第壱拾七話  


『Suppe(4)』

邦題 :スープ(4)

 

「ただいまぁ」
葛城家の玄関に、この家で葛城ミサト、惣流・アスカ・ラングレーと同居生活を送っているシンジの
声が響いた。
「あ、碇くんが帰って来たみたいね。」
その声を、部屋で世間話をしていたアスカとレイが聞きつける。
「まずいっ・・・・・レイ、アタシは寝てたって事にしといてね。」
アスカはシンジが帰ってきた事に気がつくや否や、慌てて布団の中に潜り込んだ。そして、ご丁寧に
も目を閉じて、静かな寝息を立てはじめる。タヌキ寝入りであることは言うまでもない。
さっきまで自分と話し込んでいたアスカが、急に寝たふりを始めたのであっけに取られたような表情
を隠す事ができない。
「アスカ・・・・・・・なにやってんの?」
「寝たふり」
レイの問いかけに、アスカはタヌキ寝入りを続けたままで、そっけなく答えた。
「なんで寝たふり・・・・・・・?」
なぜシンジが帰って来ると、寝たふりを始めるのか、レイにはその理由がさっぱり判らない。
「風邪ひいてるのに、おとなしく寝てないと、きっとシンジは怒るから・・・・・・・・」
目を閉じてはいても、口調からレイの疑問が判るのであろう。アスカはやっぱり寝たふりを続けなが
らも、レイの疑問に答えてやる。
「ふぅん・・・・・・大好きな碇君を心配させるの、嫌なんだ・・・・・・」
ポンと手を叩きながら、レイは一人で納得している。
「そそそそそそんなことないわよっ!おとなしくしてるのは、義務がアタシの風邪の原因で・・・・」
がばっと起き上がって、口角泡を飛ばす勢いで、レイの言葉に反論する。威勢だけは、風邪を引いて
るなどとは決して思えないほどにいいのだが、いかんせん中身は目茶苦茶である。
「何が言いたいのか判らないわよ」
とレイが言おうとしたその時、アスカの部屋のふすまががらりと開けられる。
そこに立っていたのは、呆れた様な表情のシンジであった。
「あ、綾波、来てくれたんだ。」
シンジはレイに軽く笑いかけてから、表情を引き締めてアスカの方へと向き直る。
「アスカぁ・・・・・・・・風邪をひいたときくらい、おとなしくしてなきゃ駄目だよ・・・・・・・」
シンジの呆れた表情の中には、「それだけ騒げるんだったら、風邪も大丈夫かな」という安堵の表情
が見え隠れしていた。
「碇くん、ホントにアスカの事が心配だったんだな・・・・・・」
シンジの表情からレイはそのことに気付く。
だがアスカはその事に気がつかなかったようだ。
「碇くんの事を『鈍感』なんて言ってるけど、アスカもある意味、鈍感よねぇ・・・・・・」
表情は変えないが心の中では嘆息しているレイの横で、アスカは口を尖らせていた。
「だって、アタシ、大丈夫だもん。熱だって下がってるんだし・・・・・・・・」
「熱が下がったのは、薬が効いてるからだよ。これ以上ひどくなったら、どうするんだよ。」
シンジは依然として心配そうな顔を崩していない。顔色が心持ち悪いのは、アスカが風邪をひいた事
による心労のせいであろうか。
だがアスカは、シンジの心配の気持ちなど知らぬかのように、お気楽に笑った。
「バカねぇ、だいじょーぶよ、そんなに心配しなくたって。」
と、その声を聞いて、シンジは珍しく大きな声を出した。
「なに言ってるんだよ!アスカの事が心配だから言ってるんじゃないか!」
シンジが大きい声を出すのは、本当に珍しい事である。レイはシンジとかなり前からの知り合いである
が、そのレイにさえ、シンジが大声を出した記憶など殆ど無い。ましてや、シンジとの付き合いの浅いア
スカにとって、シンジに怒られるなど初めての経験であった。
アスカの表情は最初は驚きだけであった。だが次第にアスカにも、シンジが本当に自分の事を気遣って
くれていることが判ってきた。
それにつれて、シンジに対してすまないという思いが沸き上がってきた。
「シンジ、本当にアタシの事、心配してくれてたんだ・・・・・・・・それなのにアタシったら「バカ」なんて
言っちゃった・・・・・・・・」
こういう時に、どんな言葉をシンジに言えば良いか、アスカにだって判っている。「ごめんね」と一言
言えば、それでいいのだ。
「シンジ・・・・・・・その・・・・・・・・」
だが頭では判ってはいても、なかなか「ごめん」の一言は出てこない。
「早くいわなきゃ」
という意思だけが空回りしていた。
実際には数秒間の沈黙でしかなかったのだろうが、二人の間に座っているレイには、非常に長い時間に
感じられた。沈黙の重さに耐え切れないかの様に、レイは口を開く。
「えーっと・・・・・・・」
だがその言葉は、意外にもシンジの声によって遮られた。
「その・・・・・・アスカ、ちょっと言い過ぎたよ。ごめん。」
さっきはアスカを心配するあまりに、つい我を忘れて怒鳴ってしまったが、良く考えれば、アスカだっ
て自分に余計な心配をかけないようにと気遣って、「だいじょーぶよっ」などと軽く言ってくれたのだろ
う、シンジはそう考えていた。
どうやら素直さの点では、シンジの方がアスカより優れていたようである。
謝らなければと思っている内にシンジに先に謝られてしまい、慌ててアスカも言葉を紡ぐ。
「えっと・・・・・・・・アタシも悪かったわ。シンジがそんなに心配してくれてたなんて判らなかったから
・・・・・・・・『バカ』なんて言って、ごめん」
アスカはそこでぺこりと頭を下げた。
「やれやれ、やっと謝ったわね・・・・・・・」
アスカにとって一番大切な事は、もうちょっとだけ素直になることだとレイは思った。
「さてと・・・・・・・」
レイは壁にかけられた振り子時計を見る。時計の針は、六時を指していた。
そろそろ帰るのにはちょうど良い時刻に感じられて、レイは椅子から腰を浮かす。
「じゃあ、私はそろそろ帰るね。」
レイはアスカの部屋を出て、ダイニングキッチンに向かった。テーブルの上に載せておいた鞄を手にして、
玄関に向かおうとする。
「レイ、どうせなら夕ご飯、食べていけばいいじゃない。」
レイとシンジの後を追って、アスカは自分の部屋から出てきた。白とピンクのストライプのパジャマの上に
白いカーディガンを羽織っている。
元気そうではあったが、明るいキッチンへ出てくると、やはりアスカの顔色はまだ、「全快」には程遠いも
のであった。
「そうだよ。食べていったら?」
アスカの言葉を受けて、シンジもレイを引きとめる。
「いいわよ。アスカにお邪魔になったら悪いし。」
玄関へと向かいながら、レイはくるりと振り返って、後ろから付いてきていたアスカの顔を覗き込む。その
顔には、悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
「二人で仲良くご飯を食べるのを邪魔したら悪い」
という意味で、レイは「お邪魔になったら悪い」と言ったのだろう。
アスカはレイの言葉の言外の意味に気が付き、顔を紅潮させる。
「別に、邪魔なんかじゃないわよ。」
顔を伏せたままアスカはそう言う。そして、ちらりとシンジの顔を横目で見るが、シンジは全く、レイの言
葉の意味に気が付きはしなかったようであった。
「そうだよ。どうせミサトさんもいないんだし、材料は余ってるから。邪魔なんかじゃないよ。」
シンジは既に靴を履き始めているレイを、夕ご飯を食べていく様に引き止めているが、その言葉が、「お邪
魔になったら悪い」というレイの言葉の裏にある意味を、全く理解していない事を物語っていた。
「やっぱり、アスカより鈍感かな・・・・・・・・・・」
自分の言葉の含意に気が付いたアスカと、気が付か無かったシンジを比べて、レイは、「シンジが鈍感だ」と
いうアスカの言葉の正しさを再確認していた。
「うーん・・・・・・・・・じゃあ、お世話になろうかな」
レイは結局、葛城家で夕食をご馳走になることにした。レイはアパートで一人で暮らしているので、家に帰っ
て、一人で夕食を食べるより、ここで食べたほうが楽しいのであろう。
「そう?じゃ、僕、スパゲティーを茹でてくるよ。」
レイが食べていくことになったのを確認すると、シンジはスタスタとキッチンの方へと歩いていった。
「ねえ、シンジ、今日の夕ご飯ってスパゲティーなの?」
レイが一度履いた靴を再び脱ぐのを見守りながら、アスカはキッチンにいるはずのシンジに呼びかける。
「うん、卵を買ってきたから、カルボナーラでも作ろうかなっと思ってるけど」
深い鍋になみなみと水を張り、コンロにかけながらシンジは答えた。
それを聞いて、アスカが碧い瞳を輝かせる。
「やった♪アタシの大好物じゃない♪」
そしてアスカは、嬉々とした表情を浮かべたまま、レイの方を振り返った。
「よかったわね、レイ。シンジの作るカルボナーラって、すぅぅぅっごく、美味しいんだから!」
「でも、風邪をひいてる人間の食べるもんじゃないわよねぇ。」
アスカと一緒にキッチンへと逆戻りしながら、レイはそう言う。
パスタ類は消化が悪いと言うわけではないが、どう考えても病人の食べるものではない。いくら体調が良く
なってきているとはいっても、アスカは風邪をひいているのだ。それなのに、スパゲティ・カルボナーラを
食べさせるとは、超の付くほどの心配症のシンジらしくない。
レイはそんな事を考えながら、アスカと並んでダイニングキッチンに入っていった。
すると何故か、シンジは収納棚から土鍋を出して洗っていた。
「シンジ・・・・・・・まさか土鍋でスパゲティーを茹でるつもりなの?」
怪訝そうな顔つきのアスカに、シンジはにこやかに笑って答える。
「まさかぁ。これは、アスカのお粥を作る為に使うんだよ。」
アスカの目が点になる。
「は・・・・・・今、なんて言ったの?」
シンジが何を言っているのか、理解できないはずはない。ただ、理解する事を頭が拒んでいるのだろう。
「だから、アスカは、卵とニラのお粥を食べるの。」
洗い終えた土鍋を布巾で拭きながら、シンジはそっけなく答える。
その言葉にかぶせるように、アスカは悲鳴をあげた。
「えぇぇぇぇぇぇぇぇ!なんでよぉぉぉぉ!」
そして米を米びつから取りだそうとしているシンジに詰め寄っていく。
「どうして、シンジ達はスパゲッティで、アタシだけ『ニラと卵のお粥』なんて貧乏くさい食べ物を食べな
きゃなんないのよぉぉぉ!」
「いや・・・・・・その、アスカは、風邪ひいてるから・・・・・・・」
眼前に迫ってきているスカの表情に恐れをなし、シンジは及び腰になっている。
「アタシ、いやよ。みんなと違うものを食べるのは。」
アスカは音を立てて椅子に座り、ぷいと横を向いた。どうしても、スパゲッティを食べるつもりらしい。
「困ったなぁ」
シンジは土鍋を抱えたまま、考え込んでいる。
「レイはどっちが正しいと思う?」
レイにとって、アスカとシンジのこの程度の言い争いはいつも見慣れたのことなので、丸っきりの傍観者
を決め込んでいた。いずれどちらかが、大抵はシンジの方が折れて決まるのだ。
だから、急にアスカに話を振られて困ってしまった。
レイにはアスカの気持ちも、シンジの気持ちも、どちらも判るのでなんとも言えなかった。
みんなと違うものを食べるのは、どこか寂しい気持ちにさせられる。だから、アスカがスパゲッティを
食べたいと言う気持ちは理解できる。
また、シンジがアスカだけに「ニラと卵のお粥」とやらを作るのも、風邪をひいたアス
カの事を気遣って
いるからに他ならないだろう。シンジの気持ちも、否定する事はできないものであった。
「どっちかって言われてもなぁ・・・・・・・・」
アスカとシンジのどっちかが折れなければ、夕食は出来上がらない。だから、どちらかの意見を支持しな
ければならない。食べさせてもらう身としては、「みんなでスパゲッティ」という選択に心惹かれるものは
あるが、やはりレイにはどちらが良いとも決めかねた。
「判ったよ」
レイの思考は、唐突に、シンジの声によって遮られた。
その言葉に、シンジの顔に二人の女性の視線が注がれる。
シンジはゆっくりと口を開いた。
「みんなで、同じものを食べた方が、美味しく食べられるよね。」




「まあ、確かに、同じ物を食べるんだけど・・・・・・・・」
アスカはテーブルの上に、準備された夕食をみて、情けなさそうに呟いた。
テーブルの上には、土鍋が3つ並んでいた。
「これなら、みんなと同じものが食べられるでしょ。」
エプロンを外して、シンジはアスカの正面の席に座る。レイは、アスカの隣に座っていた。
「頂きます。」
シンジは真面目にも手を合わせてから、土鍋のふたを取った。
中から白い湯気が立ち上り、それと一緒に良い香りも立ち上る。
シンジはレンゲで中身をすくい、パクパクと食べはじめる。しばらくして、ふと気が付いた
かのように、アスカとレイの方を見た。
「あれ、二人とも食べないの?お母さんから教えてもらった料理だから、味は確かだよ。」
アスカはレイと顔を見合わせた。「夕ご飯、食べていけば」と言っておいて、お粥だなんて、
それはないだろうと、二人とも思っていた。
「そこまで言うなら・・・・・・・」
食事に誘ってもらった手前、最初にレイがレンゲを手にする。やや遅れてアスカも渋々ながら
もお粥に口を付けた。
一口食べてからしばらくの間、沈黙の時間が続いた。
シンジは両手をぐっと握り締めて、二人の反応を見守っている。
しばらくたった後、レイとアスカはどちらからともなく顔を見合わせた。
「おいしい・・・・・・・・」
その一言をきいて、シンジの顔に満足そうな笑みが浮かんだ。




その後は黙々とお粥を食べ続けた3人が、次に言葉を発したのは10分位経ってからであった。
「ふぅ・・・・・・・おいしかったぁ」
満足そうにレイが言う。
シンジはそれを聞くと、「ありがと」と言って、皿を洗いはじめた。
「でしょ?まあアタシには及ばないけど、シンジの料理って、すっごく美味しいんだから。」
自分の事を自慢するかのようにアスカが得意そうに胸を張る。
さっきまで「ニラと卵のお粥」を「貧乏くさい」と言っていた事など忘れたかのようだ。
「男なのにこんなに料理が上手だと、結婚したときに、お嫁さんの立つ瀬がないわね。」
なにげなく言ったレイの言葉に、アスカは急に顔を紅くして下を向いてしまった。
「???」
レイには最初、アスカがなんで紅くなっているのか判らなかった。だが、しばらく経ってから
あることに思い至る。
「はっはーん」
レイはアスカの頭を軽く小突いた。
「碇くんの『お嫁さん』ってので、自分と碇くんの事を思い浮かべたんでしょぉ?」
シンジには絶対に聞こえないような小さな声で、アスカにささやく。
アスカは何も答えない。だが、沈黙はレイの言葉が正しい事を雄弁に語っていた。
「ま、自分に自信持ちなさいって。あたしも応援してるから。」
レイはアスカの頭を「ポンポン」と二回叩いてから、立ち上がった。
「ごちそうさまでした。あたし、そろそろ帰るね。」
皿洗いを続けているシンジに向かってレイは帰る事を告げ、玄関へと向かった。
アスカも見送りに玄関まで出てくる。
「じゃ、お大事に。」
「ありがとね。」
レイは見送るアスカに軽く手を振って、歩きはじめた。
だがすぐに立ち止まり、戻ってきてアスカの頭に手を置いた。
「強気なところが、アスカらしくて良いところなんだけど、たまには素直になった方がいいわよ。」
そう言うと、アスカの答えも待たずにレイは玄関を飛び出していった。
エアロックの閉まる「プシュッ」という音に雑音が混ざっている。恐らくエアシリンダの調子が悪
いのであろう。
だがアスカはそんな事に気が付きもせず、レイが最後に言った言葉をかみ締めていた。
「素直に・・・・・・・か」
頭で判ってはいる。でも、それを実行するのは難しいものだ。
「ま、ちょっとづつよね。」
一人で呟くアスカの背中に、キッチンからシンジの声が聞こえてきた。
「アスカぁ、シャワー浴びて早く寝なよ!」
「はぁい」
アスカは元気良く返事をして、部屋に駆け込み、着替えを持って風呂場に飛び込んでいった。
そして風呂場で服を着替えながら、クスリと笑う。
「アタシって、素直よね♪」


走り回っているアスカを見て、テーブルに座っていたシンジは頭を抱える。
「風邪ひいてるから、おとなしくしてよって、あれほど言ったのに・・・・・・・・」
口にしたから何が変わるわけでもないのだが、思わず愚痴を口にしてしまう。
「まあ、あれだけ元気なら、それはそれでいいのかなぁ・・・・・・・・・」
シンジは諦め半分の表情のまま立ち上がる。明日の朝食の準備をしておかなければならなかった。
疲れのせいか、体が重く感じられる。それでもシンジはエプロンを着けてキッチンに立った。
「寒いな」
シンジはそう小さく呟いてから、冷蔵庫の扉を開けた。


暖かい初夏の夜の事であった。

続劇

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