。でも、どれが大事なものなのか、どれが大事でないのか、言い切るのは
難しい。
いくら考えても結論なんかでそうにはないので、その事を率直に口に出す。
「なにが・・・・・・大事かって急に言われても・・・・・・・・」
「判らないわよね」
思っていた事をユイに言われて、シンジは肯くしかない。
「で、そういう時はどうするか」
ピッと指を立ててそういうユイの顔を見詰めながらシンジは、「あ、この表情、見た事ある」と気が
ついた。確か、夫婦でアメリカに行く事になったがシンジをミサトに預けていくと決めた、その事を
シンジに告げた時の表情であった。
そんなシンジの心の動きなど知る由もないユイは、言葉をつなぐ。
「離れがたい、去りがたいものを考えるの。さっきわたしが言ったでしょ。大事なものは、離したく
ないものだって。大事なものとの距離は、小さいくても大きくてもイヤなのよ」
一瞬さまよい始めていたシンジの心は、ユイの言った言葉によって引き戻される。
「離れたくない・・・・・・・モノ?」
「そうよ。離れたくないもの・・・・・・」
「・・・・・・ない・・・・・もの・・・・・」
呟くシンジ。
その様子を見ていたユイは、シンジが自分で答えを口にするまで待っていようかと思いシンジの表情
を注視する。しかし、ゲンドウに脇腹を突付かれ、腕時計の盤面を見せられて、気が変わる。もう、
フライト時間までの余裕が無い。仕方なくユイは、再び口を開く。
「わたしもお父さんも、シンちゃんが『アメリカに来る』って言ってくれたのは嬉しいんだけど、でも
ね、なんか大事なものを忘れてるんじゃないかなって気がするのよ」
その言葉に、今まで無言を貫いていたゲンドウが、口を開く。
「そういうことだ。失くしてからでは遅いからな」
それだけシンジに向かっていってから、ゲンドウは立ち上がる。そしてユイに、
「手続きをしてくる」
とだけ言い残して、カウンターの方へと向かっていった。
そのゲンドウの後ろ姿にちらりと視線を送ってから、ユイはシンジの方に向き直った。
「そう。シンちゃん、アメリカに行くって決めてからも、なんとなく、心残りっていうか、そうね、
『これでいいのかな』って思ったりしてるでしょ?」
「それは・・・・・・・・そうかもしれないけど・・・・・・・・」
シンジは素直に認める。なんとなく、これでいいのかな、という気はしていた。それをアスカに確か
めて欲しかったのに、間違ってないわよ、と言って欲しかったのにアスカは何処かに行ってしまうし、
なんとなくもやもやした気分が残っているのは事実である。
ユイは更に言葉を続ける。
「それはね、なにか大事なものが、残っちゃってるからじゃないかな、って思うの」
シンジは何も口にしない。
ユイは一つ咳払いをしてから、もう一つ咳払いをしてから、その言葉を口にする。
「例えば、あくまで例えば、よ。そう、アスカちゃんとか」
「アス・・・・・・カ?」
シンジの唇から小さく声が漏れる。
「そ。わたしね、シンちゃんが、アスカちゃんに心のどこかで頼ってる、アスカちゃんを心のどこか
で大事に思ってるんじゃないか、って気がするんだけどな」
「そんなことないよ」
そうユイの言葉を否定しかけて、シンジはその言葉を喉の奥に飲み込む。昔、といってもそれほど昔
と言うわけでもないのだが、トウジにも同じような事をいわれた事を思い出したからだ。確かトウジは、
「碇センセも惣流も相手に頼りすぎやな」と言っていた。そして、「頼りすぎていると、居なくなった
ときに困る」とも。(壱拾弐話、壱拾参話参照)
今のユイの言葉は、そのときのトウジの言葉とそっくりだった。
「アスカが・・・・・・・・大事・・・・・・・・頼ってる・・・・・・・」
はっきり言って、自分にとってアスカが一番大事かと言われると、自信はない。そして、頼っている
のかと言われても、そうだとは言い切れない。
「確かに、アメリカに行くと、もう、アスカは居ないんだよな・・・・・・・・」
逡巡するシンジに、ユイはもう一言だけ付け加える。
「で、シンちゃん。その事ももう一度良く考えて、アメリカに来るかどうか考えてみたら。もう少し、
時間はあるみたいだから。」
カウンターで出国手続きを進めるゲンドウに、ユイは視線を向ける。その視線に気がついたのか、
ゲンドウは口の端に小さく笑いを浮かべた。
ゲンドウに笑みを返してから、ユイは一人ごちる。
「ふぅ・・・・・・アメリカに帰らない?って言いに来たのに、わたし、なにやってるのかしらね」
ユイの視線の先に居るシンジは、ユイの言葉を、そしてずっと前に聞いたトウジの言葉を噛み締める。
「頼ってる・・・・・・のかなぁ・・・・・・・良く分からないや・・・・・・・・・でも、アスカが居ないって・・・・・・・・・
どんななんだろう・・・・・・・・・」
今までの生活を振り返る。駅で始めて出会ったときから始まり、今までの数ヶ月の間の事。短いが
結構、色々な事があったような気がする。
初めは結構、「イヤだな」と思う事が多かった。わがままだし。「アンタ、バカァ?」と馬鹿呼ばわり
はされるし。家事はあんまり手伝ってくれないし。まだまだ色々、言いたい事はある。
でも。
最近はそんなに、気にならなくなってきた。普段の生活の一部分になりつつある。取りたてて特別
ではない、でも、欠かせない歯車のように。
その歯車が欠けたら。アスカが居ない生活とは。
はっきり言って、良く分からない。
以前は、そう、この春までは居なかったのだから、それまでと同じような生活に戻るだけだ。それ
だけの事のはずだ。ただ、それだけ。
でも。「それだけの事」と思えない。そういう生活がどんな物か考えると、胸の奥にズシリと何か
重い、良く分からない、もやもやとしたものが立ち上ってくる。
でも、やはりアメリカに付いて行くべきのようにも感じる。
アメリカに行くべきなのか、行かないべきなのか。
シンジは逡巡する。
その時間が長かったのか、それとも短かったのかは判らない。でも、ユイもゲンドウも何も言わなかっ
たのだから、それほど長時間ではなかったのだろう。
シンジが、さっきまでよりは、少しは自信ありげな表情で顔を上げた。
ユイは息子に向かって、
「で、決まったの?」
と言葉をかける。恐らく自分の考えと、シンジの選択が同じだろうという、複雑な感情を抱えながら。
シンジは、首を小さくゆっくりと縦に振り、言葉を選びながら話す。
「その・・・・・・頼ってると、大事とか・・・・・・・・良く分からないんだけど・・・・・・・・・今の生活、結構気に
入ってて・・・・・・・・・ミサトさんとか学校の友達とか・・・・・・・・それで・・・・・・・・・・やっぱり・・・・・・・日本に
残ろうかな・・・・・・・なんて・・・・・・」
「そうね。でも、友達なんて直ぐに向こうでもできるわよ。シンちゃん、まだ、若いんだし。それに、
葛城さんだって良くアメリカに出張してくるし、ちょくちょく会えるわよ」
ユイは意地の悪い言葉をかけた。シンジの顔を真正面から見据える。
するとシンジは、ユイの顔から、視線をずらした。そして、ちょっと唇を尖らせながら口を開いた。
「それに・・・・・・・その・・・・・・離れると寂しいかなっていうか・・・・・・・一緒に暮らしてるのも楽しいかなって・・・・・
その・・・・・・アスカのことだけど・・・・・・・」
「そっか。それなら仕方ないわね。わたしもお父さんもシンちゃんをアメリカに連れ帰る気で来たん
だけど、まぁ、仕方ないわね」
少し残念そうな、でも嬉しそうにも見える複雑な表情を浮かべるユイに、シンジはペコリと頭を下げる。
「ゴメン・・・・・別に母さん達と暮らしたくないわけじゃないんだけど・・・・・・・・」
そう言うシンジに、ユイはハタハタと手を振って見せる。
「別にいいのよ。気にしないで。お父さんもわたしも、シンちゃんが決める事だと思ってたから。じゃ、
アスカちゃんに連絡しなさいよ、どうするのか決めたなら。あぁ、それよりも、お父さんに、日本に残
るって伝える方が先ね。早くしないと、シンちゃんの、出国手続きしちゃうわよ」
それを聞いてシンジは立ち上がり、ゲンドウの方へと小走りに駆け寄っていく。
息子の背中を見つめながら、ユイは小さくペロリと舌を出す。
「あれじゃ電話は忘れるわね。それにあの人、二人分の出国手続きしかしてないでしょうけどね」
その言葉どおりゲンドウは、ユイと自分の出国手続きしかしていなかったようであった。後ろから、
「おまえの考える事などお見通しだ」という勝ち誇ったかのようなゲンドウの声が聞こえてくる。
それを背中で聞きながら、ショルダーバッグから、ユイはペンと手帳を取り出す。そして頬杖を突きながら、
小さく呟いた。
「離れると寂しい・・・・・・・・か。離れたくない、去りたくない・・・・・・・・それが愛っていうものなんだけど
・・・・・・・・シンちゃんにはちょっと早いかな」
独白してから、思い直したようにペンを握り直し、手帳にすらすらと何かを書き始める。

親子がまた遠い距離の向こうに離れる時が、もう少しでやってこようとしていた。







それから暫時後。
ユイとゲンドウを乗せた飛行機がアメリカに向けて離陸し。
さらに暫時後。







「アスカ、そろそろ行こうか・・・・・・・・・・・・」
ソファーに腰を下ろしていたアスカに、キョウコが優しく声をかけた。
ここはさっきまで、ユイ・ゲンドウ夫妻とシンジがいたロビー、彼らが腰を下ろしていたソファーで
ある。
「アメリカに行かないで」と伝えようとして空港に駆けつけたのに、チャーター便がすでに離陸して
しまっていた事を知らされたアスカは、ショックで落胆していた。
最後の最後まで、自分の気持ちを伝えられなかった事に。
「酷い言い方かもしれないけど・・・・・・・・・いつまでもここにいても・・・・・・・ね。一旦帰って、考えましょ
う。まだ、方法はあるかもしれないし」
優しくキョウコは、再び声をかける。
それにアスカが言葉を返した。
「そう・・・・・・ね」
頭の働きが麻痺してしまったかのように感じていたアスカだが、キョウコの言っている事は理解できた。
ここにいても、時間が巻き戻るわけでも、ない。
アスカがゆっくりとソファーから立ちあがろうとする。すると、キョウコの携帯電話がピリピリッと
軽い電子音を立てる。キョウコの手が携帯電話に伸びて、液晶画面を確認する。そして、アスカに向かって
苦笑を浮かべた。
「ゴメン。NERVから電話だから、ちょっと、座って待っててくれる?」
そう言ってアスカを座らせてから、キョウコは、携帯電話を耳に当てながら、窓際へと寄っていった。
「あらあら、広報部長殿。どうしたの?」
大きな声で会話をしつつ遠ざかっていくキョウコには興味を示さず、どさりと腰を落とす。体中が
鉛のように重い。
そして、今まで何遍も何十偏も繰り返した言葉をまた繰り返す。
「はぁ・・・・・・・・・どうして、言わなかったんだろう・・・・・・・・・」
繰り返してもどうしようもない。
自分の思いに素直になれなかった事に変わりはない。
それでも、自分を責めるかのように繰り返す。
「どうして・・・・・・・」






アスカが嘆いている建物の外。
燦燦とというよりは、ガンガンと直射日光が照り付ける中、シンジとキョウコが立ち話をしていた。
「はぁ・・・・・・・・びっくりしたわよ。ミサトから電話が来たから仕事かと思ったら、シンジ君が帰り方が
判らなくて困ってるから助けてやって、なんて話だったから・・・・・・」
「その・・・・・・すいません。新潟って、来たことなくて・・・・・僕、方向音痴だから、迷子になったら困る
し・・・・・・・それでミサトさんに電話したら、入り口の外で待ってろって言うから待ってたら、キョウコさん
が来てくれて・・・・・・・・・助かりました」
ペコリと頭を下げるシンジに向かって、キョウコがため息を吐く。
「シンジ君、アメリカ行かなかったのね。あたしはもうてっきり、ユイさんや所長と一緒にアメリカ
に行っちゃったのかと思ったわ」
「はぁ、その・・・・・・・そうしようかなぁと思ってたんだけど、結局、残る事にして・・・・・・」
「ふぅ・・・・・・・・・ま、いいわ。じゃぁどうしよっかなぁ・・・・・・・・・中でアスカが待ってるんだけど・・・・」
「あ、アスカも来てるんですか?」
ユイは思案顔のまま、コクリと肯いた。
その横顔を眩しげに見つめながら、ふとある事に気が付き、シンジは小首をかしげる。
「でも、良く考えたら、なんでキョウコさん達、ここに居るんですか?」
「ま、いろいろあるのよ」
軽くシンジをかわしながら、キョウコはポンと手を打った。
「じゃあ、この手で行きましょう」
唐突にしか聞こえないキョウコの言葉に、シンジは怪訝そうな表情を隠さない。
「手?」
「あ、まあ、気にしなくていいのよ」
アスカと良く似た表情で悪戯っぽく笑うキョウコに、シンジは、「アスカとキョウコは母娘なんだ」
と変な感慨を抱く。
そのシンジに向かってキョウコは説明を始めた。
「とゆうことで・・・・・・・・」
二人の上にガンガンと太陽は照りつけつづける。







そのシンジとキョウコよりも、ほんの少しだけ太陽に近い場所に居る二人が居た。
ユイとゲンドウ夫婦である。
二人はチャーター機でアメリカに向かっていた。
「あら、もうすぐ日本ともサヨナラね」
眼下に広がり始めた太平洋に気が付いて、ユイは隣りに腰掛けているゲンドウに笑みを向けた。
「ああ、暫くは、な」
ユイに倣ってゲンドウも遥か下の太平洋に目をやる。波頭が太陽の光を浴びて、微妙に色を変えて
いく。機内なので判らないが、恐らく、地上では陽光の強烈さに目を細めている人が居る事であろう。
そんな事に思いを馳せるゲンドウに、横から、ユイが声をかけた。
「あなた、ごめんなさいね。わたしがシンちゃんをアメリカに連れてこようって言ったのに、結局、
わたしの勝手で、シンちゃんに、日本に残るように誘導しちゃったみたいで・・・・・・・・ごめんなさい」
ゲンドウはユイを横目でちらりと眺めてから、フッと笑みをもらす。
「構わんさ。お前が誘導しようとしまいと、シンジが決めたことなのだからな」
「でも・・・・・・・・」
なおもすまなそうな表情でゲンドウを見つめるユイの頭に、ゲンドウが大きな手をポンと乗せた。
「それに、誘導したってのなら、お前はそれが、シンジにとって一番いいことだと思ったのだろう?
なら、それが一番いい方法なのだろう。俺は、お前を信頼している」
自分で口にしながら気恥ずかしくなったのか、少し落ち着かないゲンドウの脇腹を、ユイが肘で小突く。
「なぁに、格好いいこと言ってるのよ」
そう言われてゲンドウは苦笑しながら、髭を撫で回した。
「しかし、キョウコ君の娘、アスカちゃんか、あの娘、はっきり言ってシンジには不釣り合いだな」
もっともらしく言うゲンドウに、ユイは意地の悪そうな表情を向けた。
「あら、わたしとあなたも、不釣り合いだって言われてるのよ」
「そ、そうなのか」
珍しく狼狽するゲンドウに、ユイは笑い出す。
「そんな顔しなくてもいいのよ。冗談に決まってるでしょ」
ホッとしたゲンドウから視線を外して、ユイは再び窓の外を眺める。
既に眼下には、太平洋しか広がっていない。
「でも、楽しみじゃない?シンちゃんと、アスカちゃんが、アメリカまで遊びに来てくれるかもって
思うと」
「来るかどうかなんて、判らんぞ」
「判るの。約束したもん」
自信ありげなユイの横顔を見詰めて、ゲンドウは、また、いつもどおりの小さな笑みをもらした。
「ま、いいか」
「そういうこと。さて、そろそろ、お仕事モードに戻りましょうか」
そう言いながらユイは、足元のアタッシュケースから薄い論文誌を取り出す。
「この星宮先生の論文なんだけど」
「ああ、連想記憶のあれだな・・・・・・・・」
ゲンドウも同じ小冊子を取り出して目を通し始める。
父親、そして母親という二人から、研究者としての顔に戻った二人を乗せて、飛行機は遥か彼方
のアメリカを目指す。
遠く離れても同じ空の下に広がっている大地へ。







ユイとゲンドウを乗せた飛行機が浴びているのと同じ陽光を浴びて。
空港の建物はあった。さっきまでと変わらず。
そして、建物の中には、アスカの姿もあった。さっきまでと変わらず。
嘆息し続けているのもさっきまでと変わらない。
そのアスカの背中から、キョウコが声をかける。
「アスカ、何いつまでもくよくよしてるのよ」
アスカは後ろを振り返りもせず、しょんぼりとした感じのまま答えを返す。
「はぁ・・・・・・・だって、シンジに何も言えなかったし・・・・・・・・」
「何、言いたかったの?シンジ君に」
「アタシ、シンジに何も言えなかった・・・・・・・・・ホントは、アメリカに行かないで欲しかったのに・・・・」
一息ついてから、さらに言葉を続ける。
「もっと一緒に・・・・・・・・日本で一緒に暮らしたかったのに・・・・・・・・・」
言葉を紡ぎ出すほどに、アスカは自分の情けなさが身にしみる。
そんなアスカの気持ちを知らずか、それとも知ってか、キョウコはさらにアスカの背中に問い掛ける。
「どうしてアスカ、シンジ君と一緒がいいわけぇ?」
キョウコの言葉の終わりに、ほんの僅かだが、面白がっているかのようなニュアンスが含まれる。
それにアスカは気が付いた。何が面白いの、と。何か変だな、と。
そして。
後ろを振り返る。
キョウコが居る。楽しそうな顔で。
その横に。
誰かいる。
黒髪で黒い瞳でほっそりしていてやさしげな表情で。
「シン・・・・・・ジ?」
アスカの腰が思わず浮きあがる。
キョウコの横で、バツの悪そうな表情を浮かべて立っているのは、シンジであった。
「その・・・・・・・」
本当にバツが悪そうに、頭を掻きつつ立ち尽くしているシンジの背中を、キョウコがポンと押した。
勢いで前のめりになりながら、シンジは一歩前に出る。
それを見届けてから、キョウコはスタスタと少し離れた所にある自動販売機へと向かっていった。
「若いわね・・・・・・あたしもタイムマシンの研究でもしようかしら」
そんなキョウコに目をやる事無く、アスカとシンジは立ち尽くしていた。
先に口を開いたのは、シンジだった。
「えっと・・・・・・・・初めはアメリカ、行こうと思ってたんだけど・・・・・・結局、日本に残る事にしたんだ」
それを聞いてアスカは、笑いながら、瞳から透明な涙をこぼす。
「良かった・・・・・・アタシ・・・・・・もう、行っちゃったのかなって・・・・・・・・」
泣き笑い状態のアスカに、シンジは驚いてしまい、しどろもどろになる。
「その・・・・・・・・・・」
どうしたものか困っているシンジをアスカは、右手で制して、左手で涙をごしごしと拭った。
「アタシね、シンジに言いたかった事があるんだ」
涙の後が残る笑顔で、アスカがシンジを見詰めた。
そして、ゆっくりと話し始めた。
後で悔やまないために。
素直になる。
「アタシね、昨日、シンジに『自分で決めなさいよ』って行ったけど、ホントは・・・・・・・・・ホントは、
アタシ、シンジに日本に残って欲しかったんだ」
ちょうどその時、窓の向こうで飛行機が離陸していき、二人の周りを爆音が包む。
それが静かになってから、アスカは再び口を開く。
「それは・・・・・・・・その、アタシがシンジのこと・・・・・・・・」
「好きだから」と言おうとするが、その言葉は、シンジの声によって遮られた。
「あ、そうだ、アスカに母さんから手紙を預かってきたんだった・・・・・・・・」
シンジはそう言うと、後ポケットから4つに折りたたまれた手帳の紙を取り出し、アスカに手渡した。
なんとなくタイミングを外された感のあるアスカは、シンジの手からその紙切れを受け取って、
開き、読み始める。
そこにはユイの流麗な手書きの文字が踊っていた。


アスカちゃんへ。

シンちゃんをアメリカに連れて行こうと思って来たけど、
残念ながら諦める事にします。シンちゃんが、アスカちゃん
と離れるのは寂しいって言うから(ホントです)。
そういう事で、シンちゃんをよろしく。
シンちゃんの彼女になってくれるようなことがあったら、必ず、
アメリカまで会いにきてくださいね。

心よりの愛情と共に。

ユイ



読み終わってからアスカは、窓の外に見える離陸の準備をしている飛行機に心を奪われているような
シンジの横顔を見詰める。
「離れるのが寂しい」と言ってくれた、そうユイは書いていた。
嬉しかった。
アスカはユイからの手紙を、大事そうに小さく折りたたみ、ポケットにしまった。
なにか、今なら素直になれる、そんな気がした。
そんな気持ちを胸に、シンジに声をかける。
「シンジ」
シンジがゆっくりと振り向いた。
素直になれたつもりでも、やはり気恥ずかしく、心臓は速いリズムを刻み、口調は早口になってしまう。
「アタシ、シンジのこと、好きよ。だから、シンジには日本に残ってもらいたかったの」
シンジが完全にアスカの方に向き直る。
だが。
アスカの言葉の初めの方は良く聞いていなかったらしく、きょとんとした表情を浮かべている。
そんな様子のシンジに、アスカはため息を吐いた。
結構、覚悟を決めて言ったのに、大事なところだけは聞いていない。
「なんか、シンジらしいわね・・・・・・」
思わず、自然に、桜色の唇から苦笑が零れ出る。
それに気が付いたシンジが、顔いっぱいに?マークを浮かべながらアスカに声をかける。
「なに?」
もう一度、さっきと同じ事を、「好き」と言うのは気恥ずかしく、アスカは冗談めかした調子になる
「つまり。アタシ、シンジのこと気に入ってるし、これからもよろしくってことよ」
そう言って、シンジの方に右手を差し出す。
それを受けて、シンジも右手を差し出して、アスカの手を握った。
「じゃ、よろしく。僕も結構、アスカとの生活してると楽しいし・・・まあ、もうちょっと、家事を
手伝ってくれればもっと嬉しいけど・・・・・・・・」
つい余計な事を言ってしまうシンジである。もちろんアスカが聞き逃すはずも無い。
「ははぁん・・・・・・・・いつも、『それで十分だよ』とかいいながら、そんなこと考えてたわけね」
すっかり笑顔に戻ったアスカの追及にシンジはしどろもどろになる。
「いや、その、それは・・・・・・・」
しかしここでシンジに思わぬ助け船が入る。
「はいはい。その位にしておきなさい、アスカ」
キョウコだった。コーヒーを飲みながら、アスカとシンジの様子を見ていたが、しばらく見ていて
それに飽きてしまったらしい。
「あ、キョウコママ」
「そろそろ、あの別荘に戻らない?まだ何日かあそこ、使えるから」
「あ、そうなんですか?」
シンジの言葉に、キョウコは肯く。
「ホントは、ユイさんたち、まだ帰らないはずだったからね」
そう言いながらキョウコは、ポケットからサングラスを取り出してかける。
そのキョウコにアスカが話し掛けた。
「ね、レイ達も呼んでもいい?」
「レイちゃん・・・・・・ああ、綾波さんの娘さん、ね。まあ、いいんじゃない?人は多い方が楽しいし。
じゃあ、シンジ君、電話してらっしゃいよ」
言われてシンジは、「何で僕が?」という表情を浮かべつつも、携帯電話を手に外へと向かった。
その様子を見ながらキョウコとアスカも出口へと向かっていく。
歩きながらキョウコは、アスカの頭を自分の頭に引き寄せて、囁いた。
「アスカちゃん、シンジ君に言ったの?好き好きっ、て」
「言ったわよ、でも・・・・・・」
ほっぺたをプッと膨らませるアスカに、キョウコは問い掛ける。
「でもって?」
「シンジ、聞いてないんだもん」
それを聞いてキョウコは、満足そうな表情を浮かべて、アスカの頭を、少し手荒く撫でた。
「えらいえらい。聞いてなかったのは、仕方ないでしょ。素直に言えたって事が大事なのよ」
「そう・・・・・・・よね」
「まぁ、そのうち、またチャンスはあるって」
「そうよね」
二人はそんな会話を交わしながら、建物の外に出る。
建物の外は、さっきと全然変わらない、陽射しで満たされていた。
その太陽を眺めながら、アスカは、思いっきり伸びをした。
「だって、夏、まだまだあるもんねっ!」


終劇


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