第九話  


『Hausaufgaben(4)』

邦題 : 宿題(4)

 

 夜明けまではもう少し時間のある、早朝の4時30分。
 シンジとアスカは、第三新東京市立第壱中学校の校門の前に立っていた。
 少しづつ明るくなり始めているとはいえ、まだ周囲は十分に暗い。その中に黒々と
浮かび上がっている校舎の雰囲気は、昼間のそれとは明らかに異なっていた。
 「とりあえず、着いたわね。」
 「こんな・・・に・・・早足で・・・歩いて・・・来なくて・・・も・・・」
 元気なアスカとは対照的に、シンジは、ここまでの坂道を上るだけで息を切らしていた。
 もっとも、中学校まで延々と続いている坂道の長さを考えれば、シンジがへばっているのも
当然のことなのかもしれない。
 肩を落として息をついているシンジに向かって、 
 「なに言ってんのよ。もたもたしているうちに、明るくなっちゃったらどうすんのよ?」
 と言って、アスカは校門の鉄扉へと歩み寄った。
 「とりあえず」
 鉄扉の前でアスカは足を止め、くるりとシンジの方へと向き直った。
 「これをよじ登るわよ。」
 「・・・・まるっきり犯罪者だね・・・・・」
 アスカの脇に並んでたち、冷たく重そうな門を眺めながら、シンジは大きくため息をついた。
 「じゃ、まずはシンジからね。」
 できればこんなことはしたくはないが、「これもプリントを忘れた自分が悪い」と割り切って、
シンジは冷え切った鉄製の校門に手をかけた。
 校門は高さもそれほどには無く、格子状になっているために、それほど運動神経が良いわけでは
無いシンジでも、容易に登ることができた。
 「よっ」
 かけ声とともにシンジは、多少バランスを崩しながらも校門の内側へと飛び降りた。
 それを見届けたアスカは、
 「じゃ、次はあたしが行くから、シンジ、後ろ向いてなさいよ。」」
 と、校門に手をかける。
 「なんで?」
 なぜ後ろを向くように言われたのかよく判らなかったシンジは、アスカに問い返す。
 アスカは制服のスカートの裾を指でつまみひらひらとさせる。
 「あたし、ミニスカートなんだけどな。」
 「?」
シンジは未だ、アスカがなにを言いたいのか判っていない。
「ミニスカートの女の子が高いところにあがったのを、下から見るの?」
 顔を紅くしながらアスカがそこまで言って、やっと、鈍感さに関しては人後に落ちな
いシンジでも、なにを言いたいのか判ったようだ。
 「ごめん!」
 あわてて校門に背中を向ける。
 今日の朝に続いての失敗に、シンジがショックを受けていると、背中で風が舞う気配
がして、続けて軽く地面を踏みしめる音がした。
 振り返ると、もう、そこにはアスカが立っていた。
 「は、速いね・・・・」
 ものすごい速さで校門を乗り越えたアスカを驚きの目で見ているシンジに、アスカは
笑いかけながら、校舎へと向かって歩き始めた。
 「ま、シンジとは運動神経が違うわよ。」
 「・・・で、どうやって学校にはいるの?開いている窓から入るとか言ってたけど」
 アスカと並んで歩きながら、シンジは言った。
 「この学校に侵入するだけなら、すっごく簡単よ。」
 歩きながらアスカは説明を続ける。
 「基本的には、警備員が見回るだけだから。一階のすべての窓やドアの鍵は、開ける
  と判るようなセンサーがついてるけど、三階より上には、それもついてないし。一
  番やっかいな熱センサーや赤外線センサーは、職員室には入ってるけど普通の廊下
  には入ってないわ。これで、どうすればいいか判ったでしょ?」
 アスカの言葉に聞き入っていたシンジではあるが、どうしたらいいのかはさっぱり判
らない。
 「三階まで・・・・壁を攀じ登る?」」
 アスカの方も、シンジが正解を出すとは考えていなかったようだ。別にがっくりした
様子もみせない。
 「アンタばかぁ?そんなこと、できるわけないでしょ!」
 「むー」
 どうやって入ったらいいのかシンジはまだ判らない。
 校舎まで、ずいぶんと近づいたところで、アスカは足を止めた。
 つられてシンジも止まる。
 「あそこから入るのよ」
 アスカが指さす先をシンジは目で追っていく。その先には、明るくなり始めた空が
あった。



「ねえ、どうして屋上なの?」
校舎脇の非常階段をあがりながら、シンジがアスカに聞いた。
その言葉を聞いてアスカは、非常階段の踊り場で立ち止まり、手すりに体を預けた。
「じゃ、逆に聞くけど、シンジもよく屋上でお弁当食べてるけど、屋上に出るドアの
鍵が閉まってたことってある?」
「・・・・・無い・・ような気がする。」
少し考え込んで、シンジはそう答える。
「でしょ?あたしだって、屋上の鍵が閉まってるとこを見たことなんて、1度も無い
わ。」
「不用心だね・・・・・」
「ま、学校に忍び込んだって、なーんにも盗るものもないしね。唯一、盗るものの有
りそうな職員室と、コンピュータールームだけがっちり守っとけば、あとはどうで
もいいんじゃないの?教室なんか、安い通信端末と机しか無いんだし。」
アスカはそう言って笑い、再び階段を上りはじめた。
確かにアスカの言葉どおり、中学校には、わざわざ危険を犯して忍び込んでまで、盗
むほどのものなどありはしない。職員室は一応、重要な書類などがあるから感熱センサー
等を使って守ってはいるが、他の所、廊下や教室やトイレなどは、センサーを付けて維持
する費用の事を考えると、鍵だけで十分と判断されているのであろう。
「さてと・・・・」
アスカは階段の最後の段を上り切り、屋上へと足を踏み入れた。
「やっぱりね・・・・・」
アスカとシンジの視線の先には、しっかりと開いたままの屋上のドアがあった。



 「なんか、あっけなかったね。」
 そう言いながら、シンジは自分たちの教室へと歩みを進める。
 「あんまり大きい音、出しちゃだめよ。たぶん寝てると思うけど、もしかしたら巡回してる
  かもしれないんだし。」
 「あ、そうか」
 シンジはアスカの言葉を聞いて、口をおさえる。
 たいてい警備員の巡回する時刻は、決まっている。警備員の見回りの時間をアスカが知って
いるわけではないが、ドイツにの大学にいたころには、警備員が早朝に巡回していることは決
してなかった。朝方は、誰でも眠いのだろう。
それでも、この時間に警備員が校内を巡回していないという保証はない。ばったり出会った
らそれでお終いである。緊張しつつも、二人は教室へと向かう。
結局、誰にも会うことなく、無事に教室までたどり着いた。
 「ついに到着っ」
 アスカは小声でそう呟き、音を立てないように教室のドアを開け、するりと教室の中に体
を滑り込ませる。
 教室の中は、日の出を間近に控えて、かなり明るくなっていた。
 「ふぅ」
 いくらアスカが、「シンジのためなら何でもOK」だとは言っても、学校に忍び込むのは神
経をすり減らすことであったのは間違いない。自分の席に座って、小さく息をつく。
 「で、プリントはあったの?」
 机の中をごそごそ探しているシンジに向かって、アスカは言った。
 「・・・・・あっ・・・た。あったよ。」
 机の中から、一枚のプリントを取り出して、シンジはアスカの方へと来た。
 「じゃ、早く終わらせましょ。」
 アスカの前の席を反対向きにして、机をつきあわせ、二人は向かい合って座る。めいめいの
鞄の中から筆記用具を出して、宿題をやる準備は整った。
 「さ・・・てと。これは英語ね。」
 アスカが身を乗り出して、シンジの手元のプリントをのぞき込んだ。
 「The deep purple is close to blue. これは、close to の意味がポイントよね。」
 英文の解説をアスカが始めたそのとき。
 「くきゅぅぅぅぅぅぅぅ」
 二人の間に、可愛らしくも力の抜ける音が響いた。
 その音に、アスカはの顔が紅くなる。
 「その、早く起きたから、おなかがすいたのよ!」
 自分のおなかが鳴る音など、他人に聞かれて嬉しいものではない。ましてやシンジに聞かれ
るなんて、アスカにとっては死にたいほど恥ずかしいことだった。
 「なんだ。アスカのお腹の音だったんだ。」
 シンジはなんの音だか判っていなかったらしい。
 黙っていればよかったという、後悔の念がアスカを包む。
 なにはともあれ、何かお腹に入れないと、再びお腹が鳴りかねない。アスカはあわてて筆記用具
などを引き出しに押し込んで、シンジにお弁当の催促をした。
 「とにかく、シンジもお腹すいたでしょ?サンドイッチ、食べましょ。」
 こうして二人は、朝から学校でお弁当を食べはじめた。


 「なかなか美味しいじゃない。」
 ぱくぱくとハムサンドを口にしながら、アスカはそう言う。
 味も最高、しかも作ってくれたのがシンジなのだから、アスカの偽らざる気持ちは「なかな
か美味しい」というレベルではないはずなのだが、そこで「なかなか」と言う形容詞をつけて
しまうところが、アスカの素直じゃないところである。
 「よかった。」
 すでに食べるのをやめているシンジは、缶のお茶を飲みながら、にっこりと笑った。
 「そう言ってくれるのが、つくった人にとっては一番嬉しいよ。なんか、苦労も報われるっ
  て感じがするからね。」
 「そういうもんなの?じゃ、誉めてあげさえすれば、シンジが何でもつくってくれるわけね?」
 アスカは、すべてのサンドイッチを胃袋に収めて、ゴミを捨てに行く。
 その後ろ姿を見やりながら、シンジは苦笑する。
 「別にそういうわけじゃ・・・・・」
 毎日、誉められて、ご飯をつくらされるんじゃたまらないと思ったのだろう。
1  そんなシンジの心を見透かしているかのように、アスカは、後ろを向いたまま手を振って笑った。
「じょーだんよ。」
 そう言って、ゴミ箱に袋を投げ込んでから、自分の席へと戻る。
 「さ、宿題の続きやりましょ。」
    アスカはプリントや筆記用具を机の上に広げるが、どうも気分が乗ってこない。
 前に座っているシンジも、なんだかやる気のなさそうな表情だ。
 「なんか、お腹いっぱいになると眠くなっちゃうわよね。」
 アスカはそう言って、机に突っ伏した。
 「朝、早かったからね。」
 頬杖をついてそう言うシンジも、目はとろんとして、ひどく眠そうである。
 「ね、何で勉強なんかしなきゃならないんだろうね。」
 シンジはぼけーっとした顔で、アスカにそう尋ねた。
 「いい学校に入って、いい会社に入るためなんじゃない?」
 顔だけをシンジの方にひねって、アスカは答える。
 「でも、僕、いい会社に入りたいなんて思わないし。将来は、どこかで牧場でも持って暮ら
  すのが夢だから、別に勉強なんかできなくてもいいと思うんだよね。それなのに、なんで
  無理してまで勉強しなきゃならないんだろう?」
 その言葉に、依然として突っ伏したままながら、アスカは驚きの表情を浮かべる。
 「ぼけぼけっとしてるシンジが、そんなことを考えてるなんて・・・・・・・」
 「アスカは、将来の夢、あるの?」
 さらに一段と眠そうになった顔を隠すように、シンジも机に突っ伏した。
 「将来の・・・夢?」
 アスカはシンジの問いを口の中で小さく繰り返す。
 「アタシの夢・・・・小さい頃は・・・物理学者になりたいと思ってた・・・・・」
 「小さい頃」というより、日本へ来るまではずっとそう思っていた。このまま普通に生活して、
有名な物理学者になって、世界を揺るがすような大発見をして、ノーベル物理学賞をとる。それが
アスカにとっての、理想の人生だった。
 だが、日本に来てから、正確に言えば、シンジに出会ってから、何かが変わった。
 シンジのどこに惹かれたのかなど判らない。出会ったときから、頼りないと思っていた。でも、
いつの間にかシンジに深く心を惹かれ、「シンジと一緒にずっとずっと一緒にいたい」という事が
今ではアスカにとっての「夢」になっていた。
 「アタシの夢は・・・・」
 眠さでぼーっとした頭を奮い起こしながら、アスカは唇を動かす。
 「アタシ・・・・シンジと・・・・ずっと・・・・いっ・・・しょ」
 最後まで言い終えることなく、アスカは眠りへと落ちていった。
 アスカよりも先に眠ってしまっていたシンジの耳に、その言葉が届く事はなかった。




 「なんや、こいつら。夫婦そろって仲がええのお。」
 「ふっ、シンジ君も朝から仲良く惣流と居眠りとは、進歩したね。」
 「不潔不潔不潔不潔ぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!」
 アスカの耳に、ざわめきの声が響いてくる。
 はっとして顔を上げると、周りにはヒカリ、トウジ、カヲル、レイなどがいた。
 未だ状況が飲み込めないアスカに、にやにやと笑いながらレイが話しかける。
 「朝から、碇くんとなにやってたわけ?」
 ぼーっとしていた、アスカの頭が次第にはっきりとしていく。頭を上げて時計を見ると、
すでに8時38分、ホームルームの2分前だった。
 「うそぉぉぉぉぉ!」
 アスカは叫び声をあげて、目の前で幸せそうに寝ているシンジの肩をつかみ、激しく揺さ
ぶる。
 「シンジぃぃぃぃぃ!早く起きなさいよ!」
 その様子を見ていたトウジが、ぽつりと漏らした。
 「死んだ夫にすがって泣く、新妻って感じやな。」
 「誰がよ!」
 シンジの肩から手を離し、アスカはトウジに詰め寄った。
 アスカの大声に気がついたのか、シンジが目をこすりながら起きあがる。
 そのシンジに向かい、レイは何でこんなところで朝から寝てるのかを尋ねる。
 「朝早く学校に来て・・・」
 「それ以上は駄目よっ!」
 理由を語ろうとしたシンジを、アスカが素早く制止する。いくらあいているドアから入った
とは言っても、学校に忍び込んだなんてことがヒカリの耳にでも入ったら、どんなことになる
か判ったものではない。
 シンジも珍しく、すぐにアスカの言わんとすることが判ったようで、口を固くつぐむ。
 そのシンジに向かって、トウジがまたもぽつりと呟く。
 「夫婦の間の秘密か・・・・・」
 その言葉を耳にしたアスカが黙っているはずもない。
 「アンタ、しつこいわよ!」
 「確かに」
 アスカの叫び声と重なるように、ぼそっとヒカリが呟く。
 その言葉とほぼ同時に、トウジの顎にはヒカリの右手が突き刺さっていた。
 「お、お約束・・・・・」
 トウジはそう言って、机に突っ伏した。
 その姿を見ながらヒカリは、
 「ま、こんなもんね」
 と笑った。
 かなりイッてるヒカリではあるが、アスカはこの際、無視して、シンジに向き直る。
 「シンジ!時計見てよ!時計!」
 その声に、シンジが時計を見ると、すでに8時40分をまわっていた。
 「そんなぁぁぁぁ!」
 アスカとシンジは、同時に視線を手元に落とす。そこにあるのは、真っ白なプリント。
 「終わった・・・・・・」
 「終わったわね・・・・」
 その二人の声を合図にしたかのように、先生が教室に入ってきた。
 生徒はあわてて、自分の席に戻り、ヒカリがいつものように、号令をかける。
 「起立っ!礼っ!」
 しかしその声は、プリントと同じくらい真っ白な顔色をしているアスカとシンジの耳には
これっぽっちも届いていなかった。


 いつもと同じ、爽やかな一日が始まろうとしていた。



 プリントが出来ていなかったので、アメリカの碇ゲンドウ・ユイ夫婦に、電子
メールが送られて、日本へと召還されることとなった。





続劇

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