第三新東京市の道路は、いたるところで広い。無意味に広い。なぜこんなに広い必要がある
のかと首をひねりたくなるほどだ。
歩道も広い。しかも綺麗に街路樹が植え込まれている。「こんな税金の無駄遣いするくらい
だったら、国民にビールを配ればいいのよねぇ」というミサトの言葉が正しいかどうかは、意見
の別れる所であろうが、とにかく、税金を沢山注ぎ込んでいる事は間違いなしの、立派な歩道である。
その立派な歩道を、二人の少年が、てくてくと歩いていた。
「それにしても、碇せんせぃの親父さん、帰って来るとはなぁ」
上下お揃いのジャージを肘まで捲り上げた腕を組みながら、短髪の少年は、首をひねった。
道を歩く少年たちの前に続くアスファルトからは、微かながらも、地面の熱が放出されている
ことによる、空気の揺らぎが見えている。もう、「初夏」というよりは「夏」と言った方が良い
季節となっていた。この季節に長袖のジャージを着る必要など、無い。この季節に長袖ジャージ
を着るなど、よほどの根性がなければ出来る事ではない。
その無意味な根性を持っているのが、ジャージの少年、鈴原トウジであった。
「そうだね・・・・・・・・・・・・まさか、帰ってくるとは思わなかった」
トウジの言葉に、「碇せんせぃ」と呼びかけられた碇シンジも肯く。
シンジの父ゲンドウと、母ユイは、仕事の都合で渡米していた。
「きっと、よほどの事があるんやな。」
腕を組んだまま、物知り顔でトウジが首を縦に振る。
その姿を横目で眺めて、シンジは苦笑の色を顔に浮かべた。
「まさか・・・・・・・・・・・・・・よほどのことなんて・・・・・・・・・・」
そこでシンジは歩みはそのままに、宙を見つめる。しばらく思案した後に、横を歩くトウジ
に顔を向けた。
「あえて言うなら、宿題やってかないとか」
「違う。ぜぇったい、違う」
目の前で、ブンブンと音がしそうなほどに手を横に振りながら、トウジはあっさりとシンジの言葉
を否定する。
「碇せんせぃのは、やらないだけやし、成績イイやないかい。それに比べて、ワシのは深刻や。」
そこでトウジは、大きく深くため息を吐いた。
「やらない、判らない、成績悪い。三拍子そろった好選手やで、ほんまに・・・・・・・・・・」
そのトウジの言葉に、シンジも苦笑するしかない。
確かにトウジの言う通りだ。シンジは宿題をやっていかない事が多い。葛城ミサト、惣流・アスカ・
ラングレーという二人の同居人の食事に加え、部屋の掃除など家事全般を、ほとんど一手に引き受けて
いる状態では、なかなか宿題をやる時間を取る事が出来ない。それでも最近は,、アスカが家事を手伝っ
てくれることが多くなってきたので、助かっており、宿題をやらない事も少なくなってきた。
また、トウジも言っている事だが、シンジは成績も良い。テストの点がなぜか良いからだ。もっとも
シンジの両親を知っているミサトに言わせれば、「血統」ということらしいのだが。
こんなシンジと比べれば、確かにトウジは、三拍子揃った好選手かも知れなかった。
「はぁ・・・・・・・・・・・」
自分の言った事で、がっくり落ち込んでいるトウジにどんな言葉をかけたらよいのか判らずに、シ
ンジは、ただ歩みを進める。
暫くの間、無言のままに二人は歩いていく。
目の前に、緩やかで長い上り坂が見えてきた頃、先に口を開いたのはトウジだった。
「・・・・・・・・えっと、なんの話やったっけ」
「・・・・・・・・・・・・父さんと母さんが帰ってくる、ってことじゃなかったっけ」
「そやったなぁ」
シンジの言葉に、トウジは、肩からかけているショルダーバッグを揺らしながら、ポンと手を叩く。
「それになんや、惣流の母ちゃんも帰ってくるんやって?」
トウジの言葉どおり、アスカの母親であるキョウコも、ユイとゲンドウの帰国に合わせる形で、日本
に来る事になっていた。
当然の事ながら、シンジはキョウコと面識は全く無い。それでも、アスカの母親、ということから考
えれば、どういう人となりなのかは何となく想像する事が出来ていた。
「ま、大変やなぁ。碇せんせぇも。あの惣流のかあちゃんじゃなぁ・・・・・・」
「え・・・・・・・・・そんな大変なこと、無いとおもうけどなあ」
何を言ってるの、というニュアンスを言葉の端に滲ませながら、シンジは答える。
「しっかりしてくれ・・・・・・・・・惣流のかあちゃんやで・・・・・・・」
やや前傾姿勢をつくって坂を進んで行きながら、トウジは大袈裟にため息を吐く。
「確かに頭ぁいいやろけど、高飛車傲慢鼻持ちなら無い史上最強最悪の凶暴人間兵器・・・・・・・・」
トウジは指を折々、息が切れるまでアスカの欠点を並べ立てる。
「・・・・・・・・・・・っちゅうことや」
ふぅ、と息を吐いてから、シンジは恨めしそうにトウジの顔を見る。
「・・・・・・・トウジ、ちょっと言い過ぎじゃない・・・・・・・・・アスカ、そんな嫌な娘じゃないよ」
シンジはトウジが反論してくるかと思ったが、意外にも、トウジの首はあっさりと縦に振られた。
「ま、そやな。俺らには判らんこともあるやろな。案外、惣流もいいとこ在るのかも知れんしな」
トウジはそう言うと、手を腰に当てて、ジョギングでもするかのようなポーズを取った。
「んじゃ、碇せんせぇは買い物やろ?じゃあワシはさっさと帰るわ。じゃあ、明日な」
言いたい事を言い終えるとトウジは、シンジの返事など待ちもせずに、怪しげなジョギングポーズ
のまま、横道へと走り去っていった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
一人取り残される形となったシンジは、トウジが走り去っていった横道を、呆然とした表情で見詰める。
「トウジの家って・・・・・・・・反対側なんじゃなかったっけ・・・・・・・・・」
シンジが思っている通り、トウジが走り去っていったのは、家とは全く逆の方向であった。
「ま、いっか」
なにか用があるのだろう、と簡単に結論を出して、シンジは陽射しの中、再び足を動かしはじめる。
「さてと・・・・・・・・・買い物、頼まれてたんだっけ」
ごそごそとズボンのポケットから小さく折り畳まれたメモ用紙を取り出す。
シンジはスーパーへと歩みを向けながら、誰に対してというわけでもなく、問いを発した。
「ビールか・・・・・・・美味しいのかな?」
「道の脇から、視線でプレッシャーかけるのは止めてくれ・・・・・・・・・・お陰で心にも無い事、言って
もうた・・・・・・・・心にも無い事言うのは、辛いわ」
シンジと歩いていたのと一区画ほど離れた所で、トウジは心の底からそう口にした。
トウジがいきなり、アスカの性格に対して理解のあるような態度をとったのは、どうやら本心からでは
なかったようである。
「・・・・・・・・・・・・・・鈴原・・・・・・・・・・・心にも無い・・・・・・・・って言ったの?」
冷たい視線でトウジの言葉に応えたのは、学級委員長でもある洞木ヒカリである。彼女こそが、道路の
端から、視線で激しいプレッシャーをかけた張本人であった。
「いや、それはその、言葉のあやが・・・・・・・・・」
しどろもどろで弁解の言葉を捜すトウジ。しかし、ヒカリの背中から発せられた一言が、トウジの努力
をあっさりと粉砕する。
「アスカに言っちゃおっかなぁ・・・・・・・・・今日、アスカの家に行くし・・・・・・・・」
ヒカリの後ろから現れたのは、レイであった。悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「勘弁してくれ・・・・・・・・・・・」
げっそりとした顔で、トウジは力無く答えた。
「惣流に言われたら、ワシの顔に、一週間は消えない紅葉が咲いてしまう・・・・・・・・・・」
レイとヒカリに背を向けて、肩を落とすトウジ。その背中に向かって、妙に優しい声がかけられた。
「アタシ、そんなことしないわよ。まあ、アンタがしてほしいってんなら、今から紅葉狩りができる
ようにしてあげてもいいわよ」
その声を聞いたとたん、トウジの顔から一気に血の気が引いた。正面から顔を観察している人がいれば、
貧血で倒れるのだと、確信すら抱くであろうほどであった。
「アタシ・・・・・・・アンタ・・・・・・・・・」
いままで以上に力の抜けた口調でトウジがぼそぼそと呟く。
この口調で想像できることはただ一つ。だが、理性がそれを認知する事を拒否しているのか、トウジの
頭がパニックに陥っているのか、考えがまとまらない。
それでも無理矢理かき集めた理性で、トウジは自分の浅はかさを呪う。ヒカリがいるという事は、仲の
よいレイやアスカがいるのと同義語である事に気が付かなかった事を。しかし、いつまでも自分を責めて
どうしようもない。潔く決意を決める。
蒼白な表情のまま、素早くクルリと後ろを振り向き、そして、振り向きざまに土下座した。
「すいませんでしたっ、惣流さんっ、そんなことは決して思っておりませんっ」
「だから、アタシは別になんとも思ってないってば」
トウジの言葉を遮るようにしたのは、トウジの予想通り、当の張本人アスカであった。
アスカが何とも思っていないわけはないであろう。少し前のアスカであれば、平手打ち、機関銃のような
速さでのまくし立て、足蹴りのうちのどれかが選択実行されていたことであろう。
でも最近は、アスカも、少しではあるがおとなしくなっていた。
口には出さないが、レイは「恋愛は人を変えるってのは本当ね」と思っている。口にしても否定されるだ
けであろうが。
「ま、もっとも、アタシがなんにもしなくても、アンタの運命は変わらないだろうけどね」
「そうね」
アスカの言葉に呼応するかのように、ずずいっと進みでたのは、ヒカリであった。
「すぅずぅはぁらぁ・・・・・・・・・・・私の友達のアスカになんてことを・・・・・・・・・・」
ヒカリの目には怪しげな光が浮かんでいる。
「ちょぉっと来てもらおうかしらぁ・・・・・・・・・・・」
そう言うや否や、ヒカリはトウジの首筋を引っ掴んで、ずるずると引きずっていく。
「いややぁ・・・・・・・・・・・・・・・・」
情けない声を上げて、トウジは抵抗すら出来ずに道の向こうへと引きずられていく。なぜ、女子で、しかも
ひ弱そうなヒカリがトウジを引きずれるのかは謎である。
「綾波ぃ・・・・・・・・見てんと助けて・・・・・・・・・」
助けを求めるトウジの声に、レイはにっこりと笑みさえ浮かべて手を振る。
「サヨナラ」
その笑みを見て、アスカはこっそりと「・・・・・・・一番怖いのってレイよね・・・・・」と思う。
通りの向こうに消えて行く二人を見送ってから、レイは笑みを引込めた。
「鈴原・・・・・・・・・無事じゃないわね・・・・・・・・・さて・・・・帰ろうか」
何事も無かったかのように歩き出すレイの背中を見ながら、アスカは再び心の中で呟く。
「レイって・・・・・・・怖いかも・・・・・・・」
その心中を察しているのかいないのか、レイはスタスタと歩きながら後ろを歩くアスカに向かって言葉を
かける。
「ねえ、アスカ。ホントに夕ご飯ごちそうになっていいの?」
「あったりまえじゃない」
レイの言葉に答えてから、アスカは小走りになる。ふわふわと長い髪を揺らしながら、アスカはレイの隣
に並んで歩き始めた。
今日は珍しくミサトの帰りが遅いので、レイも呼んで夕食を食べる事になっていた。もちろんのこと、主に
食事を準備するのはシンジの役目である。
「たまには、食べていきなさいよ。シンジの料理、美味しいわよ」
それを聞いて、レイはクスリと小さく笑う。
「なに?」
レイの笑いが意味する所が判らずに、アスカはレイの顔を覗き込む。
「だってさあ」
レイは笑みをさらに強くする。
「『シンジの料理、美味しいわよ』って言い方、旦那を自慢する奥さんみたいだったんだもん」
その言葉にアスカは頬を少しだけ朱に染めて、ぷくっと頬を膨らませる。
「そんなんじゃないわよ」
「またまたぁ、照れちゃって」
レイは人差し指でレイの頬っぺたを突っつく。
「べ、別に照れてなんかないわよ」
アスカはそう言うが、さっきよりも顔が赤くなっているのは、暑さのせいだけではないだろう。
その赤さを目ざとく見つけたレイは、通学鞄を左手に持ち替えてから、ポンポンとアスカの頭を撫でる。
「顔、紅いわよ」
「しらないわよっ」
言葉だけをその場に残して、アスカは走り出す。そして暫く走ってから、後ろを振り向いた。
「余計な事ばっかり言ってると、レイの晩御飯、目刺しだけよ!」
その表情には、すでにさっきまでの照れは感じられない。尤も、少し距離が開いた事によって、判りにくく
なってしまっただけかもしれないが。
そんなアスカを見たレイは、にっこり笑いながらアスカのいる所まで、軽い足取りで走っていく。
「あらアスカ、目刺し焼けるのぉ?」
「失礼ね。アタシだって、目刺しくらい焼けるわよっ」
追いついてきたレイの頭を、アスカはコツンと軽く小突く。
「そうだったわね。愛しの碇くんに教えてもらったんだっけ」
「なななななにが、愛しの、よ」
「へぇ・・・・・・碇くんのこと、好きじゃないんだぁ」
「そんな訳ないでしょ!」
「じゃ、好きなんでしょ」
「それは・・・・・その・・・・・」
レイとアスカの二人は、騒々しいほどの賑やかさで道を進んで行く。
さんさんと降り注ぐ太陽が、平和な午後の風景を、より平和でのどかなものに見せていた。
「ミサトさん、遅いね」
「葛城さん、けっこう要職だし・・・・・・・・」
「関係ないわよ。ミサトが何かの役にたってる訳ないわ」
シンジ、レイ、アスカがテーブルを囲んで口々に言う。
テーブルの上には、和洋様々な料理が並んでいた。ちなみに現在テーブル上に並んでいる料理は、
全てシンジの調理によるものである。オーブンの中で待機しているエビグラタンが、アスカが作った
唯一の料理、冷蔵庫で冷やされているジュースとビールが、レイの提供による物であった。
「もう食べちゃおうよ」
すでに30分位前に痺れを切らしているアスカの言葉に、シンジも頷いた。
「そうだね。ミサトさんの分をちょっと残しておけばいいよね」
シンジは椅子から立ちあがり、オーブンのスイッチを入れた。前面のデジタル表示が、「予熱」と
切り替わる。
「それじゃ」
椅子に腰掛けたシンジの言葉に合わせるかの様に、皆が手をパチンと合わせる。そして三人は、
互いの表情に目をやってから、まるで示し合わせたかのように、息を合わせて声を出す。
『いただきます』
その言葉を合図にするかのように、三人の子供たちは箸を手に取り、料理と格闘しはじめた。
「うわ、これ美味しいよ」
レイは魚料理を一口、口に含んでから、感嘆の声をあげた。
焼き茄子に醤油をかけながらシンジはちらっとレイの手にしている皿に目をやる。皿の上の赤い
ソースがかかっている。それを見てシンジは、
「あ、それは鱈のトマトソース煮かな」
と言う。
そのシンジの言葉を聞いて、アスカはサラダボウルからサラダを取り分けていた手を止める。
そして心配そうに眉根をきゅっと寄せた。
「鱈?」
「そう。鱈を軽く焼いてから、トマトソースで煮たんだけど」
焼き茄子を口に運びながら、シンジは答える。口の中の焼き茄子の香ばしい香りが心地よい。
だが次にアスカが口にした言葉が、シンジの口中の味覚をどこかにふっ飛ばしてしまう。
「鱈って冬の魚じゃなかったっけ・・・・・・・・」
その言葉に、シンジは箸を口に突っ込んだまま、レイは箸で鱈の身をつかんだまま、硬直した。
「確かにそうだけど・・・・・・・・冷凍庫にあったのを使ったんだ・・・・・・・・・・・」
シンジの表情が不安そうなものになる。
レイの箸は、鱈の身をつかんだまま空中で静止している。
「・・・・・・・・でも、多分、ミサトさんが買ってきたんだよ」
自分の不安を吹き飛ばそうとするかのように、シンジはそう言う。
「でも、ミサト、1年前の封が切られた漬物を、冷蔵庫に入れっぱなしにしてたのよ」
アスカは不安を増幅するような事を口にする。それを聞いたレイの箸から、ポトリと鱈が落ちた。
その音を合図にするかのように、再び三人の間に沈黙の時が流れる。
その沈黙を破ったのは、珍しく、自信ありげなシンジだ。
「だいじょうぶ。冷凍焼けしてなかったから。だいじょうぶ。」
その言葉を聞いて、レイは止めていた端を下ろして、鱈の身をつかむと口に運んだ。
心配そうにレイの様子を見ていたアスカに、レイは、口の中の物を飲み込んでから声をかける。
「だいじょうぶだって。碇くんがそう言ってるんだから。」
それでも無言のアスカに、レイは、耳元に口を近づけて小声で囁く。
「・・・・・・・碇くんが、大丈夫って言ってんのよ。アスカが信じないでどうするのよ」
「それとこれとは関係ないわよ」
自分の目の前で繰り広げられる女の子同士の内緒話の様を見て、シンジは首をかしげる。
「・・・・・・・・味付け、まずかったのかなぁ・・・・・・・それとも、やっぱり鱈が・・・・・・・」
シンジはそう思い、恐る恐る、二人に声をかける。
「あの・・・・・・・・なんか、味がへんだったかな」
それを聞いて、下を向いてレイとボソボソと会話をしていたアスカが、機械仕掛けの人形の様に
ピョコンと頭を上げた。
「そそそそそんなことないわよっシンジが作った物なら、何でもおいしいわよ」
その様子を見て、レイは小さく笑い、シンジには聞こえないような小さな声でアスカをからかう。
「『シンジの作る物なら、なんでも』、ね。もうっ、見せ付けてくれるわね」
「あ・・・・・・う・・・・・・そんなんじゃ・・・・・・・」
アスカの狼狽とレイの悪戯っぽい顔の意味がよく判らないシンジは、とりあえず、味が変ではない
らしいという事だけを理解してほっとする。
そして忘れていたグラスと缶ジュースをとる為に立ち上がった。
「グラス・・・・・っと」
独り言を呟きながら、シンジは食器棚からグラスを取り出す。アスカ愛用の背の高いタンブラーと
自分用の艶消しガラスのタンブラー、そしてレイの為にはお客さんに出すタンブラー。
そしてテーブルにそれを置いてから、飲み物を冷蔵庫に求める。しかしながら、冷蔵庫の中には、
ミサト愛飲のビールの他には、飲み物は何もなかった。
「しまった・・・・・・・」
そこでシンジは初めて、スーパーで買い忘れてきた事に気が付く。スーパーを出た時に、「何か、
足りないな」と思いつつも、結局何だか判らなかった物、それがどうやらジュースであったようだ。
「その・・・・・・・・・・・・」
シンジはバツの悪そうな表情を浮かべたまま、まだテーブルでじゃれあっている(様にシンジには
見える)レイとアスカに、向きかえった。
「飲み物・・・・・・・・・・・買い忘れちゃった」
その言葉に、レイとアスカは急に真顔に返る。
「シンジ、なんにもないの?」
シンジは冷蔵庫を覗き込んだ。夏の空気と比べて、遥かにひんやりとした冷気が頬を撫でる。その
冷気を感じながら冷蔵庫の中を隅から隅まで調べ上げて。
「えっと・・・・・・ビールと・・・・・・日本酒と・・・・・・・・青汁」
報告してからシンジはパタンと扉を閉めた。母親のユイに「冷蔵庫の扉はこまめに閉める」という
事を教え込まれていた。
「几帳面なところは、両親似ね」と、シンジの母、ユイを知っているレイは思った。
「ホントにぃ?」
アスカはシンジを押しのけて、冷蔵庫を覗き込む。そしてごそごそと冷蔵庫の奥の奥まで探して。
「あった!」
振り返ったアスカの両手には、缶が一本ずつ握られていた。
「やあっぱり、アタシの探し方がいいのよね」
得意げにそう言って笑うアスカに、シンジは苦笑するしかない。
「そうだね」
と同意を示してから、シンジは椅子に戻った。
「・・・・・・・・でも、二本しかないわ・・・・・・・」
そのアスカの言葉を聞いて、レイは手を軽く横に振って、遠慮の意志を示す。
「あたし、いらないわ。スープあるし。あとでコーヒーでももらえばいいから。」
アスカを尋ねて葛城家によく出入りしているレイは、ミサトの秘蔵のコーヒー豆の在処を知って
いた。その場所を思い浮かべながら、レイは再び料理に口をつける。
その間にも、隣のアスカと向かいのシンジは、既に缶を開け、それぞれのタンブラーに中身を注い
でいた。桃の甘い香りが立ち込め、炭酸の弾ける軽い音が響く。
そして二人、アスカとシンジも、ジュースを飲んでから、再び料理に箸をつける。
だがレイは、その桃の香りの中に巧妙に隠れている、別の香りに気が付いていた。ジュースには付
いていてはいけない、香り。
『でも二人とも、何も言わないし・・・・・・・』
気が付かないはず、ないわよね、と思いながら、レイはテーブルに置かれている缶に素早く目を
走らせる。
『7%ALC』
アルコール含有を示す文字を見て、レイは頭を抱える。
そんなレイを見て、アスカがレイに向く。
「レイ、どうかしたのぉ?」
先ほどより明らかに朱に染まったアスカの頬を見て、レイは更に頭を抱えざるを得なかった。
それから30分後。
すでにアスカは、自分の部屋のベッドで寝ていた。
「弱い・・・・・・・・・弱すぎる・・・・・・・・・」
スースーと可愛い寝息を立てるアスカに毛布をかけてやりながら、レイは嘆息する。
「いっくらなんでも、たったあれだけ飲んだだけでこれじゃ、弱すぎるわよね・・・・・・・・・・」
レイは、アスカの部屋の電気を消して、音を立てないように襖を閉めた。
そしてリビングに戻り、空いた皿をキッチンへと運ぶ。
一応、夕食をごちそうになったわけであるし、片付けくらいはしていくつもりであった。
「さてと」
大体の空き皿を流しに運び、皿を洗う為に白いブラウスの袖をまくったレイに向かって、リビング
からシンジの声がかかる。
「綾波レイさん、かたづけなくても結構です」
そのシンジの声を聞いて、レイは酔っ払いがもう一人いた事を思い出した。リビングのソファーで
横になっているシンジは、しゃべり方も、一見普通である。しかし、レイの事を普段は「綾波」と呼ん
でいるのに「綾波レイ」とフルネームで呼ぶ所や、妙に丁寧な口調、そしてシンジらしくない饒舌さが、
シンジも酔っ払いの一員である事をレイに確信させていた。普段ならば、シンジの方から会話の口火を切
ることなど、まずない。
「でもさぁ、変だと思わない?」
唐突に話を変えてきたシンジに、レイは、半分上の空で相づちを打った。「これは、明日になったら
覚えてないんだろうな」と思いながら。
「なんでさぁ、みんなアスカのこと、性格悪いとかいうのかなぁ」
そのシンジの言葉に、レイは驚きを隠せない表情で、皿を洗う手を止めてリビングのソファーで横に
なっているシンジを見る。シンジは目を閉じたまま、続ける。
「そんなことないのにねぇ。まあ、ちょっとキツイところあるけど」
レイは完全に手を止めた。早く洗わないと、洗剤で肌が荒れそうだが、そんなことはどうでもいい。
普段、なかなか自分の思っている事を言わないシンジが、酔っ払った勢いでとはいえ、自分の内面を
喋っている。聞いておかない手はなかった。
「そうね。」
話の勢いを遮らないように、レイは相づちを打った。
それに乗せられたかの様に、シンジの言葉は加速していく。
「大体、みんな、アスカのこと『可愛い』とかって外面だけで、どうこう言ってないでさあ、もっと
内面でもいいとこ沢山あるのに・・・・・・・・・・・・どこがって言われると困るけど。どことは言えないってこ
とはぁ、全部ってことかなぁ・・・・・・・・・・・・・」
そこまで言ってから、暫く黙り込む。
「もう寝たのかしら」とレイが思った頃に、再びシンジは口を開いた。あいもかわらず目は閉じたまま
である。
「・・・・・・・・・・・でも・・・・・・・・将来、アスカのお婿さんになる人って・・・・・・・・」
レイは流しの所から耳をそばだてた。もうシンジは寝る寸前である。途切れ途切れに、聞こえるか聞こ
えないかという音量の声である。
「・・・・・・・・・・・・羨ま・・・・・・・しいな・・・・・・・・・」
それだけ言うと、シンジは規則的な寝息をスースーと立てはじめた。
それを確認して、レイは大きくため息を吐いてから、皿洗いを再開する。
「鈍感にも程があるわね・・・・・・・・・・・・」
暫くの間、葛城家にはレイが皿を洗うカチャカチャという音だけが響いていた。
「まあでも・・・・・・・・・」
やっとの思いで皿洗いを終えたレイは、タオルで手を拭いてから、棚の奥深くからコーヒー豆を取り
出し、コーヒーメーカーをセットしてから椅子に腰を落とした。そして一人呟く。
「羨ましいってことは、アスカにとってはいいこと、か。」
その言葉に被せるかのように、玄関のドアがバシュッというエアの音を立てて開いた。
「遅くなってごめんねぇ」
NERVから帰宅したミサトであった。いつもよりもさらにお気楽そうな声を上げてリビングに入ってくる。
当然、アスカ、シンジ、レイの3人がいると思っていたミサトの目に、レイだけが片づけられたテーブ
ルに腰を下ろしているのが映る。隣には、コーヒーメーカーが蒸気を吹き上げているだけであった。
「あれ、シンちゃんとアスカは?」
疑問を投げかけるミサトに、レイはいきさつを簡単に説明した。
「へぇ。シンちゃんもアスカも駄目だったんだ。お酒。」
ミサトの記憶では、シンジの両親、アスカの母親ともに、アルコールに対してそんなに弱い事はなかった
はずであった。
「まあ、親が飲めるから子も飲めるってわけじゃあないわよね」
そう言いながらミサトは、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。タイミングよくレイが、コップを差し出す。
「あ、悪いわね」
コップを受け取ったミサトは、泡を立てながらビールをコップに流し込んだ。周囲にホップの香りが広がる。
そのホップの香りを打ち消そうとするかのように、コーヒーメーカーからも、コーヒーの香ばしい香りが
広がりはじめた。その香りを鼻に感じて、ミサトはレイを軽く睨む。
「あたしのコーヒー豆の在処をレイが知ってる理由、そのうち確かめる必要がありそうね」
笑みを浮かべてレイを睨んでいたミサトであったが、急に顔の表情を暗くする。
それを目にしてレイは、不思議そうに首を傾げた。いつもお気楽極楽をモットーに生きている人物が、暗い
表情をするなど、不思議以外の何者でもない。
「どうかしたんですか?」
ミサトは問い掛けるレイの紅い瞳をちらっと覗いてから、コップに注いだビールを一気に飲み干した。そして、
返事を待っているレイを待たせたまま、冷蔵庫までビールを取りに行った。
引き返してきたミサトの手には、3本の缶ビールがつかまれていた。
その数にレイは、「長くなるかな」と感じ、手元にコーヒーメーカーを引き寄せる。
「実はこの間、シンジ君のお母さん、知ってるわよね、ユイさんから電話があって・・・・・・・・・」
渋い表情でビール缶のプルトップを引くミサトを見ながら、レイは、自分の直感が当たっている事に気が付いて
いた。
「それはさぁ、ユイさんの言いたい事はわかるのよねぇ」
既にテーブルにはビールの空缶が3本並んでいた。
コップの縁に綺麗に盛り上がったビールの泡を眺めながらミサトは言葉をつなぐ。
「でもさあ、シンジ君の・・・・・・・・ていうか、アスカの気持ちを考えるとねぇ・・・・・・・・・」
はぁ、とため息を吐くミサトの後を受けてレイが口を開いた。
「言いづらいですね・・・・・・・・・・」
「なんていうか・・・・・・・二人の関係ってさぁ、泡が膨らむみたいだったじゃない」
いつものおちゃらけた表情を押し殺したまま、ミサトは、口をつけることなくビールの泡を眺めている。
「まあ・・・・・そうですね」
シンジとアスカが始めてあったのは、わずか4ヶ月ほど前の事でしかない。それにしては、二人は結構仲が
いい。確かに、ミサトの言うように「バブル」的であるのかもしれなかった。
「泡は・・・・・・・・・はじけるのよね」
グラスの中の泡を人差し指で突つきながら、ミサトは言った。ミサトの指の動きに合わせて、ビールのきめ
細かい泡は、弾け飛んで消えていく。
「・・・・・・・・・・・でもきっと」
紅い瞳はビールグラスの中で徐々に消えていく泡に固定したまま、コーヒーカップを唇から離して、レイ
は薄紅色の唇をゆっくりと開く。
「大丈夫・・・・・・・・ですよね・・・・・・・・・・うん。大丈夫。」
レイは自分の「大丈夫」という言葉が、かなり希望的観測であることに気が付いてはいた。もちろん、ミサト
も気が付いてはいただろう。だからこそ、レイの言葉に、何も返してはこないのだ。
無言で、レイはコーヒーを啜り、ミサトはビールの泡をなめるようにして飲む。
背後のリビングからは、シンジの穏やかな寝息だけが聞こえてくる。
ややあって。空になったコーヒーカップをテーブルにおいて、レイが立ち上がった。
「じゃ、あたし、そろそろ帰ります」
鞄を持ってレイは玄関へと向かう。
ミサトもグラスを置いて、レイの後に付いていった。
「レイ、悪いんだけど、この分じゃ二人とも遅刻確定だろうから、先生に言っといてくれるかしら」
「あ、わかりました。適当に言いつくろっておきます。」
靴を履きながら、背中越しにレイは答える。
「じゃ、おじゃましました」
礼儀正しくお辞儀をしてから、葛城家を辞そうとするレイの背中に、ミサトが声をかけた。
「レイ」
「はい?」
振り返ったレイの顔に、厳しいミサトの表情があった。
「今日の話、他言は無用よ」
「判ってます」
「それと」
少しの間言いよどんでから、ミサトは言葉を続けた。
「もし・・・・・そんなことになったら、あなた、家にこない?部屋は・・・・・・大丈夫だし。そうすれば、少しは、ね」
目をパチパチさせながらレイはミサトの顔を覗き込む。レイはミサトの表情に、妹を案じる姉の
姿を感じ取っていた。
「そう・・・・・・ですね」
軽く肯いてからレイはドアの向こうに出た。それから、後ろを振り返って言った。
「でも、そうならないことを祈っています。それじゃ」
レイはもう一度クルリと向きを変えて歩き去っていった。
少しの間を置いてから、玄関のエアロックが軽い音を立てて閉じられる。
その向こうで、規則正しく遠ざかっていく足音を聞くとは無しに聞きながら、ミサトは壁に身を預けた。
「祈っています、か」
レイの言葉を反芻して、ミサトは苦笑する。
「まあ、確かに、レイの言う通り、祈るしかないのね」
神も仏も信じていないミサトではあったが、今日ばかりは、誰でもいいから自分の願いを聞いてくれる
ように祈りたい気分であった。
そんなミサトの気分も飲み込んで、夏の夜は徐々に更けていった。
終劇