七月の初旬ともなれば、風の中に夏の香りを感じることができる。
「春眠暁を覚えず」という季節でもなく、朝、さわやかに目覚めることのできる少ない季
節だ。だからこの時期は朝早く起きる人が多いものだが、ここコンフォートマンション内の
葛城家では、9時になっても、起きているのはただ一人だけだった。
「これで、準備はOKね。」
お気に入りのひまわり色のワンピースの肩紐を結んで、アスカはすっくと立ち上がった。
反動でフワリと風が巻き起こり、いい香りが周囲にゆっくりと広がっていく。
「お金も・・・・・あるわね。」
財布を開いて、中に入っているお金を確認する。この間、ミサトから、ボーナスのお小遣い
をもらったので、かなり財布は重い。
「さてと・・・・・」
アスカは肩にポシェットをかけて、自分の部屋のふすまを勢いよく開けた。バチーンという音を
立てて、襖が開ききる。
「今日は、買い物に行くわよっ!!」
「で、何で僕なわけ?」
さんさんと降り注ぐ初夏の陽光には似合わない、眠そうな顔をしたシンジが、第三新東京市
口駅前を歩いている。顔も眠そうだが、足取りもなんとなく疲れを感じさせる。
「シンジ、アタシと買い物に来るのが、そぉんなに不満なわけ?」
シンジの数歩先を歩いていたアスカが、シンジの言葉に口をとがらせる。
あの後、アスカはシンジを叩き起こして、自分の買い物に同行させたのであった。
「そう言う訳じゃないんだけどさ。」
アスカがほっぺをプッと膨らませているのを見て、あわててシンジが言い訳をする。
アスカを怒らせるとろくな事がないのは、シンジも今では、十分すぎるほど判っていた。
「でも、夏の服を買いにきたんでしょ?」
アスカはその言葉に、口をとがらせたまま、首をコクコクと縦に振る。
「だったら、ミサトさんに来てもらうとか洞木さんと来る方が、いいんじゃないの?」
シンジの意見は至極当然のものである。センスの怪しいシンジと買い物に来るよりも、ミサ
トやヒカリと来る方が、明らかに買い物の役に立つことは明白であった。
「そ、それは・・・・ミサト寝てたし・・・・・そうっ!シンジが暇そうだったからよ!」
なにやらとってつけたような理由を、アスカは口にした。
アスカは初めからシンジと一緒に買い物に行くつもりだった。どうせなら、服を、シンジに
選んで欲しかったからだ。だが、アスカはシンジにそうは言えなかった。
なんとなく恥ずかしくて、その言葉を口に出来ない。
「ミサトさんが寝てた・・・・・・僕が暇そう・・・・・って、僕は寝てたのを叩き起こされたような気
がするんだけど・・・・・」
不審そうな顔つきで、じっとシンジに見つめられて、アスカはプイッとそっぽを向いた。
「そんなに嫌なら、帰ってもいいわよ!アタシ一人でもいいから。」
どこまでも素直になれないアスカであった。素直に、シンジに見て欲しかったから、そう言えば
いいだけなのに、その一言が口に出来ない。
「そっか。じゃ、僕帰るね。」
そっぽを向いたアスカを見て、シンジはそう言って歩き始める。
「そんなぁぁぁ・・・・・」
まさか、「帰ってもいいわよ」と言ったら、本当にシンジが帰るとは思ってもいなかったア
スカは、驚きの声を漏らす。
その、今にも泣きそうな声を聞いて、シンジはアスカの方を振り返った。
「なんてのは、ウソ。」
そう言って、アスカににっこりと笑いかける。
この調子から察するに、シンジははじめから帰るつもりなどなかったようだ。ただ、ふざけてみた
だけなのだろう。
「僕も、買い物に来ようと思ってたし。つきあうよ。」
その声を聞いて、アスカの顔がパアッと明るくなる。
「その・・・・ありがと。」
シンジに対して素直になれないアスカにしては珍しく、消え入りそうな声ではあったが、お
礼を言った。
いつも、強気で「あんた、ばかぁ?」を連発している姿を見慣れているシンジには、そんな
素直なアスカの姿が奇妙なもの映ったのだろう。
「アスカがお礼を言ってる・・・・・・・・朝、何か悪いものでも食べた?」
シンジは心配そうな顔をみせる。
「シンジ?!アタシがお礼を言うのが、そんなに珍しいことだってぇの?」
「ご、ごめん。」
アスカが怒った表情をして、シンジに詰め寄り、シンジは走って逃げ出す。もっとも、アス
カは本気で怒っているわけではないし、シンジもそれを判って遊んで逃げているだけだ。二人
の微妙に笑いを含んだ目元が、そのことを物語っていた。
「まちなさいよっ!シンジっ!」
「やだよっ!」
恋人同士がじゃれあうかのように、二人は歩道を走り回っているうちに、シンジは誰かの肩
にぶつかってしまった。以前、酔っぱらいにぶつかって、喧嘩になったことがある。確か、アスカが
初めて第三新東京市に来た時の事であった。その時の事を思い出し、シンジは、慌ててペコリと
頭を下げる。
「あぁぁ・・・・・・・その、ぶつかって、ごめんなさい。」
そう言って頭を上げると、そこには、空色の髪と紅い瞳をした少女がいた。
「あ、綾波?!」
「レイ?」
シンジとアスカが同時に声を上げる。もっとも、シンジの声は単純に驚きの声であり、アス
カの声は「しまった」という色を含んだ声であるという違いはあったが。
「碇君・・・・・と、アスカ?!」
レイの方も驚いたようで、紅い瞳をシンジとアスカの方に交互に走らせる。
その視線を受けて、アスカはあわてたように、口を開いた。
「そのっ・・・・これは」
「ふーん・・・・あたしの買い物の誘いを断ったのは、こういう理由だったのねぇ・・・」
目を細めてにやにや笑いを浮かべながら、レイはアスカの言葉を途中で遮る。
レイの言葉を信じるならば、アスカは、レイの誘いを断ってまで、シンジと買い物に行きた
かったようである。
まだいいわけをしようとしているアスカの腕を、レイはつかんで、シンジから少し離れた所
に連れていく。
そして悪戯っぽい笑みを浮かべながら、アスカの耳に唇を寄せる。
「アタシの誘いを断って、碇君とデートなんて、アスカもなかなかやるわね。」
「ち、ちがうわよ!ただ、買い物につきあってもらっただけよ!」
アスカは、頬を紅くしながらレイの言葉を否定する。
「それって、デートって言わない?」
確かにその通りなので、アスカは下を向いて、黙り込む。その少女らしい反応は、日頃のじゃ
じゃ馬ぶりからは全く想像できないようなものである。
「で、碇君は知ってるわけ?」
レイは、不審そうに二人を眺めているシンジを肩越しに見てから、そうアスカに聞いた。
「なにを?」
「アスカが碇君を好きだって事にきまってるじゃない。」
その言葉を聞いて、アスカの顔はいよいよ紅さを増していく。
「そんな・・・・それは・・・その・・・・・」
勝ち気な少女が、シンジの事となるとふにゃふにゃになってしまう。レイは、恋の恐ろし
さを、まざまざと感じた。
「アスカらしくないわね。だいじょーぶよ。碇君だって、絶対にアスカのこと、好きに決
まってるわよ!」
「そんな・・・・・」
ふにゃふにゃアスカは、レイの言葉にも、全く反応を示さない。強気なアスカが、なぜか
シンジのこととなると弱気になってしまう。きっと、今の関係が壊れてしまう可能性を考え
ると、怖くてしょうがないのだろう。
レイにもアスカのその気持ちは分かる。だから、
「ま、それはアスカの決める事よね。」
レイはそう言って、アスカの頭を軽く2,3回たたいてから、アスカを解放した。
内緒話を終えたのを見て、シンジが二人に近寄ってきた。
「ね、なんの話してたの?」
「碇君には、ぜぇんぜん関係ない話よ。」
レイはにっこりと笑いかけながら、シンジにそう言う。あまりに「全然」が強調されてい
るために、普通の人なら「関係ある話なのかな?」と疑う所だが、シンジにそれを望むのは酷
というものであろう。
「この二人じゃ、いつまでたっても進展するとは思えないわよね。」
レイはアスカとシンジを見て、そんな感想を抱く。なにはともあれ、これ以上からかいでも
しようものなら、アスカにどんな報復をされるか判ったものではない。レイは、ここら辺で退
散することにした。
「じゃ、お買い物がんばってねぇ!」
レイはお気楽にそう言うと、人込みの中に溶けていった。
「この人込みの中であうなんて、凄い偶然だよねぇ。」
シンジは感心したような表情を浮かべながら、レイの消えた方向を眺める。
「そ、そうよね。」
アスカのシンジに対する返事の声は、ちょっと上ずっていた。
その声を聞いて、シンジはアスカの方に体を向ける。
「・・・・どうしたの?顔、紅いよ?」
「べ、別に・・・・・」
そう言って、アスカは明後日の方向を見る。
さっきのレイの言葉が気になって、アスカはシンジの顔をまともに見ることができなかった。
「だいじょうぶ?」
先ほどまでとは打って変わって元気のないアスカの様子が、本当に心配になってきたのか、
シンジはアスカの正面に回り込んで、顔を覗き込む。
「だいじょうぶ・・・・・・とにかくっ!買い物に行くわよ!」
アスカは、シンジのこととなると弱気になってしまう自分が、恨めしかった。いつものように、
この事にも積極的になれればいいのにと思う。だが、これだけはどうしようもない事なのかもし
れない。「いつか、シンジに「好き」と言える時が来る、今はそのときじゃないのよ」と、アス
カはそう自分に言い訳をして、シンジの視線から逃れるように、大きく息を吸ってから、勢いを
つけて歩き始める。
「ちょっと待ってよアスカ!」
シンジは突然歩きはじめたアスカの後を追って走り出す。
「何はともあれ、買い物よっ!」
こうして、アスカとシンジは買い物に繰り出した。
爽やかな初夏の風と深緑が、二人の背中を見守っていた。
続劇