いろいろな人が、死んだ肉親や友人などからの接触があったというような体験を集めたもの。
種類別に分類されていて、「夢の中で会った」「心に声が響いた」「幻像を見た」というようなものは
よくあるのかもしれませんが、なかには「(実際に)電話をとると声がした」というシリーズもあります。
こんなタイプの接触方法を聞くと、懐疑的な人などは笑いつつ、やっぱりインチキだ、と言いたくなってしまうでしょう。
でもほかに集団的に目撃したと言うようなものや、意味のあったコミュニケーション、つまり
「行方がわからないもののありかを知らせてくるようなもの」もあり、一筋縄には行かないとも言えます。
エピソードの数だけはたくさんあり、
こんなものばかりを続けて読んでいると
なんとなくこれらすべてが正しいような気にさせられるのですが、
誰かが言ったように(レーニン?)、この「数」がそのまま質に転化するかとなるとまあそれもまた言い過ぎではないか
と思ってしまいます。
というのも半ば夢を見ていたのかもしれないような
ちょっとした希望的な幻覚に振り回された人の体験が
いくつ集まっても、
別にそれが真実だと言う事にはならないでしょうから。
巻末に「あなたの体験募集」という連絡があります。
こういう調子で体験談を集めているとすると、中には作り話や
いいかげんな例も少なからず紛れ込むおそれは常に付きまといます。
先に書いたように、偶然とは思えないコミュニケーションと言う例もあるのですが、
それをしっかり検証しているかとなるといま一つ心もとない感じも受けます。
しかしながら、集められてきた体験談が大体重なってきて
おおかた一様だと言うのも不思議な事です。
各人の勝手な白昼夢が集められているのであれば、
想像力はいわば無限なわけで、願望をある程度自由に投影できるはずで、
そのためにかなりバリエーションのある報告が
なされているはずです。
しかし実際は共通の大まかなパターンのようなものが浮かび上がってきます。
願望や単なる想像がこうした接触体験を作り出しているとしたら
これは非常に奇妙な事だと言えるでしょう。
例えば
死後直後の人は、そのままあちらの世界に行くのではなく
しばらくあちらの世界とチューニングを調整すると言うような場所
を通過する事があるなどという報告があります。
これはモンローの体外離脱報告をはじめよく言われることで、
これがここでも出てくる事は奇妙な事です。
また自殺者は直接コミュニケーションしては来ず、
同じく死んだ友人などが、「彼は今(自殺のために)苦しい局面に立たされている」
と説明してきます。
自殺者がそのために苦しむということもまた良く見られる報告です。
シュタイナーは、人生途中の自殺によって(本来まだ活かされるはずの)
残ったエネルギーがそのものを死後の世界で苦しめる、と言っています。
だとすればなるほど、自殺といっても老人が病気を苦にして
自殺した例では、そのままきれいな死後への移行が起こっています。
自殺といっても「生き切った」というわけなのでしょうか。
このように共通のパターンがあることをみると
少なくとも、死後があるかないかということはさておき、
人間の心の奥底に、死後に関する何か元型的なパターンが
ある事は確かなようで、これはこれで不思議な事です。
だいたい、こういう報告がいくら集まっても死後があるない
と言う議論にはあまり意味がないように思います。
というより、読めば読むほどこれはむしろ各人の
個的な体験である事に意味があるのではないかと
思わされるからです。
というのも死後の世界と触れた、という体験は
私たちが読者として読むと
実際の体験者とひどく意味の「ずれ」があるような気に
なるのです。
前にキューブラー・ロスの本を読んだときに
彼女の懐疑的な夫が、死後に彼女に死後の世界の存在を
知らせてきた、という場面があったのですが、
読んでみると単に雪の中に花が咲いた?というような
第三者にはいまひとつピンと来ない出来事でした。
それが彼女の中では強い意味を持ったのです。
この本の中にある事例も
読んでいるとなぜそんな事でそんなにも感動するのか
第三者には理解しがたいと言う事が良くあります。
しかしそれが本人には大事な事であり、人生を変える体験であったのです。
死後体験はこうした本人にしか分からない
ぞくっとする感触を伴うようです。
ならばこのようなことは本などの形で人に伝える事は不可能でしょう。
死者との接触というのは、死に似て、
まったくの個人的な体験であることに意味があるようです。
|