「ぷはぁ・・・・・・・・やっぱり、夏の夜長はビールよねぇ・・・・・」
ここは、いつものコンフォートマンション306号室。葛城ミサトの部屋である。
ミサトはいつもの様に、キッチンのテーブルに腰掛けてビールを飲んでいた。
アスカが今のミサトのセリフを聞いたなら、「夏の夜長じゃなくって、秋の夜長でしょ」と
突っ込んだ所であろうが、既にアスカとシンジの二人は床に就いていた。
「この麦の深い苦みと、切れ味鋭い炭酸・・・・・・・・・子供には判らない味よねぇ・・・・・・・・」
ビールを飲んでいる時のミサトは、饒舌であり、本当に幸せそうである。いつも沢山飲んでいる
缶ビールもお手軽で気に入ってはいるが、やはり今のように、瓶ビールをコップに上手に注いでか
ら飲むビールの味は格別であった。
「幸せ・・・・・・・・」
アルコールによる昂揚感もあるのだろうが、それ以上に、ミサトの顔に浮かぶ幸せの色は、ビール
を飲むという行為それそのものから来ているようであった。
「・・・・・・・・・・・・ぷはっ」
ミサトはコップに残っていたビールを一気に飲み干した。口の中を炭酸のぴりぴりとした感触が
走り抜け、それから、ゆっくりとホップの爽やかな苦みが口の中へと広がっていく。
「・・・・・・・・・もう一本、飲もう・・・・・・・」
タン、という音をテーブルとコップの間に響かせてから、ミサトは次なる一本を手にするために
椅子をたつ。
と、冷蔵庫へと向かうミサトの背中に向かって、電話機からの低い電子音が鳴り響いた。
「む・・・・・・・電話か・・・・・・」
しかしミサトはさして気にした様子もなく、悠々とした身のこなしで缶ビールを摘み上げてから
電話機へと向かう。それまでの間にかなりの回数、呼び出し音が鳴るがそんなことなど関係ないか
のようであった。おまけに受話器を取る前に、シュパッという爽やかな音を立てて、プルを上げて
から受話器を手にする。
「はぁい、もしもし」
とりあえずそう言ってから、開けたばかりのビールに口をつけて喉を湿らせる。どこまでもミサ
トはマイペースであった。
「葛城、惣流、ついでに碇です」
ビール片手にお気楽な調子でそう言い放つ。
しかしミサトのお気楽な調子も、受話器から相手の声が聞こえてきたとたんに、一気に吹き飛ん
でしまった。ついでにほろ酔い気分も海の向こうへと飛び去ってしまう。
「あ・・・・・・・副所長・・・・・・」
電話の相手はどうやら、ユイ、シンジの母でありミサトの上司でもある碇ユイのようだった。
「いや、『ついでに』ってのは、つい口が滑っただけで」
いつのまにかミサトの手からは缶ビールが離れていた。普段から他人には良いと呼ばれる姿勢も、
いつもよりも数段はシャキッとしている。
何せ、碇ユイはミサトにとってあらゆる意味で頭が上がらない相手である。昔に勤めていた戦略
自衛隊において、「生れる時代を間違えた」とまで言われたほどに優秀な士官であった(今の姿か
らはどうしても想像できはしないが)ミサトを、模擬戦でぐうの音もでないほどに叩きのめした唯
一人の人間がユイである。また、その後、職を失ったミサトを広報部長という素晴らしい好条件で
拾ってくれたのもユイであった。
「いや、その・・・・・・・・・・すいません。」
なにを言われたのかは知らないが、ミサトは電話台に向かって頭を下げる。この場にアスカがい
たなら、いつもの大雑把なミサトの振る舞いとのギャップの大きさに、大笑いをした事であろう。
ミサトは二人の子供が、既に眠っていることに感謝した。
「ところで副所長・・・・・・・あ、じゃあユイさん、いつ日本に・・・・・・」
シンジの母であるユイと、父でありNERVの所長であるゲンドウは、近く日本に一時帰国すること
になっていた。頃を合わせてアスカの母であるキョウコも、ドイツからやってくることになっている。
どう考えてもこのコンフォートマンション306号に、新たに3人もの余分な人員を収納することが
できるとは思えない。何らかの手を打っておく必要があった。
「・・・・・・えっと・・・・・・・はい、来月、8月の2日からですか・・・・・・・・・・・・・・・」
ミサトは電話台の前に掲げられたカレンダーに目をやった。今月、7月の20日の所には、アスカと
思われる、流麗ながらも豪快な筆跡で、「夏休みっ」と書き込まれている。
「・・・・・・・・ええ。二人とも休みに入ってますから、大丈夫だと思いますけど・・・・・・」
アスカとシンジの部屋が並ぶ廊下の方へと目をやりながら、ミサトはそう答えた。
「わかりました。じゃあ、手配しておきます・・・・・・・・・・・・・・・え、頼み、ですか?」
急に別方向にと展開したユイの話に戸惑いを感じながらミサトは、電話台の上に置かれていたビール
の缶へと手を伸ばす。冷蔵庫から出してから、結構な時間が経っているとはいえ、中身が入ったビール
缶はひんやりとした感触がした。
しかし電話の向こうでユイが話しはじめた事は、手の平に伝わってくる缶の冷たさをはるかに上回る
衝撃をミサトに与えた。
「・・・・・・・・・・え・・・・・・・・・・そう・・・・・ですか・・・・・・・」
電話の向こう、アメリカからのユイの言葉は続く。その話を聞きつづけるうちに、缶を握るミサトの
てに少しずつ、ほんの少しずつではあるが力がこもっていく。
気が付くとミサトは、缶をしっかりと握ったまま、廊下の向こう、シンジの部屋の方へと視線を向け
ていた。その視線を、今度は、手にした缶のプルトップへと向ける。
「・・・・・・・・・・・・確かにそうですね・・・・・・・・・判ります、ユイさんの言ってる事は・・・・・・・・・私はまだ結
婚してないから本当には分からないのかも知れないけど・・・・・・・・・・それが親の気持ちでしょうから」
そこでミサトは手にした缶ビールに口をつけた。しかし飲む事はせずに、ただ唇を湿らせるだけに
とどめ、ふたたび受話器の遥か彼方のユイに向かって口を開く。
「でも・・・・・・・・・・・こんな大事な事は、やっぱりユイさんたちの口から言ったほうが・・・・・・・・・」
そう言ってからミサトは、再び缶ビールを口へと持っていく。今度は唇から喉へと、ビールが注ぎ
こまれた。先ほどまでは爽快な喉ごしであったビールが、今度は只の苦い液体に感じられた。
「・・・・・・・・・・・すいません・・・・・・・・・・・・・・でも、やっぱり、ユイさんたちから・・・・・・その方が、きっ
とシンジ君も・・・・・・・・・・・・・・・」
ミサトは硬い表情のまま、受話器に向かって軽く頭をさげた。
「・・・・・・・・・・・・・・・はい、それは手配しておきます。8月2日ですね。」
電話の脇に置いてあったボールペンを手にして、8月の2日の所に、グリグリと丸を書いた。そし
て電話を掛けてきたユイが受話器を置くのを待つ。とその目にシンジの部屋のふすまと並んでいる、
もう一つの部屋が映った。アスカの部屋。その部屋を見たとたんに、ミサトの頭の中を様々なことが
駆け巡る。そして。
「あのっ、ユイさんっ」
慌てた口調でミサトは受話器に向かって、叫んだ。
「その・・・・・差し出がましいごとを言うようですが・・・・・・・・・・シンジ君の意見も聞いてあげてくださ
い・・・・・・・・・・・それと・・・・・・・・・・」
ミサトは一度口を閉じてから、目の前のカレンダーに目をやった。書いた人間の性格を表している
ような「夏休みっ」という文字が目に突き刺さる。よほど夏休みが待ち遠しかったのだろう。やりた
いことが、行きたい所が、一杯あるに違いない。
「前にもちょっとお話したんですけど、アスカが・・・・・・・・・・・・・・・・」
電話の向こうのユイは察しが良かった。ミサトの言葉を少し聞いただけで、全てを察したようだった。
「・・・・・・・・すいません・・・・・・・・・・シンジ君がなんて言うかわかりませんけど・・・・・・・・・」
ミサトは受話器に向かって、またも頭を下げる。
「・・・・・・・・・・はい、ではまた・・・・・・・・・・・・・・失礼します」
ガシャッという、プラスチックの電話機にしては重たい音を立てて、ミサトは受話器を置いた。
暫くの間ミサトは、硬い表情をしたまま電話機の前に立ち尽くしていた。だが何かをふっきるか
のように、豊かな髪をぐしゃぐしゃとかき回してから、ビール片手にテーブルに戻る。
そして小さなため息を吐いてから、ボソリと呟いた。
「・・・・・・・・・・・・・・言えるわけ、ないわね・・・・・・・・・・・・」
ユイの言いたい事は判る。ゲンドウと二人で考えた末に出した結論なのだろう。
「もしそうなるなら」
思わず自分の思いが口に出てしまい、ミサトは慌てて口をつぐむ。そして小さな声で続けた。
「・・・・・・・・アスカ・・・・・・・」
ミサトはビール缶を勢いよく引っ掴むと、黄金色の液体を一気に喉に流し込む。ただただ苦い、
ビールの後味を消すために、新しいビールを取りに行く。
「・・・・・・・・どうなるにせよ、全てはシンジ君次第、か・・・・・・・・・・・」
冷蔵庫から流れ出る冷気を頬に感じながら、ミサトは今夜最後の呟きを口にする。
その呟きを最後に、ミサトは何も言わずに、夜遅くまでビールを飲みつづける。
いつもより重い雰囲気の初夏の夜は、「秋の夜長」よりも長く感じられた。
終劇