第壱拾九話  


『Suppe(6)』

邦題 :スープ(6)

 

  ここは第三新東京市の山の手にあるコンフォートマンション。
NERVの上級職員らが住む高級マンションのうちの一つである。その中の一つの部屋が、葛城ミサト、惣流・
アスカ・ラングレー、碇シンジが同居している部屋であった。
夜の帳が下り、葛城家にも、他の家と同じ様に、いつものように暖かい灯りがともった。だが、家の中を覗くこ
とができたならば、誰もが、いつもの葛城家とは少し違うことに気が付いたかもしれない。
部屋は明るかったが、部屋の中にはいつもの活気が無かった。
キッチンには大抵、葛城ミサトがビールをぐいぐい飲んでいる姿が見られるのだが、今日に限っては誰の姿も無い。
また葛城家にしては珍しく、リビングのテレビの電源も入ってはおらず、画面は冷たく黒い色を映している。
だれも居ないのかと思ってしまうが、リビングにはアスカが一人、たたずんでいた。テーブルに頬杖をついて、
ぼけーっと放心したように宙を眺めている。
引いていた風邪は、ずいぶんと良くなったようで体は昨日よりも軽かったが、昨日よりも遥かに心は重かった。
「はぁぁ・・・・・・・・」
アスカは大きくため息を吐き、また、今日の朝の出来事を思い出していた。





シンジが用意してくれた朝ご飯をを食べようかと準備をはじめたとき、葛城家の玄関から呼び出し音が響いた。
「・・・・・・まだシンジが帰ってくるには早いわよね・・・・・・・・」
時計を見ても、まだ9時30分にもなっていない。どう考えてもシンジが帰ってくるはずはなかった。
「宅急便かなにかかしら」と考えながら、アスカは土鍋の蓋をつかんだまま玄関へと向かう。
熱が引いて体が軽くなったせいか、足取りも軽く、スリッパの立てる音も心なしか軽快である。
「はぁい、葛城ですけど」
ドアの向こうの訪問者が、宅急便屋であろうというアスカの予想は完全に外れてしまった。
「アスカ?ヒカリよ、開けてくれる?」
ドア越しに聞こえてきた声は、ヒカリの声であった。
未だ朝の9時30分である。この時間にヒカリが来ることなど、誰であっても全く考え付きもしない出来事であろう。
いくらアスカであっても、「ドアの向こうに居るのがヒカリ」などとは全く考えていなかった。
「ヒカリ??」
驚きの余り、なぜヒカリがこの時間に来たのかにまで頭が回らないまま、慌ててロックをはずす。
プシュッと軽快な音を立てて開いたドアの向こうには、険しい顔のヒカリが立っていた。
「アスカは・・・・・・・・・・もう風邪は、大丈夫そうね。」
ヒカリはアスカの顔色を見て、安心したようにそう言った。
「・・・・・・・うん・・・・・今日一日、休めば大丈夫だと思う。明日は、ミサトも帰ってくるはずだし。」
具合が良いかどうかを聴くためだけにこんな時間に来たの、とでも言いたげな顔をしたままアスカが答える。
「そっか・・・・・・・家中の人が全員で風邪ひいて倒れるなんて事にならなくて良かったわ。」
険しかったヒカリの表情が、少しだけ和らいだものとなった。
だが対称的に、アスカは怪訝そうな表情を浮かべる。
ミサトはNERVに詰めっぱなしだし、シンジは学校に行っている、ペンペンだって元気にお風呂に入っている・・・
・・・考えれば考えるほど、なぜヒカリが「家中で風邪を引く」などと言ったのか、アスカには判らなくなっていった。
「家中って・・・・・・・・・・風邪引いてるの、アタシだけだけど・・・・・・・・・・」
そのアスカの言葉に答えた声は、意外なことにヒカリではなく、その後ろから聞こえてきた。
「そうでもないんやな、これが」
シンジの声ほどではないにしても、それなりに聞きなれた関西弁である。こんなインチキ臭い関西弁を話す人間は、
アスカの知る中ではたった一人しかいない。
ヒカリの後ろから聞こえた声は、予想通りトウジのものであった。声にやや遅れて、黒いジャージが姿をあらわす。
「鈴原、なんで・・・・・・・・・・・・・・」
そこまで口にしたところで、アスカの碧い瞳はキュッと大きく見開かれ、その言葉は止まった。口は動いているの
だが、綺麗な薄紅色の口唇からは言葉が出て来ていない。
アスカの右手から力がすっと抜けていき、自分の重さを思い出したかのように、手にしていた土鍋の蓋が床に向かって落ち
ていく。蓋は「ぐわしゃっ」という鈍い音だけを残して,真っ二つに割れてしまった。
アスカの碧い瞳に映っていたのは、真っ青な顔をして、トウジに肩を支えてもらっているシンジの姿であった。
その顔の色を見れば、誰であってもシンジがどういう状態にあるかは判るであろう。明らかに、風邪を引いている、
それもかなりひどい状態であろう事は明々白々であった。
その事は、人よりも頭脳明晰であるアスカには、当然、理解する事ができた。あっと言う間にアスカの顔は、シンジ
と同じくらいに青くなっていく。
「シンジ・・・・・・・・・・」
アスカはそう言ったつもりであったが、果たして言葉になっていたかどうかは定かではない。
アスカの頭の中は、「なぜ?どうして?」という言葉だけが吹雪のように吹き荒れていたから。
頭が混乱してしまい、硬直しているアスカの脇を、シンジの肩を支えたままトウジが無言で通り過ぎる。
「え・・・・・・・・・・・と・・・・・・・・・シンジ・・・・どうしたの・・・・・・・」
呆然自失のアスカの肩を、ヒカリがやさしく抱えた。そして、ゆっくりとキッチンの方へと移動しながら、アスカを
落ち着かせるようにやさしい口調で話し掛けた。
「だいじょぶよ、アスカ。だいじょうぶ。」





それからしばらくの事は、アスカはよく覚えていない。
鈴原は、シンジを寝かせてから、直ぐに学校に戻っていった。
ヒカリは夕食の準備を手早く済ませてから、アスカにシンジの状況を説明してから帰っていった。
ヒカリの説明によると、シンジは学校に行くには行ったが、ホームルームが始まるときには既に、顔色は最悪、高熱
でうなっているという状況だったそうだ。慌てて保健室に連れていって、体温を測ったら40℃。こんどは慌てて医者に
駆け込んで、解熱剤等をもらってから家に連れてきたという事だった。
「はぁ・・・・・・・・・やっぱりアタシの風邪、うつったんじゃないのかなぁ・・・・・・・・・」
アスカは薄暗い部屋で、がっくりと肩を落とす。
ヒカリは「アスカの風邪がうつったんじゃ無くて、きっとアスカと同じ頃に風邪にかかったんだよ」と言っていたが、
そんな言葉は気安めにすらなりはしない。もしそうなら、シンジは風邪を引いて体調が悪いなかでも、アスカの体調を気
遣い、ご飯の準備をしてくれていたという事になる。
「つらいな・・・・・・・・・・・」
静かな部屋の中で、アスカは手の平で顔を覆いながら絞り出すように呟いた。
シンジが自分の事を気遣ってくれていた事に対する嬉しさよりも、そんな状況のシンジに頼っていたという事実、
そして自分がシンジに対して何もしてやれない無力感、それらがアスカの胸を締め付けていた。
「はぁ・・・・・・・・・・」
アスカが力無くため息をつくのとほぼ同時に、キッチンの壁掛け時計から軽快な音楽が流れ出しはじめた。その音楽
は、もう5時になった事を告げるものであった。
薄暗いキッチンに流れる場違いなほどに明るい音楽を、アスカはテーブルに頬杖をついたまま、虚ろな表情で聞き流し
ていた。
だが突然、何かを思い出したかのように、バチンとテーブルを叩いてから、勢いをつけて立ち上がる。
「シンジに何か食べたいものがないか聞いてみなくちゃ・・・・・・・・・・」
夕食は一応ヒカリが簡単なものを作って行ってくれていたが、それでもできるなら、何かつくってあげようかと思った
らしい。アスカはおもむろにシンジの部屋に入っていった。
照明が小さい電気スタンドのみになっているシンジの部屋は、薄暗かった。
アスカは手探りで照明のスイッチを探し当てて、それをカチリと押し込んだ。部屋が一気に明るくなり、薄闇は部屋の
隅へと追いやられていく。
明るくなった部屋の中には、ベッドで泥のように眠り続けているシンジの姿があった。
最新の風邪薬であっても旧世紀の風邪薬と同様に、咳には咳止めを、熱には解熱剤を、そして痛みには鎮痛剤を与える
対症療法的なものである事に変わりはない。だが、その薬品の効能が大幅にアップしているのであろう。シンジの顔色も
アスカが頭の中で勝手に想像していたものよりかは、はるかに落ち着いた表情であった。そのことが、多少なりともアス
カの心を落ち着かせる。
「シンジ?」
囁くかの様な声で、アスカがシンジの名前を呼んだ。シンジの寝顔が一瞬だけピクリと変化するが、それだけであった。
眠りからさめたわけでは無いようである。あいも変わらずシンジは眠り続けている。
「ね、シンジ・・・・・・・・・・・・」
アスカは再びシンジの名前を呼ぶが、その声の大きさは尻すぼみに小さくなっていった。頭のどこかで無意識に芽生えた、
「眠っているシンジを起こしてはまずい」という思いのせいであろうか。
アスカの二度目の呼びかけでも、シンジが起きる事は無かった。
「・・・・・・・・・・起こさないほうが・・・・・・・・いいのかもね・・・・・・・・・」
風邪薬に含まれている成分の中には、強い誘眠作用を持つものもある。眠ることによって、体力の消耗を押さえるためだ。
「薬を飲んで眠っているなら、無理矢理に起こさないほうがいいだろうな」とアスカは判断して、シンジの眠りを少しでも
妨げる事が無いように、抜き足差し足でシンジのベッドから離れていく。
照明をOFFにして、再び薄暗くなってしまった部屋を後にしようとしたアスカに、その背中から声が掛けられた。
「アスカ?・・・・・・・・・・」
どきっとしてアスカは後ろを振り返る。
アスカの後ろにシンジ以外の誰がいるわけでもない。声の主はやはりシンジであった。
「・・・・・・・ちゃんとおとなしくしてなきゃダメだよ・・・・・・・・・病み上がりなんだし・・・・・・・・」
布団の中からシンジは、アスカに向かってそう言って、微笑みかけた。
「シンジ・・・・・・・・・・・・」
「人の心配してるより、自分の心配しなさいよ」、そう言おうとしたアスカであったが、それは言葉にはならなかった。
ここに来た当初の目的である、「何か食べたいもの、ある?」という質問さえ言葉にならない。
「そ・・・・・・・・・ね・・・・・・アリガト・・・・・・・・」
アスカはシンジにぎこちない仕種で微笑みを返して、シンジの部屋の扉を後ろ手でパチンと閉めた。
後ろにまわした手に、戸が閉まった感触を感じるとほぼ同時であろうか。アスカの瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
アスカは全く声を立てることもなく泣いていた。
「どうして・・・・・・・・・そんなに人の心配ばっかりしてるのよ・・・・・・・・・・」
自分が風邪で寝込んでいたときには、シンジが看病してくれるそのことが嬉しかった。それだけだった。
シンジが看病してくれる事が嬉しくて、ただそれだけで、どれだけシンジが気力と体力を使ってくれているのかに
までは、心を配ることが出来なかった。
なのにシンジは風邪で寝込んでいる状況でも、アスカの事に気を配ってくれていた。
そのことが、アスカにとっては辛かった。自分の至らなさを見せ付けられるようで。自分が「シンジが看病してく
れるという事に浮かれていて、その事がどれだけ大変なことなのかに気がつきもしなかったことが恥ずかしくて。。
アスカは先ほどまでは座って居なかった、キッチンの椅子に、どさっと体を投げ出すようにして座り込んだ。
目の前にある土鍋、ヒカリが準備していってくれた今日の夕飯となるお粥の入ったそれを眺めながら、アスカは
ボーっと物思いにふけりはじめていた。
「アタシ・・・・・シンジのこと『馬鹿シンジ』って言ってたけど・・・・・・・・・アタシのほうがよっぽど馬鹿よね・・・・・」
アスカらしくも無い弱気な考えが頭の中に芽生える。
人間は、ネガティブな発想をするときに限って、その発想はどんどんとエスカレートしていってしまうものである。
アスカの場合にもそれは当てはまった。アスカの気分は、転がり落ちるかのようにしてどんどんと弱気で陰気な
ものへと変わっていった。
「はぁ・・・・・・・・・あたしって・・・・・・・・バカよね・・・・・・・・」
陰気な表情でアスカは、小さく呟いた。
とそのとき、アスカの重い気分を吹き飛ばすかのように、明るい電子音がキッチンに響き渡った。
先ほども時計が同じ様な感じで音楽を奏でていたが、今度の音は音楽ではなく規則的な電子音である。
「ピピピピピ・・・・・・」という電子音のなっている場所。それは電話に 他ならなかった。
それに気がつくと、アスカは慌てて立ち上がり、小走りに電話機に向かっていく。
「はい、惣流・・・・じゃなくて、葛城ですけど」
自分の名前を名乗りかけて、電話に出るときは「葛城」と言うようにミサトに教えられていたことを思い出して、
慌ててアスカは言い直す。
「・・・・・・・・・・・・・・葛城・・・・ミサトさんのお宅・・・・・・・・ですよね?」
電話先の女性は、ちょっと戸惑った様子を見せていた。声の微妙なイントネーションの違いから、その事が判る。
アスカは電話先の女性の声に、何故か聞き覚えがあるような気がしてならなかった。
「ええ・・・・・・一応、そうですけど・・・・・・・・どちらさまでしょうか?」
「えっと・・・・・・・・あなたは、惣流・アスカ・・・・・・・・・・ラングレー・・・・・・・・アスカちゃんかしら?」
電話の女性は、アスカの問いに答えるでもなく、逆に質問をしてきた。
「え・・・・・・・・・そうですけど・・・・・・・・・」
なんで自分の名前が判るのか、不審に思いながらも、アスカは思わずそう答えていた。
「はじめまして。私は・・・・・・・・・・・・」
電話先の女性にはアスカの不審そうな顔つきなど見えないのだから仕方がないのだが、彼女は極めて明るい口調で
自分の名前を名乗った。
「え・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
アスカはそう言ったきり、二の句を告げることが出来なかった。
受話口から聞こえてきた名前は、それほどに、アスカにとっては余りにも意外な名前であった。

続劇


第弐拾話は、そのうち公開っ!

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