第四話  


『Bild (3)』

邦題 : 絵(3)
 

  第三新東京市は、「眠らない街」という異名を持っている。
国連直属研究所のNERVをはじめとする数多くの研究所が集うこの街では、他を出し抜くために
昼夜の別なく、さまざまな研究が続けられているからだ。
しかし、「眠らない街」であっても夜が来ない訳ではない。夜は全ての人の上に公平にやってくる。

ブルーの髪の女の子が大きく息を吸った。そして大きな声でインターフォンへ向かって話し掛けた。
「アスカぁぁぁぁぁぁぁぁ」
もう薄暗くなった、コンフォートマンションの廊下に、場違いなほどに明るい声が響いていく。
彼女は綾波レイ。第三新東京市の中学校に通う14歳の女の子だ。
「ねえ、レイ。もう夜なんだから、少しは静かな声で話しなさいよ。常識無いのね。」
隣にいる制服を着た少女、洞木ヒカリがあたりを見回しながらレイをつつく。
ヒカリは超鈍感な所はあるが、学級委員長を務めているだけの事はある。少なくともレイよりは、社会
常識には通じていた。
「そう?私、良く判らないのぉ」
どうやらレイは、都合の悪い事は判らないようにできているようである。
「判らないなら教えてあげるわ。夜には・・・・・・・」
委員長ヒカリお得意の説教は、「どうぞ」というアスカの声と、「バシュッ」というエアロックの解除
される音によって遮られた。
開いたドアの向こうにアスカの姿は見えないが、別にこれは驚く事でもない。葛城家にはリビングから
リモートコントロールでエアロックを解除するシステムが取り入れられていただけの事だ。
「おじゃまします。」
ヒカリは誰もいない玄関に向かって、礼儀正しく頭を下げて挨拶をする。これはヒカリにとって当然の
行為である。誰もいないからといって、挨拶をしないようであってはならないと思っている。。
しかしレイにとってその事は、当然でもなんでも無かったようだ。ヒカリが頭を上げると、そこにはレイの
姿はもうなく、脱ぎ散らかされたサンダルだけがあった。
もう何を言っても無駄だと思ったのか、ヒカリは無言でレイの靴もきれいにならべて、自分も奥へと
向かっていった。
「アスカァ、お菓子とか持って来たよ・・・・・・・・・」
そこまで言ったところで、ヒカリの言葉は途切れた。
何となく変な雰囲気を察知したのか、アスカとレイがヒカリの方を向く。
ヒカリは、両手に持っていた荷物が落ちるのも気にせずに、いやいやをするようにしながら、
「不潔よっ、フケツッ!」
と叫び始めた。
「・・・・・・何が?」
テーブルの脇で、コップに入れた牛乳を手にして立ちながら、不思議そうにアスカは言った。
同じテーブルに座ってポテトチップスをつまんでいるレイも、訳が分からないような顔をしてヒカリの
顔を眺めている。
「あなた達、その格好、なんとも思わないの?」
未だ、顔を押さえたままヒカリが興奮した声で続ける。
「格好って・・・・・・」
レイとアスカは、お互いの服装を見てみる。
レイは、丈の長い水色のワンピースの上に、白いカーディガンを羽織っている。まあ、レイの性格
と服装の趣味が合致していないと言う説もあるが、「フケツ」という語には縁のない服装だ。
アスカはといえば、ショートパンツの上にタンクトップを着た、いたってラフな格好である。タンク
トップの脇からちょっとブラジャーが見えていたりするが、ここは自分の家である。これで町中を歩く
訳でもないから、べつに「フケツ」と言われるほどでもないとアスカ達は判断した。もっとも、今では
町中でもブラジャーが見えたくらいで、不潔呼ばわりする人も殆どいないであろうが。
「アタシ達の格好って・・・どこか変?」
自分の服を軽くつまんで眺めながら、レイは聞いた。
「アスカは碇君と同じ屋根の下で暮らしてるのよ!そんな挑発的な格好しちゃって、フケツよ!」
「ちょ、挑発的?・・・・・ふけつ?・・・・・・」
いまどき、ここまで潔癖症の人間も珍しい。天然記念物に指定してもいいかもしれないほどだ。
「その・・・不潔までいうことないんじゃ・・・・・・」
ポテトチップスを口に運ぶ途中の姿勢で固まっていたレイが、やっとの思いで口にする。
しかし、ヒカリはレイの言葉など聞いてはいない。顔を覆っていやいやを続けながら、
「フケツフケツフケツフケツフケツフケツフケツ・・・・・・・・・・・・」
と、意味も無く繰り返しているだけだ。
「はいはい。わかったわよ。シンジが帰ってきたら、ちゃんとした服に着替えるわよ。」
相手にするのも嫌だったのだろう。アスカは軽く請け合ってテレビの前に寝転んだ。
「あれ、碇君て、まだ帰ってきてないの?」
レイもヒカリは無視する事に決めたのか、ポテトチップスを手にしたままイスから降りて、寝転んだ
アスカの隣に腰を下ろした。
「どこほっつき歩いているんだか・・・・・・・全く心配よね。」
テレビに目を向けたまま、さして心配しているとも思えない声でアスカが言う。
「でもさ、私たち、碇君が町中を歩いているの見たんだけどな。」
レイの言葉に、やっと嫌々をやめたヒカリが大きなアクションで肯いてみせる。目が少し腫れぼっ
たい所を見ると、どうやらヒカリは、心の底から「アスカの服が挑発的で不潔だ」と思って半泣きだっ
たようだ。
「じゃ、そのうち帰ってくるでしょ。」
テレビのニュースキャスターが7時になった事を告げるのとほぼ同時に、アスカは立ち上がり、レイと
ヒカリを順番に見回してこう言った。
「じゃ、そろそろヒカリは夕飯のビーフシチューの準備よろしくね。レイは、アタシとこの間のゲーム
の続きで勝負よ。」
どうやらアスカがレイを呼んだのは、一緒にご飯を食べる為と言うよりは、この間負けたテレビゲーム
の雪辱戦をやる為であったようだ。
「じゃ、台所借りるわね。」
ヒカリは「不潔な」服装に関する話など忘れたかのように鼻歌など歌いながら、台所に消えていった。
リビングに残った二人は、既に対戦ゲームに熱中している。
こうしている間にも、第三新東京市の夜は徐々に深まっていくのであった。


静かなリビングに、時計の音と、アスカが指先でテーブルを叩く「こつこつ」と言う音だけが響く。
結局シンジは、8時30分を過ぎても帰って来なかった。
「碇君・・・・・・・遅いわね。」
ヒカリ一人ですっかり準備の整ってしまった食卓を前にして、レイは言った。
レイの言葉は、この30分間何度も繰り返されてきた言葉である。
「そうね・・・・・探しに行こうか?」
ヒカリのこの言葉も、レイの言葉とセットになって何度も繰り返されてきた。
ただアスカだけが、一言も口をきかない。無表情でテレビを見ている。
アスカが何も言わないので、三人の女の子の間にふたたび、重い沈黙が舞い下りる。
その重苦しい空気を切り裂いて、場の雰囲気とは全く似つかわしくないほど明るい声で、レイが
「ポン」と手を叩く。
「そうよ!電話すればいいだけじゃない!碇君、携帯電話持ってるんだし」
「あ、そっか」
アスカは「なんで今まで忘れていたんだろう」という表情で、テレビの前まで歩いていき、投げて
あった携帯電話を掴んで戻ってくる。そして「碇シンジ」という履歴を探し出し、発信ボタンを押す。
そして携帯電話を耳に押し当てた。プップップというダイヤル音が響く。
その様子を、テーブルについたままのヒカリとレイが見守る。
しかし暫くすると、アスカの眉がピクリと跳ね上がり、荒々しく携帯電話をテーブルに叩き付ける。
「留守番電話・・・・・」
ぶっきらぼうにそれだけ口にすると、アスカは再びイスに腰を下ろした。
またまた三人の間には沈黙。しかも、さっきよりも、重い。
「やっぱりさ、私、そこら辺を探してくるね。」
沈黙の重さに耐え切れなかったのか、ヒカリがそういって腰を上げる。
「だいじょうぶよ。大丈夫。あんなバカシンジでも一応は男なんだし。カヲルか馬鹿トウジとかとどっ
かで遊んでるんでしょ。バカシンジなんかほっておいて、さっさと晩御飯食べましょ。」
アスカは早口で、自分に言い聞かせるかのようにそう言うと、テーブルの上の保温プレートに乗せてあっ
た鍋から、ヒカリの作ったビーフシチューを、みんなの皿に盛り分け始めた。
ヒカリとレイは心配そうに顔を見合わせていたが、アスカがそこまで言うならと、食事の準備を手伝い
はじめた。
シチューもめいめいの皿に分けられて、シンジが来ないまま夕食は始まった。
ヒカリの料理の腕は、抜群に良かった。ビーフシチューは、中学生の女の子が作ったとは思えないほどに
美味しかった。シンジが作ったら、ここまで美味しくは無かったであろう。
「うぅぅん。美味しいね、このシチュー。」
レイは、よほど美味しかったのかそれともお腹が空いていたのか、凄い勢いでシチューを平らげていく。
恐らくは後者であろう。シンジの帰りを待っていたので、いつもより遅い夕食になっていたからだ。
「そう、良かったわ。」
その様子を眺めながら、心の底から嬉しそうにヒカリは笑った。
「おかわり」
突き出されたレイの皿を受け取り、シチューを持ってやってから、ヒカリはアスカに、
「ねえ、アスカはどう思う?ビーフシチュー美味しい?」
と尋ねた。
しかしアスカの返事はない。スプーンを握ったまま空を睨みつけている。
「アスカ?」
怪訝そうに呼びかけるヒカリの声に、やっとアスカは反応した。
「あ?・・・・ああ、美味しいわよ、このカレー。」
関心が無いような振りをしながらも、この三人の中で、シンジが帰って来ない事を一番心配しているの
はアスカのようだった。そうでなければ、ビーフシチューをカレーと間違えた上に、食べてもいないものを
「美味しい」だなんて言う訳がない。
その様子を見てヒカリは、スプーンを置いた。
「やっぱり、碇君の事心配よね。私がちょっと出て見てくるわ。」
「なら、私も探しに行くわ。」
レイも、慌ててビーフシチューを飲み込んで立ち上がる。
しかし、アスカがそんな二人を制するよう勢いよくに立ち上がった。
「アタシが探してくるから、二人ともゆっくりご飯食べてて。」
有無を言わせぬ調子で宣言すると、着替える為に自分の部屋に入っていった。
ピシャリという音を立てて、ふすまが閉じられる。
「アスカが一番、碇君が帰ってこないのを心配してたのね。「大丈夫」とか言いながら・・・・・」
アスカの部屋のふすまを眺めながら、ヒカリはポツリと言った。
「ま、素直じゃないからね・・・・・それにしても碇君も幸せ者よね。」
頬杖を突いたまま、ヒカリと同じようにふすまを見つめていたレイは、小さく言って苦笑する。
すると、その言葉に重ねるかのようにふすまが開いた。
レイは自分の言葉を聴いて、アスカが怒って出てきたのかと思ったが違ったようだ。アスカは、先ほどの
タンクトップとショートパンツと言う格好から、水色のワンピースに着替えていた。
つかつかとテーブルに寄ってきて、携帯電話を掴んでから、腰を下ろしたままの二人に声をかけた。
「じゃ、アタシ、バカシンジを探しに行ってくるから。今日はミサトも遅いって言うから、二人ともゆっく
りしていってね。」
返事もまたず、アスカはずんずん歩いていって、エアロックの音を残して出かけていった。
「・・・・ゆっくりしていって・・・・って言われてもねえ・・・・」
残された二人は困惑する。この状況でゆっくりくつろげと言うのが、どだい無理な話だ。
「もう少ししても帰って来なかったら、私たちも探しに行きましょうか。」
ヒカリの提案に、レイは全く関係のない答えを返した。
「取り敢えず、ビーフシチュー、食べようか。」
緊張感のかけらもないレイを見て、ヒカリは大きくため息を吐くのであった。


「全く、あのバカシンジは・・・・・どこ行ったのよ。」
コンフォートマンションの前の道路上で、アスカは一人呟いた。
その表情に見られる心配の色は、先ほどよりも更に深いものとなっていた。レイ達がいるところでは、
シンジなんかの事を心配していると思われたくない、という思いで無関心な振りをしていたが、内心は
ものすごく心配だったのだ。
「シンジは方向音痴だし、喧嘩は弱いし、ドジだし・・・・・・ああっ!心配だわっ!」
アスカは道路上で大声で叫び、だんだん地面を踏み鳴らす。その様子を見て、向こうを歩いていた、帰宅
途中のサラリーマンが振り帰ったが、そんな事はアスカの目には入っていない。
「まず、情報収集よね。取り敢えずナルシスホモのたれ目男に連絡して・・・・・・・」
ポケットから携帯電話を取り出して、渚カヲルを呼び出す。
こんな状況でもがむしゃらに探すのではなくて、理詰めで行動するところが、アスカの性格を表している。
「あ、カヲル?アタシ、アスカだけど。シンジがどこにいるか知ってるなら教えなさいよ。」
どう割り引いて考えても、人に物を頼むという口調ではない。これはいつもの事だ。それでも誰にも嫌われ
ないのだから、アスカは非常に得な女の子だ。
「は?アンタ、バカぁ?学校で絵を描いてるかもしれない?んなわけないじゃない・・・・・・・・・・
・・・・そう・・・・取り敢えず行ってみるわ。ありがとね。」
珍しく感謝の意を表してから、アスカは通信ボタンを切った。
「あのばか・・・・・・・・」
携帯電話をポケットにしまうと、いつになく険しい表情で、アスカは学校へと続く暗い道を走り始めた。

その姿を照らし出すはずの満月は、今日に限って姿を見せていなかった。


続劇


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