第壱拾四話  


『Suppe(1)』

邦題 :スープ(1)

 

   昔の誰かが「春眠暁を覚えず」とか何とか言っているが、朝起きるのが辛いのは、何も春に限ったこと
ではない。いつだって誰だって、暖かい布団のなかでいい夢を見たいと思って当然である。
だが、それでも「暁を覚える」季節、朝起きるのが清々しい季節を無理矢理あげるならば、今、初夏と
いうことになる。
それは、かなり季節感と気候の狂い始めている、2015年の第三新東京市においても同じ事であった。
その事は、いつもなら第三新東京市民の誰よりも遅くまで寝てるのでは無いかと噂されている、葛城ミサト
が、まだ7時15分だというのに、着替えまで済ませていたことからも明々白々である。
「ミ、ミサトさん・・・・昨日、なにか悪いものでも食べたんですか?」
台所で、いつものように朝食の準備をしていたシンジが、ネルフの制服をピシッっと着込んだミサトを見て、
気持ち悪そうな顔をする。
「失礼ね、シンジ君。」
格好はいつもと違っても、する事はいつもと同じようである。ミサトは、いつものように朝からビールを飲んで
いた。しかも一気に一缶をぐぐっと空けてしまう。
「いくら寝坊しかしたことの無いあたしでも、今の季節くらいは、早起きしたくなるのよ。」
にこやかにそう言うミサトに背を向けながら、シンジは「嘘ばっかり」と小さく呟いた。昨日も一昨日も、シンジと
アスカが学校に行くまで起きてこなかったのだ。どう考えても、季節がいいだけで、早く起きたとは思えない。
そのシンジの呟きが聞こえたからというわけではないが、
「なぁんてね。今日は、ネルフの秘蔵っ子、MAGIコンピュータの、第一回の起動試験があるのよん。」
ミサトはそう言って、これまたいつものようにビール缶を握り潰して、ごみ箱へと投げ込んだ。空缶は綺麗な弧を
描いて、ごみ箱に吸い込まれていく。
シンジは目玉焼きを焼きながら、「どうせまだまだ飲むんだろうな」と思い、家計の中でビール代の占める割合を
思い描いて、嘆息する。シンジとミサト、そしてアスカの三人が暮らしている葛城家のエンゲル係数は、異様に高い
のだ。しかもそのうちの大部分が、ミサトの飲むビール代・・・・シンジががっくりするのも無理はない。
だが今日のミサトは、葛城家のエンゲル係数上昇には、あまり寄与しなかった。「まだまだ飲むだろう」というシ
ンジの予想に反して缶ビールを一本飲んだだけで、ミサトは立ち上がったからだ。
「じゃシンジ君、アタシは出かけるから。試験が忙しいから、3日は帰らないからよろしくぅ!」
「は?」
シンジはフライパンを握ったまま、その場に立ち尽くした。ミサトの言葉の意味を理解することを、思考系統が拒ん
でいる。何かがおかしい。でも、何がおかしいのかが理解できない。
「なんか・・・・ミサトさんの言葉って、なぁんか無理が無かったかな?」
何がおかしいのか理解できないまま、数秒の時が無為に流れた。
その間も目玉焼きはフライパンの上で、じゅうじゅうと派手な音を立て続けている。
「あ・・・・あああああああぁ!?なんで、3日も帰らないんですかぁ!」
シンジがやっと、おかしいところに気がついたときには、フライパンからは煙が立ち昇り、部屋中が焦げ臭くなり、
家の中にはミサトは居なくなっていた。
「3日は帰らないって・・・・・・何だよそれ・・・・」
ぼやきながら、シンジは真っ黒こげになってしまった目玉焼きを、ごみ箱に放り込む。
「都合の悪いことは、出かける寸前にならないと言わないんだから・・・・・・」
ぶつぶつと文句を言いながらも、シンジはサラダを作り始めた。
レタスをちぎり、トマトを切り分ける腕前は、そこらの主婦と比べても何ら劣るところはない。それもこれも、葛城家
に住んでいる女性陣、アスカとミサトが、全くと言っていいほどに家事をしないからこそ身についた腕だと言えよう。
いつだったか、アスカとミサトは、「シンジが行っている家事を、分担して手伝う」と言ったが、殆ど実行されてはい
ない。アスカはそれでも、自分の部屋の掃除をしたり、ゴミを出してくれたり、ごくたまには朝食の準備をしてくれたりす
るからまだいい。しかしミサトに至っては、部屋を何年掃除していないのかと聞くのが怖いほどの、ずぼらさを発揮している。
結局この家は、シンジが家事を切り盛りしなければ上手くいかないように出来ているらしい。
「サラダは出来たし・・・・・あとは、ドレッシングか・・・・・・」
シンジは醤油やら何やらを冷蔵庫から取り出してきて、ボールでそれを混ぜ合わせ始めた。
まだアスカが日本に来て間も無い頃、シンジが作った母親直伝のドレッシングでサラダを食べた事があった。アスカは、
その味がいたく気に入った様で、それ以来、アスカはドレッシングはシンジの作ったドレッシングしか使わない。
「うぅぅん・・・これでいいな・・・・・」
ボールの中で混ぜ合わされたドレッシングを指につけて舐めてみて、シンジは満足そうな表情を浮かべる。どうやら、今
日のドレッシングの出来は、思った通りかそれ以上であったようだ。
サラダやドレッシング、パンなど、準備の出来た朝食をテーブルに並べて、シンジもテーブルにつく。
「さてと、準備完了・・・・・って、アスカ、まだ起きてこないのかなぁ・・・・・」
シンジはアスカの部屋の方を見て、ついで時計を見る。時計の針は、7時30分を指している。いつもなら、寝起きの
悪いミサトを放っておいて、二人で勝手に朝食を食べ始めている時間だ。
「おっかしいなぁ・・・・・・」
そう言いながらも、シンジはアスカを起こしに行こうとはしなかった。アスカが、時間になっても起きてこないだなんて
事は、シンジの記憶にはない。だが、アスカだって完璧な人間じゃないんだし、寝坊くらいすることはある、シンジはそう
思っていた。ダイニングテーブルについたまま、TVでのんびりと朝のニュースなどを見はじめる。
今日もニュースは、いつもと同じ、平和な日本の日常を伝えていた。
しかし、テレビキャスターが8時になったことを告げて、シンジもやっと動き始めた。
「いっくらなんでも、そろそろ起こさなきゃ・・・・」
8時を過ぎても寝ているということは、急いで準備をしないなら、朝食抜きで学校に行くか、学校に遅刻していくかのど
ちらかを否応なく選択しなければならなくなる事を意味していた。シンジがこの時間まで寝坊していたことは何度もあるが、
アスカがこの時間まで寝坊していた事など、シンジの記憶が確かなら、無い。
「アスカ?そろそろ起きないと、遅刻しちゃうよ?」
アスカの部屋のふすまを軽くノックしてみるが、返事はない。
「アスカ?」
今度は少し手荒くノックしてみる。
やはり反応はない。静かな室内には、TVキャスターが伝える天気予報の声だけが響いている。
「アスカ!起きてよ!」
アスカが起きてくる気配が感じられなかったので、シンジは大声で怒鳴りながら、部屋に入ろうとふすまに手をかける。
勝手に部屋に入るとアスカは怒るだろうが、少し怒られるだけで遅刻を回避できるのなら、そのくらいの犠牲は痛くない。
が、シンジがふすまに手をかける前に、ふすまは部屋の内側から勝手に開かれた。
そこには、紅い顔をして、なぜか枕を抱えたままのアスカが立っていた。
「シンジ・・・・こんな夜中に何か用?」
「こんな夜中にって・・・・・もう8時だよ。そろそろ起きないと、遅刻するよ。」
寝ぼけているとしか思えないアスカに、シンジは驚く。ここまで大幅に朝寝坊するアスカを見るのは、やはり初めてのよう
な気がする。そして、ここまで寝ぼけているアスカを見るのは、間違いなく初めてであろう。
アスカは何も言わずにシンジの脇を通り過ぎて、ダイニングに入っていった。
そして枕を抱えたまま、上気した顔で、TVを眺める。
数秒間TVを見つめた後、アスカは突然叫んだ。
「えぇぇぇぇぇ!なんで9時なのよぉ!もう学校始まってるわよぉぉぉ!シンジ!なんで起こしてくれなかったのよ!」
アスカはやっと、すでに朝であることには気がついたようだが、時計の時刻を読み間違えている。
「まだ8時だよ、アスカ。急いで準備すれば、ご飯を食べても十分間に合うよ。」
シンジに詰め寄っては見たものの、時計の時刻を間違えていたことを指摘されて、アスカの紅かった顔が更に赤くなる。
「そ、それもそうね。急いで支度するから、シンジ、先にご飯食べててね!」
アスカは慌てて枕を拾い、自分の部屋に舞い戻った。
これで何とか二人とも学校に行けそうなので、シンジはほっとする。
シンジはアスカの言葉に従って、自分だけ先に朝食を食べ始める事にした。フランスパンにバターを塗って、その上に
マーマレードを塗る。シンジはこれが大好きだった。パンを口に放り込みながら、時計を見ると、まだ針は8時10分前後
を指している。これなら、朝のホームルームには十分に間に合うはずである。
そんなことを考えながらパンを一枚食べ終えたところで、早くも、制服を着て髪を整えたアスカが、嵐のように部屋から
飛び出してきた。
「遅刻、しない、わよね。」
急いで着替えたせいだろうか。アスカの顔が赤い。
「まだ大丈夫だと思うよ。」
パンにバターを塗りながら、シンジは答えた。
「?・・・食べないの?」
何時までたっても、朝食に手をつけようとしないアスカにシンジは尋ねる。
「なんか、食欲ないのよね。」
そう言いながらアスカは、自分の頬に手の平をそっと押し当てる。
熱い。
アスカは熱い頬を、手の平で冷ますようにさすってみるが、当然、熱い頬は変わろうはずも無い。
「じゃ、サラダだけでも食べたら?ドレッシングもいつものだし。」
だがアスカは、残念そうに手を振った。
「ちょっとだるいのよ。もしかしたら、風邪ひいたかなぁ・・・・・・」
「そう言えば・・・・いつもよりも顔が赤いような気がするね・・・・」
シンジは心配そうに、顔を曇らせる。
「ちょっとごめんね。」
シンジは椅子から立ちあがり、向こう側に座っているアスカのほうへ身を乗り出した。
「えっ?」
次の瞬間には、シンジの手はアスカのおでこに触れていた。
額に触れたシンジの手は、冷たくて気持ちがいい。だが、そう思ったのもつかの間のことで、アスカはすぐに恥ずかしく
なって、ただでさえ赤い顔を更に紅くした。頭に体中の血が上ったのではないかと思うような感覚に包まれて、頬の熱さだ
けしか感じられなくなる。
ぼーっとした感覚の向こうで、シンジがなにか言っているのが聞こえてきた。
「アスカ、よくこんなに熱があって起きてこれたね。これじゃ、今日は学校、休まないと駄目だよ。」
シンジの言葉どおり、アスカは熱があるようだった。測ったわけではないので何とも言えないが、38℃は絶対にあるだ
ろうと、シンジは感じていた。
だが、日本に来て以来、一度も学校を休んだことのないアスカが、おとなしく学校を休むわけが無い。
「なぁに言ってんのよ。だいじょーぶよ、このくらい。今すぐにでも学校」
そう言いながら、アスカは椅子から立ちあがる。
「アスカ!僕はアスカのことを心配して言ってるんだよ!」
アスカの言葉は、シンジの凛とした声に遮られた。
顔を上げると、そこには本当に心配そうな顔をしたシンジがいる。
本当にアスカの体調を心配しているのであろう表情。
その表情に気圧されたように、アスカは首をコクリと縦に振り、トサッという軽い音を立てて椅子に座り込む。。 「わ、判ったわよ。学校、休むわよ。」
アスカのその言葉を聞いて、シンジの顔がホッとしたかの様に緩む。
「それなら・・・・アスカのお昼でも準備するかな・・・・」
シンジはそう言って、自分の朝食もそこそこに、キッチンに向かっていった。
アスカはそのシンジの背中を見送りながら、ほっぺたを小さく膨らませて、形の良い唇を少しとがらせる。
「あんな顔で言われたら、断れないわよ。」
やはりアスカは、シンジの言葉に納得したと言うよりは、あまりに心配そうなシンジの顔に押されてしまったらしい。
シンジにあまり心配をかけたく無いという想いのあらわれであろう。
「それにしても、あんな事してて、学校に間に合うのかしら。」
熱のせいで赤くほてっている顔を、キッチンでせっせとおかゆ等を作っているシンジの方へむけながら、アスカはぽつりと
呟いた。
目を時計にむけると、 時計は8時30分を刻もうとしている。
「シンジ!そんなことしてると遅刻するわよ!」
「なに言ってるんだよ。遅刻より、アスカのお昼のほうが大切だよ。アスカは病人なんだから。」
シンジはキッチンに向かったまま、振り返りもせずにそう答える。
別に死にそうな重病人というわけでもないし、お昼くらい作れそうな気がする。だから、アスカはシンジに遅刻しない様に
学校に行って欲しかったのだが、シンジは全くそんな気はないらしい。
「アタシは大丈夫だから、さっさと学校行きなさいよ!」
アスカはそう怒鳴ろうと口を開きかけたが、思い直して口を閉じる。
「シンジがアタシの為に、ご飯をわざわざつくってくれるのか・・・・・」
アスカはそのことに、小さな幸福感を感じていた。
シンジは、風邪を引いたのがアスカであったから、遅刻してまでお昼を作っていってくれるわけではないであろうことは、
アスカにも判っている。それは、シンジの生まれ持った性格が成させる行動なのだろう。
「でも、いつか・・・・・アタシだけのために・・・・・・」
アスカの想いを込めた呟きは、なぜかシンジのところまで聞こえたようだった。
「なに?」
手を止めて、シンジは振り向く。
別に呟いたことを聞かれたからといって、たいした問題はないのだが、アスカは自分のシンジへの想いまで覗かれたような
気がしてしまった。
「な、何でもないわよ!速く作って、少しでも早く学校に行きなさいよ!」
「はいはい。」
シンジはそう言って、再び料理に向かう。
「風邪を引くのも・・・・たまにはいいかもね。」
今度こそシンジには絶対に聞こえない様に、アスカは小さな声で呟いた。


そんなアスカの想いなど知らぬげに、シンジはせっせと昼食を作り続けている。


時計の針は、容赦なく回り続けていた。


続劇

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