第参拾参話  


『海の彼方へ(3)』

 
 「それにしても、ここらへんも変わらないのね」
碇ユイは、額に手の平を当てて眩しい夏の陽射しを遮りながら、二人分の荷物を手にして後ろを歩いてくる
ゲンドウに声をかけた。坂道の上には、葛城ミサト宅、コンフォートマンションを望む事が出来る。
碇ユイとゲンドウ、そしてシンジとアスカは、歩いていた。駅からタクシーに乗ったのだが、「久しぶりに
第三新東京市に来たのだから、少し歩いてみたい」というユイの希望で、コンフォートマンションから少し
離れた所でタクシーからおりたのだった。
シンジとアスカは身軽なので問題ないのだが、夫婦の荷物を一手に持たされたゲンドウは辛そうであった。
しかも道は平坦ではない。結構な斜度の坂道である。

「まあ・・・・・・十年も二十年も・・・・・・・経ったわけでもないから・・・・・・・・・な」
ユイに答えるゲンドウの息は、既に切れ切れであった。両手に荷物を持って傾斜のキツイこの坂を登ってい
るのだから、いたしかたの無い事であろうか。
「父さん、荷物、持とうか」
ゲンドウの様子を見かねたのか、ユイの隣を歩くシンジが立ち止まって声をかけ、手を差し出す。
「その、必要は、ない」
ゲンドウはきっぱりとした口調で拒絶され、シンジは仕方なく、差し出した手を所在無さそうに引込めた。
「あっ、あれがシンちゃんとアスカちゃんの通っている学校よね」
コンフォートマンションよりも更に高くなった所にある、白い建物をユイは指差す。
「そうです。えっと・・・・」
シンジ達親子より少し先行して歩いていたアスカがすぐに答えるが、ユイの事をなんと呼ぶべきか悩み、口
が止まる。
それを敏感に感じ取ったユイは、アスカに向かって優しい微笑を浮かべた。
「あ、わたしの事はユイでいいわよ」
「あ・・・・・・・・そうですか・・・・・・・・でもやっぱり」
ユイの言葉を聞いてアスカは、暫くの間その言葉を反芻してから、振り向き、上目遣いにユイを見上げた。
「あの・・・・・・・やっぱりユイさんってのも悪いし・・・・・・・おばさま、じゃ駄目ですか?」
ユイは満面に苦笑いを浮かべる。「おばさま」という言葉の持つが引っかかるらしい。
「まあ・・・・・・・・確かに、葛城さんならともかく・・・・・・・・お姉様って年齢でもないしね・・・・・・・・・」
苦笑を心からの笑顔に変えて、ユイは首を数回軽く縦に振った。
「いいわよ、おばさま、でも。ね、おじさま」
ユイに話を振られたゲンドウも、思わず苦笑を浮かべてしまう。当然の事ながら、ユイが「おばさま」なら
ゲンドウは「おじさま」という事になるのだろうが、なんとなく、頬の辺りがむず痒い気分だった。
しかし、娘のような年頃の女の子に、ましてや可愛らしい女の子の頼みを断るのは、難しい。
「まあ・・・・・・・仕方ないな」
いかつい顔に、どことなく恥ずかしげな笑みを浮かべながら、ゲンドウも肯く。
「ってことだから、おばさま、おじさまで良いわよ、アスカちゃん」
「ありがとうございます」
いつのまにか肩を並べる位置にいたユイに向かって、アスカはペコリと頭を下げる。
『ユイさんって、綺麗よね・・・・・・・・』
顔を上げてアスカは、隣を歩くユイの横顔をちらりと横目で見やった。さらさらとしたショートカットに、
くりくりっとしていながら意志の強そうな光を放つ瞳、すっと通った鼻筋。どこをとっても、美人だった。
ミサトの様な女の魅力を大放出しているタイプの「美人」ではない。どちらかと言えば、可愛い、キュートと
いう感じの「美人」である。ある程度の年齢になっても、そういう雰囲気を纏っているユイがアスカは羨まし
かった。
『それにしても』
アスカはあることに気がつき、シンジの父、碇ゲンドウの顔を思い浮かべる。あまり感情を表に表しはし
ないタイプであるようだったが、瞳からあふれ出る光が、ユイ同様に、意志が強いであろうことを窺わせる。
『どうして両親ともあんなに意志が固そうなのに、シンジは、あんななんだろう?』
どう考えてもシンジが、両親に似て意志が固いとは思えないアスカであった。
そんなことを取りとめも無く考えているアスカに、左の肩の向こうから、声がかけられた。
「それにしても、アスカちゃん」
左肩の向こうのユイの視線は、少し前をてくてくと歩いているシンジに向けられている。
「いっつもシンちゃんが迷惑かけて悪いわね」
ユイとしては、シンジには聞こえないようにと声量を絞ったつもりだったのだろうが、シンジにはしっかり
と聞こえていたようであった。不満そうな表情を満面に浮かべて振り返る。
「別に迷惑なんか、かけてないよ」
「あらあら、まさか、いつもアスカちゃんに宿題手伝ってもらってるの、忘れたわけじゃないよね」
後ろ向きに歩道を歩くシンジが、ぐっと言葉に詰まる。
「いや、それはそうなんだけど・・・・・・・・・・でもそれは」
シンジの言葉を継いで、アスカが言葉を続ける。
「でも、いつもシンジくんに家事をやってもらってるから」
「それくらい気にすることはない」
後ろからかけられた声に、アスカとユイは振り返る。
「せいぜい、使ってやってくれ」
荷物の重さに喘ぎ喘ぎ、絞り出すように口にしたゲンドウの言葉に、ユイは「うんうん」と首を縦に振る。
「ま、そういうこと。家事だけは得意だから、遠慮しないで、シンちゃんの事、使ってやってね」
ユイは「だけは」という所だけ強調する。
「だけは、ってことないじゃないか」
立ち止まり口を尖らせて抗議するシンジの頭を、ユイは横を通りすぎざまにポンポンと軽く叩く。
「言葉の綾でしょ、シンちゃん。そんな細かい事ばっかり言ってると、女の子に嫌われちゃうわよ」
それからアスカに微笑を向けた。
「ね、アスカちゃん」
話を振られたアスカは、なんと言ったものか言葉に詰まる。「そうですね」とも「そんなことないです」
とも言い難い。
「いやその・・・・・・・・・・・・・」
「でも、本当にアスカちゃんには感謝してるの」
なんと答えるか迷っているアスカに、ユイは優しい声をかける。
「え?」
見上げるアスカに、ユイはにっこりと笑みを浮かべた。
「シンちゃんって」
ユイは肩越しに後ろを振り返った。アスカもつられて振り返る。
ユイとアスカの後ろでは、ゲンドウの荷物を持ってやろうとしているシンジと、それを頑なに拒もうと
するゲンドウとの間で、荷物の引っ張り合いが繰り広げられていた。
「あの人、父親に似てて、神経質な上に人見知りする子だったのよね。今はずっと良くなったみたいだけど」
再びユイは前に向き直る。コンフォートマンションはもう目と鼻の先だった。
「まあ、葛城さんに預けたのも、あの人の大らかと言うかズボラというか・・・・・・まあ、そんな性格の人
だからだったのよね」
「まあ・・・・・・・確かに」
脳裏にミサトを思い浮かべて、確かに、彼女の性格は悪く言えばズボラ、良く言えば大らかと言えない事もな
いかな、とアスカは思った。
「でも、葛城さんの話だと、シンちゃん、アスカちゃんが来てから、ぐっと変わったって」
「え?」
アスカの驚きの表情を見て、ユイは再び微笑をうかべる。
「アスカちゃん見てると、葛城さんの言ってた事も本当だなって判るわ」
「あの・・・・・・・・どういうことですか?」
だがユイがその問いに答える事は無かった。到着したコンフォートマンションの玄関に、なぜか、ミサト
が立っていたからだ。
「あ、ミサト・・・・・・・・・なにやってんの?」
不思議そうに問い掛けるアスカに、ミサトは苦笑を浮かべて頭を掻く。
「いや・・・・・・ちょっとね」
そのミサトに向かってユイが、続いて遅れて玄関に到着したゲンドウが声をかけた。そのゲンドウが手にし
ていた荷物の数が減っていた。どうやら荷物の「奪い合い」はシンジが荷物を持ってやる事で決着したよう
であった。
「あら、葛城さん。お久しぶりぃ」
「久しぶりだな、葛城君」
二人の挨拶を受けてミサトは、アスカに向けていた苦笑を引込めて、真剣な顔になった。
「お久しぶりですっ、碇所長っ、ユイさんっ」
ピシッっと両手を腰の脇にそろえた状態から、ミサトは敬礼をする。
それを見てアスカは、呆れた表情を浮かべた。
「なにやってんの・・・・・・ミサト」
敬礼を向けられたユイも苦笑を浮かべる。
「葛城さん、いいかげん戦自にいた頃の癖、直したら?」
「あ、そう・・・・・・ですね」
自分でも敬礼をしたという自覚がなく、なんとなく自然に体が動いていたのだろう。ミサトはバツの
悪そうな顔で上げた右手を腰の辺りまで下ろした。
「わざわざ、お出迎えに来てくれたわけ?」
悪戯っぽい瞳で、ユイは自分より少し背の高いミサトの顔を見上げる。
「いやあ・・・・・・・まあ・・・・・・」
照れ笑いをしながら頭を掻くミサト。ユイとゲンドウの後ろで、そのミサトの笑顔を見ていたシンジ
は、その笑みを見て不審に感じる。シンジは、ミサトがここまでわざわざ「迎えに」来る理由を考えて
見た。そして、直ぐに一つの事に思い至る。
「ミサトさん・・・・・・・・・・まさか、料理、失敗したんじゃ・・・・・・・・・」
半眼でシンジはそう言う。
その言葉に、ミサトは固い笑みを返した。
「シンジ君、失敗なんてそんな」
「やっぱり・・・・・・・・まかせるんじゃなかったな・・・・・・・・・・・自信満々だったのに、これじゃ」
ミサトの言葉を遮って、大きくため息を吐くシンジ。
それにアスカのため息も重なる。
「やっぱりアタシがつくるか、それとも、ペンペンにでも任せるんだったわね・・・・・・・・・」
さらにユイも腕を組んで、首を大袈裟に横に振った。
「葛城さん・・・・・・・・・まだ料理つくれないのね・・・・・・・・・だからお嫁にいけないのよね」
まだ「失敗したとは」一言も言っていないのに、三人に言いたい放題言われて、ミサトはガックリと
肩を落とすしかない。
「いや・・・・・・・その・・・・・・・そこまで言わなくても・・・・・・・・」
そんなミサトに、シンジが困った表情は引込めないままに、声をかける。
「ミサトさん、それで、どの位失敗したんですか?」
失敗した、と言っても色々なレベルが在る。もちろん失敗の程度にもよるのだが、なんとか軌道修正
することが出来るかもしれない。
「・・・・・・・・・・・・・」
固い笑みを顔に貼り付けたまま、ミサトは沈黙する。
その様子を見ていた三人は、「酷い状況なんだな」と察した。それでもユイは確認の言葉をかける。
「どの位なの、葛城広報部長」
直属の上司であるユイにそう言われては、ミサトも口を噤んではいられない。固い笑みのまま、髪を
撫で付けながら口を渋々と開く。
「その・・・・・・・・・さっき、NERVのハウスサービス部を呼んだくらい・・・・・・・・です」
NERVのハウスサービス部とは、研究エリアや事務エリアの全ての雑用を請け負ってくれている部署で、
普通の掃除では落ちないような汚れなどを落とす事もお手の物である。
「そこまでしなくちゃならない程の失敗って・・・・・・・・・・・」
シンジ、アスカ、ユイの三人は顔を見合わせた。どんな程度の失敗なのか理解に苦しんでしまう。
と、いきなり、アスカが素っ頓狂な声を上げた。
「あ?」
その声に、シンジとユイ、そしてミサトの視線がアスカに集中する。
「おじさま・・・・・・・・どこ?」
シンジの後ろにいたはずのゲンドウがいない。
「あれ?」
不思議そうに首を傾げるシンジ達の後ろで、カツン、カツンという足音が次第に遠くなっていく。
「あぁぁぁぁぁぁ碇所長ぉぉ」
かなり情けない表情になりながら、ミサトは遠ざかっていく足音、碇ゲンドウを追っていく。
その後ろ姿を目で追いながら、ユイは肩で息を吐く。
「はぁ・・・・判ってたとはいえ・・・・・・いつも、こんななの?」
「・・・・・・・・・・・・・」
無言でシンジとアスカは顔を見合わせる。
「いつもは、もうちょっとましだよ」
「いつもは、もうちょっとはましです」
声を揃えて返事をする二人の顔を交互に眺めて、ユイはもう一度小さなため息を吐いた。そして、
小さく、唇を動かした。
「母さん」
ふともの思いにふけるユイに、少し離れた所から、両手一杯に荷物を持ったシンジの声がかかる。
夏の陽射しの中に立っていたせいか、髪が熱くなっていた。その髪を撫で付けてから、ユイはシンジ
に向かって大きく肯いて返事をした。
「うんうん」
ユイは小走りにシンジの方へと走っていく。
その背中は、夏の陽射しの中から、薄闇の中へと消えていった。




続劇

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