第参拾四話  


『海の彼方へ(4)』

 
 「おはよう、アスカちゃん」
「葛城君達はまだか?」
コンフォートマンションの入り口の辺りにあるちょっとした段差に腰掛けているアスカに声を
掛けたのは、碇シンジの両親、ユイとゲンドウであった。
「あ、おはようございます、もう少しで来ると思いますけど」
アスカは慌てて立ち上がり、パンパンとワンピースのすそを叩いて埃をはらう。
「じゃ、我々も、腰掛けて待つ事にしようか」
夏にもかかわらず、ダークスーツの上下をピシッと着込んだゲンドウは、アスカが腰をおろして
いた段差に無造作に腰を下ろし、足元に旅行鞄を下ろした。
「ね、アスカちゃんも座って待ちましょう」
ユイに勧められて、アスカは再び、段差に腰を下ろした。そしてゲンドウとアスカの間に、ユイ
が腰を落とす。
なんとなく3人の間を沈黙が支配する。
並んで腰を下ろす3人の前を、宅配ピザの3輪スクーターが、軽いエンジン音を立てながら走り
抜けていった。その音もすぐに遠くなり、再び3人の周囲は静かになる。
その沈黙を最初に破ったのは、意外にも、ゲンドウだった。
「昨日行ったラーメン屋、あれは君が見つけたのか?」
「あ、そうです」
昨日は、ゲンドウ達をミサと宅で夕食をもてなす事になっていたのだが、ミサトが圧力鍋を爆発さ
せて料理をだいなしにしてくれたので、急遽、外食する事になった。
最初は、ゲンドウ達が宿泊するトレモントホテルのレストランで食べようという話になったのだが、
アスカとシンジが「美味しいラーメン屋さんがある」と言った為に、結局そこで食べて帰って来たのだ。
「あのラーメン屋さん、西華園さん、シンジ君と偶然見つけて、それから時々ミサト達と出かけるんです。
とっても美味しいから」
「確かに、おいしかったね」
ユイはアスカの言葉に相づちを打ち、さらに言葉を続ける。
「アメリカにいると、美味しいラーメンなんて、なかなか食べられないのよ」
「そうだな・・・・・・あれなら、インスタントラーメンの方が数百倍ましだな・・・・・・」
ユイの隣で、ゲンドウも苦い顔をして首を縦に振る。その顔から察するに、よほど不味いラーメンを食
べた事があるようであった。
「話は変わるけど、アスカちゃんって、とっても可愛いわよね」
ユイは急に話の方向を転換する。そして、眩しそうに目を細めながら、隣に座るアスカの顔を見詰めた。
どことなくシンジに似た瞳の色を間近に感じて、アスカはうろたえながらも、ペコリと頭を下げる。
「え・・・・・あ・・・・・・ありがとうございます」
「うぅん、そういう所がますます可愛いのよね・・・・・・・・はぁ・・・・・・・アタシにもこんな可愛い愛娘が欲し
かったなあ・・・・・・・・」
悔しそうにため息を吐くユイの横顔を見て、ゲンドウは苦笑する。
「葛城さんに聞いてた以上だもんね」
ユイはそう言って、微笑を浮かべながら左手でアスカの頭をポンポンと軽く叩いた。
ユイにべた賞めされているアスカは、あまりに誉められてなんとなく気恥ずかしく、首をすくめる。
「困ったなぁ、気に入っちゃったなぁ・・・・・・・・・」
小さく小さく呟いたユイの言葉は、アスカの耳に届く事はなかった。後ろの階段から、物凄い勢いで
階段を降りてくる足音が響いて来たからだった。
「おっまたせしましたぁぁ」
陽気な口調でミサトが現われ、その後ろから、鞄を二つも持たされたシンジがよたよたと歩いてくる。
「本当に・・・・・・・・・・お待たせですよ、ミサトさん」
シンジは渋い表情のままミサト達の脇を摺り抜けて、表の道路まで出た。
「ミサトさんが、『あ、鞄忘れた』とか『ペンペンの餌忘れた』とかいって何度も何度も部屋に戻る
から、こんなに遅くなるんですよ」
「まあ、度忘れってのは誰にでもあることだし」
申し訳無さそうに手をはたはたと振るミサトだが、その脇でアスカが腕を組んで大きくため息を吐く。
「他の人の『度忘れ』は稀にだけど、ミサトのはいつもいつもなのよね」
「いつもいつも、って事はないでしょ」
頬を膨らませてミサトはアスカを睨みつける。
そんな三人の様子を腰を下ろしたまま端から眺めていたユイは、こらえきれなくなってしまったのか、
プッと吹き出すようにして笑いを漏らした。
「ふふふっ、なんか、いつもの3人の生活が見えるようね」
それに呼応してゲンドウも重々しく肯いてみせる。
「ああ、困ったものだな」
ユイとゲンドウの言葉に、ミサトは焦って言い訳を始める。
「あ、所長、そんな、いつもって訳じゃないんですよ」
ミサトの様子を見て、ユイは更に笑いを大きくする。
「葛城さん、そんなに焦らなくたっていいのよ。あの人だって、冗談を言う事はあるんだから」
その言葉に、シンジとアスカ、そしてミサトはゲンドウの顔色に目をむける。ユイの言葉どおり、
ゲンドウの顔には、薄い笑みが浮かんでいた。
「それより」
ユイは笑みを崩さないまま、下からミサトの顔を見上げた。
「そろそろ駅に向かわないと、キョウコさんの電車に間に合わないんじゃないかしら?」
「あ、そうですね。タクシーもそろそろ来ると思いますけど」
ミサトはふいに我に返り、腕時計を覗き込んだ。
と、ミサト達の目の前の道路に2台のタクシーが、軽いブレーキ音を立てて停車する。
「じゃ、キョウコさんを迎えに行きましょ」
ユイの言葉を合図にするかのように、3人の大人と、2人の子供はタクシーへと吸い込まれていった。










「で、ミサト、そろそろどこに行くか教えてくれてもいいんじゃない?」
第三新東京市の玄関口、中央駅前へと向かうタクシーの中で、アスカは隣に腰掛けるミサトに
向かってそう問い掛けた。
ちなみにタクシーは、ユイとゲンドウの夫婦で一台、もう一台には、前にシンジ、後ろにアスカ
とミサトという組み合わせになっていた。
「キョウコママと、シンジのおじさまとおばさま、みんなでどこかに泊りに行くのは判ったわ」
笑みを浮かべたまま沈黙を保つミサトに向かって、アスカが更に言葉をつないだ。
「だから、キョウコママのホテル、予約してなかったのよね」
「そうよ」
「それで、どこに行くの?それくらい教えてくれたっていいじゃないのよ」
どこに行くのかは、シンジも知らされていない。恐らく、ユイやゲンドウは知っているのだろ
うが、教えてはくれなかった。興味津々で、助手席からシンジも身を乗り出す。
二人の視線を受け止めながら、ミサトは重々しい表情を浮かべて両の瞼をゆっくりと閉じる。
「じゃ、ヒントだけ教えてあげるわね」
タクシーが左にハンドルを切り、ミサト達の体のバランスが崩れる。バランスを取り直して
座席に深く座り直してから、ミサトは目を閉じたまま人差し指をピッと立ててみせる。
「海の彼方へ・・・・・・・・・ってとこかしら」
「海の・・・・・・・彼方へ?」
「ミサトさん、なんですか、それ」
シンジの疑問の言葉に、ミサトは閉じていた両の瞼を開き、その表情は再び悪戯っぽいもの
となる。
「秘密。すぐに教えてあげるわよ」
「はぁ・・・・・・まあ、仕方ないか」
シンジはあっさりとあきらめて、姿勢を正し、前に向き直った。
しかしアスカは、ミサトの言葉の意味について考え込んでみる。
『海の彼方へ・・・・・・・・・ってもねえ・・・・・・・・』
海沿いに住んでいるならともかく、山の中にある第三新東京市に住んでいると、「海の彼方」
と言われてもピンとはこない。
『海の彼方って・・・・・・』
別に気にすることなど無いことである。ミサトが「すぐに教えてあげるわよ」と言っていた
事であるし、おそらく、第三新東京中央駅についてキョウコと合流すれば教えてくれるだろう。
だがアスカは、ミサトの口にした「海の彼方へ」という言葉が気になっていた。
『海の・・・・・・・・・彼方・・・・・・・・・・』
そこでアスカは不意に嫌な考えが頭に思い浮かんで、胸がドキリと大きく鳴った。常識的に
考えれば、有り得る事ではない。でも。
『まさか、このままシンジがアメリカに、海の彼方へ、ユイさんたちと行っちゃうなんてこと、
ないわよね・・・・・・・・・・・・・』
有り得ようはずもない。ユイ達はともかく、シンジは2、3日分の着替えを持ってきただけ
である。そんなことが有り得るはずはないのだ。だが、アスカはなかなか、その嫌な考えを
胸のなかから追い払う事ができない。
そして不安は不安を呼び込み、どんどんと考えは、悪い方向へ転がり落ちていく。
『シンジ・・・・・・・いなくなっちゃうのかな』
アスカの様子は、傍目から見てもはっきりと分かるほど、暗くなっていた。眉間にしわを寄せて、
俯き、両のこぶしは膝の上でキュっと握られている。
その様子を見たミサトは、アスカが「海の彼方へ」という言葉が何処へ行く事を表しているのか、
その事で悩んでいるのだと勘違いして、小さい声でアスカに声を掛ける。
「ま、隠していてもしょうがないし、『海の彼方へ』の意味、教えてあげるわね」
ミサトの言葉に、アスカは、ビクリと身を震わせて頭を上げた。その瞬間に胸が大きく「ドク
ン」となったのが、アスカには、はっきりと感じられた。
「今日これから行くのは、新潟よ」
「新潟?」
オウムの様に聞き返すアスカに、ミサトは微笑を浮かべながら、言葉を続ける。
「そ。海の彼方に沈む夕陽、見た事ないでしょ?とっても綺麗なのよ」
ミサトの言葉の意味が心の奥に浸透してくるにしたがって、アスカの体を脱力感が襲う。
『なんだ・・・・・・・・日本海に沈む夕陽、海の彼方に沈む夕陽か・・・・・・・・・・そうよね・・・・・・・・・・・
普通に考えれば、シンジがアメリカに行っちゃうなんて・・・・・・・・あるはずないんだし・・・・・・』
ほっとしてアスカの肩から力が抜け、すとんと下に落ちる。
そんなアスカの心情など知るべくも無いミサトは、アスカに体を寄せてさらに小声で囁いた。
「恋人と二人で見るには、もう、ぴったりよ」
「こ、恋人なんていないわよ、アタシ」
ミサトの言葉に勝手に反応して熱くなってしまった頬を感じながらも、アスカはプッと頬を
膨らませて、ミサトの言葉を否定する。
「シンちゃんよ、シ・ン・ちゃ・ん」
ミサトは笑みを浮かべながら、肘でアスカの脇腹を軽く小突く。
その言葉が聞こえない振りをしながら、アスカはタクシーの窓を少し開けて、風を引き入れた。
そんな後ろの席の様子に気がついたのか、シンジは怪訝そうな表情で振りむく。
「二人で、なにコソコソ話してるの?」
「なななななんでもないわよ!シンジは前を向いてなさい!」
アスカにそう言われて、シンジは疑問を感じながらも、仕方なく前に向き直った。
「素直じゃないんだから」
苦笑を浮かべたミサトの唇から漏れた呟きは、窓から入ってくる風に溶けて消えていった。









それから数十分後。
碇シンジ、ゲンドウ、ユイ。そしてミサトとアスカは、第三新東京市中央駅の、改札口の
前に立っていた。
「この電車のはずですけど・・・・・・」
向こうから現われた人波に視線を向けながら、誰にともなしにミサトが口にする。
「キョウコさんか・・・・・・・久しぶりね」
ミサトと同じ方向を見詰めながら、ユイ。
その言葉にゲンドウも頷く。
「ああ、そうだな」
暫く経って、電車から降りた人波も絶えるが、キョウコは現れなかった。
「こないね・・・・・・・・・・・」
シンジが隣に立っているアスカの横顔を見詰めながらそう言う。
アスカの顔は、不安そうな表情が濃く出ている。
その表情を見たらシンジは、「何か言わなくちゃ」と思うが、なにを口にすればいいのか
判らず、言葉を紡ぐ事が出来ない。
そんなもどかしさを味わうシンジの隣で、アスカは不安そうに呟いた。
「キョウコママ、どうしたのかしら・・・・・・・・・・・・」
「一本早い電車で来ただけよ」
アスカ呟きに重ねるかのように掛けられた声に、一同の視線がアスカの後ろに集中する。
「アスカちゃん、お久しぶり。」
アスカはクルリと後ろを振り返る。そこに経っていたのは、アスカとそっくりの淡い蜂蜜色
をしたショートヘアの女性、惣流キョウコだった。
「あ、ママ!」
アスカの顔がパッと明るく輝き、キョウコの方へと一歩飛び込み、キョウコの両手を握って
ブンブンと振り回した。
「久しぶりぃ、ママ」
シンジは隣でそんな母娘の様子を見て、「アスカも普通の女の子なんだな」という事を
再認識させられていた。クラスの誰もが敵わないほど頭が良くて、クラスの男子が皆が認め
るほどに可愛い。なにか、別の世界の人の様に感じる事が多いが、やっぱり普通の娘なのだ。
『なんか・・・・・・・いいな』
アスカとキョウコの再会を見てそんな感想を抱くシンジであった。
「キョウコさん、元気そうね」
親子で久し振りの再会を喜んでいるキョウコに、ユイが脇から声を掛ける。それに対して
キョウコは、アスカとつないだ両の手はそのままに、ユイの方へと向き直った。
「あ、ユイさん。ユイさんも、ゲンドウさんもお元気そうで何よりです。」
ユイとゲンドウに小さく会釈をする。
と今度は碇夫妻の隣から、ミサトが声を掛けた。
「キョウコ先輩、お久しぶりです」
その声を聞いた途端、キョウコが冷たい笑みを浮かべた。
「ミサト・・・・・・素晴らしい保護者ぶりは、アスカから聞いてるわよ・・・・」
「・・・・・・・・・」
ミサトの顔が強張ったのを見て、キョウコは笑みを暖かいものに変える。
「冗談よ。ミサト、アスカがいつもお世話になってます」
そんな茶目っ気たっぷりのキョウコの立ち居振る舞いをみて、シンジは、キョウコに自分
の母であるユイに通じるものを感じた。ユイとキョウコは、NERVの先輩後輩、上司と部下と
いう関係でありながら、同時に長い友人であると聞いている。きっと、似た性格であること
が、長い友人としてやっていける理由なのだろうとシンジは思った。
「で、シンジ君は?」
シンジの思考は、キョウコの言葉によって打ち切られた。
「あ、僕、です」
返事をしたシンジの瞳を暫くの間じっと見詰めていたキョウコであったが、その後、さら
さらの髪をふわりと揺らして、ぺこりと頭を下げる。
「いつもアスカがお世話になってます」
「あ、その、こちらこそ」
頭を下げるシンジの向こうで、ユイが明るい声を上げた。
「さ、挨拶なんてどこでもできるし、はやく目的地にいきましょう」
「どこかにでかけるとは聞いてたけど、どこにいくの?」
キョウコの疑問の声に、ミサトがこれまた明るい声を上げる。
「海の彼方に夕陽の沈む日本海ですっ」




続劇

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