第六話  


『Hausaufgaben(1)』

邦題 : 宿題(1)

 

  最近世界中で、生態系の異常が問題となっている。
その際、必ず引き合いに出されるのが、セミの異常発生である。この第三新東京市においても、セミ
が異常発生して大問題となっている。5月頃から鳴き始めて、7月の今でも元気に鳴き狂っているのだ
から、これを異常発生と呼ばずしてなんと呼ぼう。
どうやら地球環境は、悪い方向へと少しづつ変化しているようだ。


しかし、セミが大発生しようがしまいが、一般市民の日常には何の変化ももたらさない。
ここ、第三新東京市立第壱中学校でも、いつもと何ら変わりの無い日常風景が繰り広げられていた。



中学生にとって唯一の楽しみと言ってもいい、昼食の時間である。
この時間になると、さっきまで眠そうであった生徒でさえも目が生き生きして、元気になる。教室は
そんな生徒達の喧燥で満ちていた。
しかし、鈴原トウジの大きな地声は、そんな喧燥をいとも簡単に切り開く。
「おうおう、碇夫婦は今日も仲がええのお。」
その声は、シンジとアスカのお弁当を見ての感想だ。
シンジとアスカのお弁当箱は、シンジが黒、アスカが白の色違い。お弁当を包んであったハンカチに至って
は、お揃いである。これでは、トウジならずとも「夫婦」と言いたくなるであろう。
「うっさいわね!だーれが夫婦だってのよっ!」
バチーンという音を立てて机を叩き、頬を紅く染めてアスカは立ち上がった。
「怒るのは勝手だけど、そんなに顔が紅くちゃ、『碇君が大好きよ』って宣言してるようなものよね。」
レイはそう思うが、鈍感さではシンジと双璧をなすトウジは、そんなことには気が付きはしない。
弁当を食べる手を止める事さえ無く、なんの迷いも無く、トウジは言い切る。
「だれがって・・・・・・・碇と惣流の事にきまっとるやないか・・・」
その言葉を聞いて、横で一緒に弁当を食べていた相田ケンスケは、食べかけのコロッケを口にしたまま
硬直した。
トウジは、思ったままを言っただけなのだろうが、それは口にするべきではない一言だ。
コロッケはそのままで、首をそーっと回してみると、アスカは立ったまま、無言で肩を震わせている。
「や・・・・やば・・・・・」
ケンスケは静かに、誰にも気が付かれないように、少しずつ机をトウジから離していく。
そんな事には全く気づかずに、トウジはあっという間に弁当を平らげ、片づけながらこう言った。
「ふーっ・・・・弁当はうまい・・・・・まずい・・・」
なんだか訳の分からない言葉だが、最初の「うまい」は弁当の事、「まずい」は自分の置かれた状況
の事を表しているのだろう。
どうやら、やっとトウジもこの期に及んで、地雷を踏んでしまった事に気が付いたようである。
教室の生徒たちも、アスカが怒っていそうなことは判ったが、知らん振りをしている。
アスカが誰かと大騒ぎするのはいつもの事だ。だがそういう時は、たいてい本気で怒っている訳ではない。
 むしろ、今のように無言の時ほど恐ろしい。誰もが、変に口を出してとばっちりを受けたくはないのだ。
だがみんな、怖いもの見たさで、何気なくアスカたちの方に注意を集中させている。
そうこうしているうちに、アスカの怒りは爆発への秒読みに入っていた。
「いいんちょ・・・・なんとかしてくれ・・・・・・」
トウジが隣で澄ました顔で弁当を食べているヒカリに、小さな声で応援を求める。
「いや。」
あっけなく断られた。
ヒカリは、ここまで来たらアスカを止められる人間は誰もいないと思っている。
いつもなら、こういう時に止めに入るヒカリに断られて、泣きそうな顔で、今度はレイに助けを求めた。
「綾波・・・・・頼む・・・・・・」
手を合わせて拝まれたレイは、何も答えず、卵焼きを口に運んだ。
もっともレイは、ヒカリのように「処置無し」と思っている訳ではない。卵焼きを食べたかったから、返事
をしなかっただけだ。
卵焼きを「こくん」と飲み込み、レイはちらっと横を見た。
「こんな時は碇君が・・・・・・」
レイが、アスカを止められるのは、シンジただ一人だと思っている。だがシンジは、自分の周りで起きている事など気が
付かないかのように、のんきにお弁当を食べていた。
「だめだこりゃ・・・・・・・」
レイはシンジの様子を見て、アスカの怒りを抑える事をあきらめ、再びお弁当に注意を集中した。黙っていれば、被害を受
けるのはトウジただ一人ですむ。
レイの表情から、レイもアスカを止めてくれなそうな事に気が付いたトウジは、覚悟を決めた。
「俺も男や!・・・・・・女になりたいのう・・・・・・」
随分と弱い決意である。
なにはともあれ、トウジが、アスカの怒りを受ける決意を固め、アスカも今まさに怒りを爆発させようと
したその時。
「がらがらっ」という音を立てて、教室のドアが開いた。
そこには、学校の女性事務員が立っていた。
「碇シンジ君と、惣流・アスカ・ラングレーさん。先生がよんでます。職員室まで来なさい。」
その言葉を聞いて、教室がざわめく。
「あの・・・今すぐですか?」
突然の呼び出しに、ついさっきまでの怒りなど忘れたかのような表情で、アスカが尋ねる。
「今すぐにって、おっしゃってたわ。先生、随分と機嫌悪そうだったから。」
事務員は、そっけなく言う。昼食の途中で雑用に出されたので、この事務員も機嫌が悪い。
「わかりました。今、行きます。」
アスカの丁寧な受け答えに満足したように、事務員はドアを閉めて去っていった。
「じゃ、行くしかないわね。」
 そう言ってアスカは、手早く食べかけのお弁当をしまい始める。
 そんなアスカに向かって、ヒカリは、何か呼ばれるような覚えがあるのかと尋ねた。
 「優等生のアタシが、怒られるわけないでしょ!」
 不機嫌そうにアスカは答える。呼ばれたことが心外なようだ。
 しかし、言葉とは裏腹にアスカは、怒られそうな理由を、優秀な頭脳をフル回転させながら考えていた。
 「来ないだ、ミサトがNERVの警備員を使ってアタシとシンジを探し回った事は・・・・学校に内緒
のはずよね・・・・こないだ夕ご飯のときにビールを飲んだけど、そんなこと判るわけないし、・・・・
ずっと前に酔っ払いを蹴り倒したことかな・・・・でも、今ごろそんなことが問題になるわけないか。」
 随分と数多く、怒られそうな事を抱えているものである。
 「それにしても、シンジも一緒ってぇのが引っ掛かるわよね・・・・・どう思う?」
 弁当をかばんに放り込みながら、レイに意見を求める。
 「ま、考えててもどうしようもないし・・・・・行ってみれば判るわよ。」
 レイは、食後の缶ジュースをカバンから取り出しながら言った。
 「それもそうね。じゃ、シンジ、行くわよ。」
 「ちょっと待ってよ・・・・もうすぐ食べ終わるから・・・・」
 ミニトマトなど口に放り込みながら、シンジは呑気にお弁当を食べ続けていた。
 きびきびと行動することを常とするアスカにとって、シンジのマイペースぶりは気にかかる。
 「アンタばかぁ?今すぐ来いって言われたのよ?早くしなさいよ!」
 アスカのイライラした状態など気が付かずに、シンジはゆっくりとリンゴを食べ始める。
 「もぉぉぉぉ!じれったい!」
 そう叫ぶと、アスカはシンジの手から弁当箱を引ったくり、残っていたリンゴを全部食べてしまった。
 「リンゴが・・・・・・・」
 恨めしそうにシンジはアスカの顔を見上げるが、アスカはそんな事お構いなしに、最後のリンゴを飲み込んで、シンジ
の手をつかんで立ち上がらせる。
そんな二人を見て、今まで沈黙を守っていたトウジが再び口を開いた。
 「うっわー。おんなじ弁当喰うとは、さっすがに夫婦もんは仲がええのぉ。」
 アスカの怒りから逃れられたという安心感からか、再び地雷を力一杯踏み付ける。
 見る見るうちに、トウジの顔は青くなっていく。
 「バカたれ・・・・・・・」
 レイは頭を抱え込んだ。
 アスカが怒鳴り散らす一歩手前という超グッドタイミングで、アスカとシンジが呼び出され、アスカも
とりあえず怒りを収めた。職員室に行って帰ってくれば、もう大して怒っていなかっただろう。
 しかし、すべては「だろう」の世界となっていた。隣では、既に、紅い顔のアスカが口から泡が飛びそうな勢
いでトウジに食ってかかっている。
 「アンタバカ?何で、このア・タ・シが、このバカシンジと夫婦にならなきゃなんないのよ!シンジなんか、
だいっきらいなのよ!大体アタシは、昔っからあんたのお調子もんなところも大っ嫌いだったのよ!・・・・・」
 長くなりそうな気配が漂っている。
 「碇君が『職員室に行かなきゃだめだよ』とでも言って、アスカをつれていってくれないかな・・・・・」
 レイはそう思って、シンジの方を見るが、シンジは完全に観戦モードに入っている。
 「だめだ・・・・・」
 仕方がないので、レイは、とりあえずアスカに職員室へ行って頭を冷やして来てもらうことにした。
 「ねえ、アスカ・・・・・」
 口を開いたその刹那。
 レイの右側で、
 「いいかげんにしろっ!」
 という声と、「ごふっ」という大きな鈍い音が響いた。
 その音に、教室全体が静まり返り、音のした方向に視線が集中する。
 音源には、ヒカリのげんこつを顔面に受けた、トウジの姿があった。
 あまりに意外な光景に、誰も口を開けない。さっきまで怒鳴り散らしていたアスカでさえ、口をぽかんと開けた
まま、ヒカリとトウジを見ている。
 数秒の沈黙の後、
 「ナ・・・・ナイス・・パンチ・・」
 それだけ言うと、トウジは、椅子ごと後ろにひっくり返った。
 それを見届けるとヒカリは、埃を払うかのように、手をパンパンと叩いた。その目は、明らかにすわっている。
そして、まだ口の聞けないアスカに向かって、
 「さ、アスカ。うるさい敵は葬ったわ。心置き無く、職員室に行って来てね。早くしないと・・・・・どうなるか
アスカなら、わかるわよね?」
 と言った。
 さっきよりもさらに目が危ない。
 「そ、そうね。シンジ君、早く職員室に行って来ましょ。」
 切れたヒカリの恐ろしさに、よほど驚かされたのだろう。声は裏がえっているし、シンジの事を「シンジ君」などと、
シンジに出会ってからこれまでに一度も呼んだことのない呼び方で呼んでいる。
 シンジの驚きも並大抵ではない。アスカよりはずっと常識があって、おとなしいと思っていたヒカリが、切れると
いきなり手がでるとは思っても見なかった。
シンジの記憶によれば、アスカは口は悪いが、絶対に手は出さない。
 「これじゃ、アスカよりたちが悪いよ・・・・・」
 心の中でシンジは呟くが、今は嘆いている場合ではない。さっさと職員室へ向かわないと、トウジと同じように、
ヒカリのパンチに撃沈されてしまう。
 「はは・・惣流さん・・・職員室へいこうか・・・・・・」
 シンジの言葉に、アスカはこくこくと人形のように首を縦に振る。
「じゃ、行ってくるわね・・・・・」
 「行ってらっしゃーい!」
 明るいヒカリの言葉を背中に聞きながら、アスカとシンジは、ヒカリから逃れるために、いまだ静まり返っている
教室を後にした。




「それにしても、ヒカリが切れるとああなるとはね・・・・・気をつけないとね。」
 職員室へ向かう廊下を歩きながら、アスカはシンジに言った。
 「そうだね」
 アスカの隣を歩いているシンジも同意する。
 「それにしても、なぁんで、あたしたちが職員室に呼ばれるのかなぁ?シンジ、わかる?」
 アスカには、全く判らない。
 「そうだっ!」
 シンジは、ポンと手を叩いて立ち止まった。
 「なに?なにか、呼ばれる原因がわかった?」
 アスカには怒られるような覚えはないが、それでも何で呼ばれたのか判らないまま職員室へ入るのと、呼ばれる
原因が判った状態で職員室へ向かうのでは、気分が違う。
 「あのさ・・・・・」
 そう言って、シンジはアスカの顔をのぞき込む。
 真っ正面からシンジに見つめられて、アスカはちょっとだけ恥ずかしい。
 「アスカって・・・・・・・・・そんなに僕と夫婦になるの、イヤ?」
 廊下の真ん中で、二人の間に沈黙の時間が流れる。
 シンジはただ、「夫婦」と呼ばれた時に、アスカが自分の事を「大っ嫌い」と言ったので、「そこまで嫌われてるの
かな」と思い、自分の事が嫌いなのか確かめようと言う意味だけで、「夫婦になるの、イヤ?」と聞いたのだ。
 しかしアスカは、文字通り夫婦になる、という意味にとっていた。
      「あれは、将来とアタシが夫婦になるのが言葉のあやで無くて、ただ、シンジは嫌ってわけじゃ・・・・」
 唐突なシンジの言葉に、今までとは比べ様もないくらい真っ赤になってしまったアスカは、あたふたと意味もなく手を
振り回しながら、意味のつながらない言葉を繰り返している。
 そんなアスカの様子を見ながら、シンジは言葉を続けた。
 「その、本当に夫婦になるってことじゃなくてさ、トウジにからかわれたくらいでそんなに怒るなんて、僕のことが嫌い
なのかな、と思って・・・・」
 ここにレイがいたなら、
 「この鈍感・・・・・」
 と唸って、頭を抱えてしまったに違いない。
 あの状況で、「僕って嫌われてるかな?」という疑問が浮かぶよりは、「僕のことが好きなのかな?」という疑問が、普通
の男の子なら浮かぶ事だろうから。
 シンジの言葉を聞いて初めて、アスカは自分の勘違いに気が付いた。
 「・・・・・アタシがシンジの事が嫌い・・・・・」
 勘違いしていた事を悟られないように、落ち着いた表情を取り繕い、下を向いて考え込む振りをする。。
 もちろん、考えるまでもなく、アスカがシンジのことを嫌いなはずはない。
 嫌いでないというよりは、大好きだ。
 「嫌いじゃない・・・・っていうより、『だいすき』って言っちゃおっか・・・・」
 アスカはちらりと横目でシンジの表情をうかがう。
 シンジは、心配そうな顔をして、アスカを見ている。
 アスカは迷った。
 迷いに迷ってから、アスカは顔を上げた。
 シンジ顔をまっすぐのぞき込み、いつもの口調で言った。
 「べつにシンジの事が嫌いなわけじゃないわよ。あれは、言葉のあやよ。大体、いっつも弁当を作ってもらってるのに、嫌い
になるわけがないでしょ。」
 アスカは結局、『だいすき』とは言えなかった。
 「よかった。嫌われてたらどうしようかと思った。」
 シンジは安心したようだ。
「ま、今日は『だいすき』なんて言わなくてもいいわ。どうせ、『だいすき』っていったって、鈍感シンジは、意味なんか
判ってくれないだろうし。いつか、あっちから言わせてやるわ。」
 シンジの顔を見ながら、アスカは自分で自分に言い訳をする。
 「くだらないこと言ってないで、職員室に行きましょ。先生が待ちくたびれてるわよ。」
 そう言ってから、シンジのおでこを指でパチンと弾き、アスカは再び廊下を歩き出す。
 「そうだよ。早く先生のところに行かなくちゃ。」
 思い出したようにシンジもすたすた歩き始めた。
 職員室のドアの前に到着すると、
 「じゃ、先にシンジが職員室に入ってね。」
 後ろから付いてきたシンジを、アスカは扉の前に立たせた。
 「そんなぁ!いっつも、こういうときは僕が先に入るんだから、たまにはアスカが入ってよ!」
 珍しくシンジが抵抗する。
 「アタシは呼び出される覚えなんかないの!となれば、シンジがメインで怒られて、アタシはおまけってことでしょ!
 こういうときは、メインで怒られるあんたが先に入るのが、常識ってものよ!」
 シンジの目の前に指をピシッと突き付けて、アスカは宣告する。
 いつもならこれで決着が付くのだが、今日はシンジも負けていない。
 「僕がメインかなんて、判らないじゃないか!この間、『アタシのきれいな髪につけるのにぴったりね』って言って、
駅前の花屋の花を一本折ったのがばれたのかもしれないよ!」
 「そんなことは、あんたが口を割らなきゃ、絶対にばれてないわよ!」
 しだいに言い争いは、「どちらが先に職員室に入るか」という元の目的からは逸脱していた。
 果てしなく続くかと思われた言い争いも、職員室のドアの開く音によって遮られた。
 「うるさぁあぁぁぁぁい!」
 さっき教室へシンジとアスカを呼びに来た事務の女の人だった。
 「遅い上に職員室の前で大騒ぎとは・・・・・・・さっさと入りなさい。」
 シンジとアスカは、事務員にほっぺたをつねられたまま、職員室に引き込まれた。



 学生の少ない楽しみの時間、昼休みはまだ始まったばかりだった。




続劇



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