1990年の冒険

Chinese flag なしのつぶて日記・中国冒険記

上海

上海

上海の空港に到着したのはもう夜中だった。空港の外は喧噪としていて、中国に入ったんだという実感がした。愛想のいい男二人組がタクシーに乗らないかと声をかけてくる。100ドルでいいと言う。トラックだった。まあいいか?と、後ろの荷台に乗り込み夜風に吹かれながら上海の町に向かった。空港の周りは広々とした農地が広がっているようだった。荷台には二人組の内の一人が乗り込んでいて何かと話しかけてくる。愛想がいい。なんとはなしに無駄話をしている内に徐々にトラックは町中に入ってきた。灰色っぽいどこか殺伐とした久しぶりの中国の町並みだった。特にどこに行こうかなんて考えていなかった。なんとなく高い山が見てみたかった。成都からチベットに抜けてみようか、それともシルクロードの方に行ってみようか、それぐらいだった。

トラックをおろされたのは高いビルの立ち並ぶ大きな川沿いの街だった。財布から100香港ドルを出して渡すと、彼らの顔がみるみる曇ってくる。100ドル出せと言っているようだった。頭がぼーっとしていた。香港から着いたばかりで、教科書で見たようなこの上海の街並みは、突然夢の中に放り込まれたような錯覚を起こさせた。ああ、100USドル出せって言っているのか、彼らは、、、。どうりで随分愛想のよかった訳だわ。ばかかこいつら、、たかだか30分ぐらいでそんな大金出せるか。香港ドルでも随分奮発してあげている様な気がしていた。米ドルなんて持っていない、じゃあ10000円払えって、日本円ももう小銭しかないよ、FEC?、まだ両替して無いってば、トラベラーズチェックしかないよ。あほか、そのまま歩いていこうとすると肩をつかんでもう一度トラックに乗れと言う。やっぱりそう簡単に離してはくれないか、やれやれ。荷台に載ると先ほどの男は対面からじっとにらみつけてくる。爬虫類の目をしているな。トラックは走り始め、どこに連れて行くつもりかと聞いても何も言わない。
ただ、にらみつけてくる。やばいな、ちょっと思った。数時間前に香港でぼくを送り出してくれた友達家族たちのことが思い起こされた。今頃晩御飯でも食べているだろうか、そんなことを考えていると妙にもの悲しくなってきた。

う〜ん、まじでやっかいなことになってしまった。大きなホテルの前でおろされた。チェックを両替してこいと言う。ホテルの両替所に向かうと後ろから二人ともついてくる。逃げれそうもないな。両替所ではもう夜中だしチェックは両替できないと断られた。その人は、後ろからちんぴらに脅されて両替にきた日本人旅行者を哀れみの目で見ている。そんな目で見ないでよ、こっちだって悲しいんだからさ。今度はどこに連れていくのだろう、、細かい路地を通って人気のないところで降ろされた。とにかく金払えと二人に詰め寄られてもないものはないのよ。胸ぐら捕まれて脅されたってないのよ、まじなところ。そんなにがなり立てないでよ、言葉わかんないんだから。どうも彼ら、傷つける気はないみたいだなあ、、、こいつら素人やな。よっしゃわかった、チェックあげよう、10000円だよ。とりあえずサイン無しでチェックを渡して明日朝一で被害届だしたるわ。二人は不信の目を向けながら相談している。いらん、突っ返してきた。う〜ん、あほじゃないな、こいつら。とりあえず荷物見せろ、はいはい、どうぞ、全ての荷物を路地に広げた。悲しそうな目でぼくの荷物を見ている二人。ざまあみろ、なんもないで、金になるものなんて、なんせナップサック一つの荷物なんだから。もういいわ、明らかに落胆の色を隠せない二人は、ささっと行ってしまえと言う。ラッキー、数歩進んで後ろを振り返り、「あばよ、ばーか」、と別れの挨拶をすると血相変えて追いかけてきた。ダッシュで逃げながらも悪口ってゆうものは万国共通で通じちゃうものなんだなあ、と、妙に感心していた。


快晴の上海の街で

次の日、とりあえず駅に向かっていた。蘇州に行こうと考えていた。地図を見ながらぶらぶら歩いていくと、二人組の男が日本語で声をかけてきた。年は同じぐらいだ。
「こんにちは、日本人ですか?」
生返事しながら歩き続ける。片言の日本語だが、外国語大学の日本語学科の学生で日本人と話がしたいという。ちょっと急いでいるからと断るが、なかなかにしつこい。しまいには日中友好、日中友好と言ってくる。日中友好なんて言われたらあまり無視し続けてもいられないかなあ、と思ったのが悪かったのか。ちょっと話を返すとそのままなし崩し的に喫茶店に連れ込まれた。学生?だったら学生証見せてよ。上海外国語大学と書いてある。といっても本物かどうかなんて怪しい、ぼくに判断できるわけがない。一人はやたらと愛想がいい。もう一人はちょっといやな目の色をしている。ぼくと話をしていないときにはじとっとしたしめった目を見せる。ちょっと気をつけなきゃならんな、と思いながらも、日中友好かなあ、と話を続けていた。話をしている内にお昼ご飯を一緒に食べようと言うことになり、あまり気乗りはしなかったが、日中友好かあ、と思って付いていくことになった。ご飯を食べながらビールを何杯か飲む内に、細かいことはどうでもよくなってきた。あんまり人を疑ってばかりいてもいけないしなあ、などと思い始め、話もいろいろと弾んできていた。もう十分に日中友好も果たしたろうと思い、そろそろ蘇州に出かけようと思うと話すと親切にも切符を買ってきてやると言う。蘇州の後どうするかと訪ねてくるので、う〜ん、成都かな?と答える。会計を済ませようとするとさっと一人が立ち上がって先に会計をしてきた。レシートを見せて3分の1を払ってほしいと言うが、よーく見るとなんか書き換えてあるように見える。精算所にいる女の子にこれが正しい値段かどうか訪ねるが、後ろの二人の顔色をうかがいながらはっきりしない返事をするだけだ。ああ、これは明らかに嘘ついているな、と思った。酔っていたせいもあり、まあ、高い値段じゃないしここは一人払いでもいいかと、言い値を払っておいた。駅に着くと二人はさっそく蘇州行きと成都行きの切符を買ってきた。いくら?と訪ねると、正規の2倍ほどの値段を言ってきた。ああ、やっぱりな、、、。とても悲しくなった。切符にははっきりと値段が書いてある。一応その点を指摘したが、なんやこやと切符の他の数字を指差しながら説明をする。明らかに酔っていた。
外国人料金なら3倍だし、もういいや、と思い彼らの言うとおりの値段を払った。なんて稚拙なだまし方をするんだろう?こんなの子どもでも解るよ。昨日のこともあり中国人が嫌いになり始めていた。別れ際に、「あこぎなことしてんとまともに働きや、君ら。」と、言っておいたが通じたかどうか、ただにやにやと笑っていた。

蘇州いきの列車の中で徐々に酔いが覚めてきた。2枚の切符をながめながら、昨日のことと、さっきの二人のことを考えていた。昨日の二人は今日も上海空港に行っているのかなあ、、、さっきの二人は次のカモを探しているのかなあ、、。とても悲しい気持ちになってきた。昨日今日彼らに渡したお金は、ぼくにとっては少額でも彼らにとってはある程度のまとまった金額であろう。悲しかったし、そしてあほらしかった。どうでもいいやと思うようにした。でも、中国人とは極力話すまいと考えていた。

蘇州

蘇州

蘇州では自転車を借りてぶらぶらしていた。中国料理ばかりでちょっと嫌気がさしてきており、二日ほどまともに食べていなかった。あまりにおなかが空いて、思い切って食堂に入った。適当に持ってきてもらった料理は、きのこの煮込み料理だった。
予想に反してそれはこれまで食べた中で最高においしい料理だった。あまりのおいしさに気持ちが軽やかになった。ビールも飲んで軽やかな気持ちで自転車をこいでいると夕方のラッシュの中で野菜をたくさん積んだおばさんの自転車とぶつかってしまった。謝りながらいっしょに野菜を拾ったが、おばさんには怒られてしまった。中国には中国の自転車のルールがあって、おそらくぼくはそれに反する動きをしてしまったようだ。蘇州の街は魔女の宅急便に出てきそうな雰囲気をもっており、自転車で走っているととても気持ちよかった。話しかけてくる人もたまにいたができるだけまともにしゃべらないようにしていた。中国語は解らないが、英語で話しかけられてもほとんど解らないふりをしていた。

杭州

杭州

早朝の船で杭州にむかった。出航するとすぐに広大な水田地帯に入り、朝靄のかかった風景は不思議なのどかさを感じさせた。運河にはアヒルが泳いでいてガーガーとやかましいのが大陸らしかった。杭州の西湖は美しいと言われていたが、何のことはない緑色のちょっと汚い池にしか見えなかった。ところどころ塔が建っているのが中国的だったが、ただそれだけだった。気持ちが萎えてきていた。

上海

再度上海

上海まで汽車で戻って、成都行きの汽車に乗り換えた。硬座だったが切符には座席が指定してある。その座席に行くと同い年ぐらいの女の子が座っていた。その女の子の目の前に自分の切符をぶら下げ顎でどくように示した。その娘のお母さんらしき人がちょっとぼくを避難の目で見たが話をするのもいやだった。その席は窓際だった。
窓の外には彼女達の見送りの人達が列車が出るのを待っていて、無遠慮にも女の子をどかしてその席に座ったぼくにちょっと驚いているようだった。悪いことしたかな、と思ったが今更席を空ける気にはならない。なにより言葉を交わすのがいやだ。列車が走り始め、窓の外を眺めながらどこに行こうかと考えていた。成都に行く気はすでに失せていた。正直、夏の中国の蒸し暑さに参り始めていた。ここ数年間は北海道で過ごしていたし、つい10日前までは大雪山の雪渓でスキーをしていた。とにかく涼しいところに行きたかった。お母さんらしき人がたまに中国語で話しかけてきたが、ただ首を横に振っておいた。話をする気はありませんと態度に示しているつもりだった。
ほっといてほしかった。

西寧へ

硬座

車窓から流れ行く風景を眺めていた。このままこの列車に乗っていると成都に行ってしまう。成都も随分と暑いところだと聞いていた。どこかで途中下車をして西寧に行こうと考え始めていた。とにかく標高の高いところに行こう。西寧まで行けばチベットも近くなるし。列車は上海を出てから田園地帯やちょっとした街や大きな川を渡ったりして、ゆっくりと風景を変化させていった。日も暮れ始めていた。

暗くなり始めた外の風景をぼんやりと眺めていると、対面のおばさんが紙を差し出してきた。"English OK?"、と書いてある。おばさんとその娘の方を見ると、ちょっと不安そうな顔をしながらじっと見つめ返してくる。このまま無言でいるわけにはいかないようだった。気持ちは相変わらず乗らなかったが、"A little" と答えた。とたんにその人達は笑顔になっていろいろ話しかけてくる。
「どこから来たの?」
「日本の北海道から来ました」
「ほっかいどう?」
紙を出して漢字を書いた、北海道。
「ぺーはいどぅ」
うんうんとうなずいている。
「一人できたの?」
「一人できました」
「あなた何歳?、あなたのお母さんは外国に一人で行くことを許したの?」
「特に許しをもらわなければならない年齢だとは思わないし、勝手に来ましたよ」
「まあ、私だったら絶対に子どもを一人で外国になんてやらないのに」
「子どもじゃないですよ」
「いいえ、あなたのお母さんにとってはあなたぐらいはまだまだ子どものはず」
彼女たちはやはり親子だった。女の子はぼくより一つ年下で、西安外語大学の英語科の学生だった。ユイチャンと言う名前だった。母親は西安で英語の教師をしていた。久しぶりに面と向かって人と話をしていた。徐々に自分の心の中の硬い意固地な部分が消え始めているのを感じた。今まで硬かった顔の筋肉が緩やかになってきた。久しぶりに笑顔で話をしている。きっとぼくはこうして人と普通に話がしたかったんだと思う。「どうしてずっとむすっと不機嫌な表情をしていたの?嫌なことでもあったの?」。話すべきかどうか考えた。屈託のない笑顔で話すこの人達はいい人達だと思う。二人とも目がとても優しい。その人達に向かって、中国人の悪口となるようなことを言っていいのかどうか迷った。しかし、ぼくは列車に乗ってからずっと彼女たちに向かってかなり失礼な態度をとり続けていた。列車に乗ってすぐにユイチャンを窓際の席から顎でどかしていた。そのことも謝りたいと思ったし、そのいいわけもしたかった。

上海での二つの事件を話した。やるせない想いを打ち明けた。二人ともうなずきながら聞いてくれていた。中国人とは話をすまいと誓い、それ故に彼女たちに対してとった態度について謝った。お母さんが言った。とてもかわいそうな危ない目に遭ったんだね。同じ中国人としてとてもすまないと思う。でも、日本にも泥棒もいれば強盗もいるでしょ。確かに、上海や西安には旅行者をねらったたちの悪い人達がたくさんいることは知っているし、あなたがその被害に遭ったことは本当に残念に思う。でも、そんな人達は大勢の中国人の中のほんの一握りだし、その人達との関わりだけで中国を誤解してほしくはない。それによってあなたの旅自体をつまらないものにしてほしくはない。ほとんどの人達はまじめに働いて生活していて、決して悪い人達ばかりではないのだから、これから先の旅で、いろんな人達とお話をして中国人に対する考えを思い直してほしい。ユイチャンも横でうなずいている。

もちろんそんなことは初めから解っていた。頭の中では解っていたんだけど、やりばのない悲しい思いが心を素直にさせてくなかっただけなのだ。まるで自分の母親にやさしく言い聞かされている様な気分だった。本当は解っていたことだった。泣きそうになっていた。その後、3人でいろいろなことを話した。もう、緊張する必要もなく完全に心を開いていた。夜遅くになって、ユイチャンが眠った。石のように硬い直角の硬座に座り、お母さんにもたれ掛かって薄い布を身体にまとって眠りに入った。
お母さんはそれをやさしく受けとめていた。一つしか違わないのに彼女が子どもみたいに見えた。そう思うと妙におかしかった。お母さんとの話はつきなかった。彼女の生い立ちや、今の生活、ぼくの両親のことや、いろいろと話していた。何時間経ったかわからないが、ユイチャンが起き出してきた。席を代わって今度はお母さんが眠り始めた。ぼくも寝ようかと思ったけれど、こんどはユイチャンが話を始める。彼女と話すのもまたとても楽しかった。もう、今日は寝るのはやめよう、そう思った。

外国人とこんなに話をするのは初めてだった。おそらく彼女もそうだったと思う。ユイチャンの大学生活の話、ぼくの大学の話、日本の社会、中国の社会、過去の日本と中国との関わり、天安門事件の話。窓の外では夜が白々と明けてきた。列車は広大な田園地帯を走っていた。地平線がみえるその風景は、かつて祖父が戦争で中国に行った時の話を思い起こさせた。祖父は戦争の話はしてはくれなかったが、中国の広大な風景についてはよく語ってくれた。大陸は時間の流れ方が違う、人々のものの受けとめ方も違う。山ばかりの小さな島国が攻め入って支配していいところではないと、語っていた。祖父は僧侶だった。僧侶もかり出したその遠い日の戦争、本当に日本が帝国主義としての総力戦を行い、天皇の名の下に民衆を戦争に駆り立てていた時代があったことを、いままでよりも少しだけ身近に感じさせた。ぼくの生まれる前の日本があったこと、そして戦争の中で、日本と中国の民衆が戦いを強いられたこと、そんなことがあったんだと、その風景からとりとめのない想いがわき上がってきた。二人で夜明けの大地を眺めながら、僕たちが生まれる前に本当に存在した戦争について話をしていた。かつて祖父もこの大地にやってきたのだ。こうして話をしている二人がとても不思議だった。

本格的に朝がやってくるとお母さんが起き出した。お湯をもらってきてタオルを浸し顔を洗い始めた。いいって言ったのに、ちゃんと朝は顔を洗いなさいとたしなめられ、ぼくは素直に顔を洗った。そして、お母さんの作ったインスタントラーメンを食べた。こんなにまずいインスタントラーメンは日本では食べたことがなかった。まずいラーメンをほおばりながら彼女たちの親切な心に涙がこぼれそうだった。成都行きの切符を買ったけれど、西寧に行くことにすると話すと、途中で乗り換えて一緒に西安まで行こうということになった。彼女たちは上海の親戚を訪ね、西安に帰る途中だった。てい州で列車を降りると、外国人には切符の交換は難しいからと、お母さんが交換に行ってくれた。なかなか戻ってこないので、手間取っているのだろうと心配になり探しに行こうと思ったが、ユイチャンが待っていた方がいいと言う。あまり迷惑はかけたくなかったが、ここは彼女の言うとおりにしようと思った。しばらくしてお母さんが帰ってきて西寧行きの切符を渡してくれた。

西寧行きの列車に乗り換え、数時間で西安に到着した。彼女たちとはここでお別れだ。飲み物や、あのおいしくないインスタントラーメンなどいろいろお餞別を渡され、笑顔でぼくの列車を見送ってくれた。いつかまた逢えるときがあるのだろうか。西寧行きの列車の中ではうつらうつらとしながら過ごしていた。硬座の列車の旅はかなりしんどいときいていたが、それほどの苦痛は感じていなかった。ただ少しだけお尻が痛いぐらいだった。目が覚めると、日本に行っていた人がいるから話してみないかと、近くの席の人に誘われた。その人はもう結構高齢のおじいさんで、戦争中に八幡製鉄所で働いていたとのことだった。日本語は片言だったが、細かいところは筆談で何とか意志の疎通ができた。戦争中の八幡製鉄所って強制連行ではないかと思ったが、おじいさんはにこにこと話をしてくれた。周りの人達とも筆談や身ぶり手振りなどで乱雑な会話を楽しんでいた。言葉は通じなくても結構意志の疎通はできるものだなあ、と感じていた。

西寧

西寧

次の日には西寧に到着した。とても涼しい。宿を決めるととりあえずシャワーを浴びに行った。お尻が痛いなあと思っていたが、さわってみるとなるほどお尻の皮がただれているようだった。部屋は3人部屋で、後の二人は香港の女の子だった。女の子と狭い部屋で同室なんて、気まずいなあと思ったが、疲れていたせいか速攻で眠りに落ちていった。

夜明け前に目が覚めた。お尻の痛みはもうなかった。はりきって外に出て朝御飯を食べる。中国料理にも慣れてきて、朝からおなかいっぱい食べることができるようになった。ガイドブックを広げてどこに行こうかな、と考えていた。西寧の近くには青海湖という大きな高原の湖があるらしい。路線バスではあまり見所をまわれないないらしいので、ツアーを組むことにした。CITSで尋ねたが、今のところ青海湖に行こうとしている人はいないということだった。いろいろ探し歩いてやっと青海湖に行こうというシンガポリアンを一人見つけることができた。あと4〜5人はほしいなあ、と話し合いお互いに人数を探すことにした。昼になりホテルにあまり人がいなくなったため、ぶらりと外に出かけた。西寧の街の郊外には小高い山があり、そこに何やら建造物が見える。ちょこちょこと山まで歩いていくと山の斜面にはお寺らしきものがへばりついていた。山のお寺は意外と大きく、壁面に地獄絵だか天国絵だかが描いてあった。う〜ん、なんか日本のお寺とは違って、なにやら毒々しいなあ、、寺を登りきるとさらにその向こうにもうひとつ山があったので、とりあえずそっちまでてくてくと歩いてみた。西寧の街が一望に望め、なかなか爽快な眺望だった。夕方にはバザールに行って初めてシシカバブーなるものを食べた。一本2角で、他の食べ物と比較してやや高い。北海道でさんざんラム肉は食べてきたが、シシカバブーには羊独特の臭みが無く、えらくおいしい。これはいい、がつがつと食べた。何か謎の粉々を振りかけまくりながら焼いているので、あの粉々がにおいを隠す秘密であるらしかった。宿に帰るとさっそくツアーの人集めを再開した。CITSでは希望者は現れていないとのことだった。次に、宿の部屋部屋を訪問し、青海湖行きませんかあ〜、ととにかく声をかけていた。希望者は見つからなかったが、ちょこちょこと日本人客がいて、久しぶりに日本語でのだべりんぐ(おしゃべり)を楽しむことができた。楽しい人達だった。

その人は、20代中頃の女の人だった。
「どこら辺まわってこられたんですか?」
「そやねえ、大学卒業してとりあえず就職してんけど、なんか面白のうなって、取りあえずアメリカ行ってぶらぶらしてたらお金無くなってきて、しばらくニューヨークで働いてお金貯めて、その後南米、アフリカ、ヨーロッパとまわって、イスラエルの集団農場でまたちょっと働いて、中東からインドまわってシルクロード入って、現在に至るってとこやわ。」
「へ、、、まじですか?」
世の中には豪傑がいるものである。ぶらぶらしている人には何人かあったことがあったが、この人はかなりの強者であると見た。
「あの〜、いつ頃日本出られたんですか?」
かなりファンキーな答えが予想される。
「う〜ん、3年ぐらい前かなあ、」
予想を裏切らない人だ。彼女は微笑をたたえ、ちょっと遠い目をしている。
「すごいですねえ、結構長旅されるんですか?」
「ううん、そんなことないよ。こんな長い旅行は初めてよ。短かい旅行は学生ん時からちょこちょこしてたけどね。」うなずいておられる。
「短かいって、、?」
短くないに違いない。絶対そうに違いない。
「うん、2、3カ月ぐらいの旅行よ。」
やはりな、彼女は笑っておられる。
そらあ、短かいっすねえ。」
とりあえず短かいということにしておいた。
「ねえねえ、あのさあ、そろそろ日本帰ろと思てんねんけど、今、日本景気どう?仕事見つかる思う?」
時あたかもバブル絶頂の頃である。就職する人にとっては超売り手市場と言われていた時代である。
「ばっちりっすよ、今めっちゃ景気いいっすよ。絶対仕事なんて簡単に見つかる思いますよ。」、「ほんまにい、うわ〜、いいときに帰ってきたわあ」
そんなに遥かな旅行を続けてきたとは思えない程ほんわかと柔らかなお人であった。この人に親は存在しているのだろうか?いたとしたら親になんて言ってでてきたのだろうか?帰ったらいったいどんな職業に就く気なのだろうか?はたしてこの人はこの後本当に日本に帰ってまっとうな仕事に就くのだろうか?、様々な疑問が心の中に渦巻いた。しかし、失礼である気がして、あまりプライベートな質問をすることははばかられた。
「あの〜、ではよい旅をお続けください。仕事いいのんがあればいいっすね。」
「ありがとう、あなたもね。」
とても柔らかい発音だった。きれいな人だなあ、と思った。

シンガポリアンの方も全滅だった。明日も探さないといけないね、と話すと、彼は、明日はぼくに任せて君は観光に行って来いと言う。じゃあ、お言葉に甘えまして、明日お願いします。ちょんちょんと甲高い話し方をする彼だったが、親切な人のようだった。再び日本人が数人いる部屋に戻ってだべっていた。お茶を飲みながらみんなの旅行談などを聞いている内にのんびりとした時間が漫然と過ぎていった。明日は札幌から来た大学生の女の子にご一緒させてもらって塔爾寺(タールスー)と言うチベット寺に行くことになった。自分の部屋に戻ると今日のルームメートは日本人だった。東京の大学に通うちょっと年上のお兄さんだった。その人はもう中国には何回か来ていて、今回は中国人の女の子と再開しに来たようで、どうも訳ありのようだった。
数年中国語の特訓をしたという気合いの入りようで、その晩は便利そうな中国語をいろいろ特訓していただいた。

西寧ではとってもおいしいヨーグルトが売られている。牛乳瓶に入っているため最初は牛乳だと思った。ラッキー、ぼくは牛乳には目がなかった。日本では毎日1リッターは飲んでいた。中国に入ってからはとんと牛乳にはお目にかかっていなかった。牛乳に飢えていた。ストローを刺されてぐいっと飲んでみるとそれは意外にもヨーグルトだった。大ショックだった。牛乳じゃあない。しかし、牛乳ではないというショックから立ち直って味わい出すとこれはこれでなかなかにいける。うまいやん。その日は札幌の女の子とホテルを出てから、ヨーグルト片手にバスターミナルに向かってぶらぶらと歩いていった。ようやく夜が明けてきましたという頃で、街では食料品などを積んだ自転車や、リアカーがせわしなく走り始めようとしていた。のんびりと朝の西寧の風景を楽しみながら歩いていた。

タールスーはきらびやかな装飾が施されているところがチベット密教と言った感じだったが、どことなくしっとりとした落ちつきを漂わせていた。建物の中は、暗い中に延々とろうそくがともされており、本堂らしきところではそのローソクの薄明かりの中で多くの僧侶が一心に読経していた。日本のお経の響きとはまた違った読経だった。その中を歩いていると突然年とったお坊さんに腕を捕まれた。振り返るとなにか笑顔で話しかけてこられた。何を言われているのか解らないので、取りあえず高校時代に習った真言を返した。高校時代は密教系の高校に行っていて、高野山で合宿したことがあった。チベットの密教はインドの宗教と混じり会いちょっと変わってしまったらしいが、空海の持ち帰った密教こそ正真正銘の本物の密教である。同じ密教同士少しは通じるかな、と思った。お坊さんは嬉しそうにうなずいてぼくの腕を放してくれた。
「ねえ、今のお坊さんなんて言ってたの?」
札幌の女の子に尋ねると、
「う〜ん、言い身体してるね、とか言ってたのかなあ。」
と首を傾げる様がちょっぴり自信なさげだった。

西寧のホテルに戻るとシンガポリアンは今日もだれも見つからなかったと悲しそうにしていた。う〜ん、やばいなあ、取りあえずまた廻ってくるわ。CITSに行くとちょうど明日青海湖方面のツアーに出る人がいてもう2人ぐらいは入れるということだった。彼は本当に探しとったんかいな。どことなく頼りがいのない彼だった。シンガポリアンにそのことを話してさっそく二人ともそのツアーに参加することにした。明日の予定も決まったし、安心してまたもやシシカバブーを食べに出かけた。東京の大学のお兄さんと一緒に食べに行った。さあ、練習練習とせかされて、昨日お兄さんに習った中国語を駆使して今までのような身ぶり手振りではなく、ちゃんと言葉で注文をすることができた。お兄さんも優秀な自分の生徒に満足げであるように見えた。

青海湖

青海湖

夜明け前にホテルに迎えに来たマイクロバスに乗り込んだ。運転手兼ガイドのおじさんはなかなかに気さくそうな人だった。他のホテルを廻って、ヨーグルトを買って、朝焼けっぽい西寧の街を出発していった。同行者は、例のシンガポリアン、深せんから来た同い年の大学生2人、日本の某大学の教授様、福州の大学の先生、30代ぐらいのアメリカの女の人の計6人だった。福州の大学の先生は日本留学時代に教授様の弟子であったということだった。アメリカ人は福州の大学に留学しているそうだった。教授様は母校が現在ぼくの通っている大学と一緒で、奇遇ですねえ、、と親しみを覚えて話しかた。教授からは
「ふ〜ん、学部どこ?」
とそっけない返答が返ってきた。
「水産学部です。」
やや面食らってしまった。
「ふ〜ん、水産学部の学生がどうしてこんな山の中にやってくるの?」
う〜ん、出鼻をくじかれたな。そんなんほっといてくれ。ほな何かい、水産の人間は必ずしも海にいかんなあかんのかい。
「教授こそどうして青海湖に行かれるんですか?湖は水産の縄張りですよ。」
ちょっと背伸びして答えておいたが、教授様はぼくの返答に御機嫌斜めの様だった。教授様は農学部出身だった。

バスは西寧を出ると、先ずタールスーに向かった。昨日タールスーに行ったぼくにとってはちょっとショッキングな出だしだった。でもまあ、一人わがままも言ってられないので何となくぶらぶらとタールスーの中を散策した。タールスーを出ると、街はなくなり、いよいよ高原地帯に入ってきた。途中、日月亭?などのちょっとした観光名所をめぐり、いよいよ青海湖が見えてきた。何やら牧場等を見て廻り、湖の南側の道をひた走った。標高は4000m近いらしいが、道路の向こうには菜の花畑が続いて、その後は木の生えていない山に続いている。右側には湖があり、その上にはちゃんと雲が流れている。う〜ん、海に来ているみたい。北海道の北の方の景色と大差ない様な気がする。標高の高いところって、特別なところのような期待をしていたため、少し拍子抜けしてしまった。その日は青海湖の中程の場所で宿をとることになった。

宿の近くには草原が広がっていた。今日の夕日は草原から見ようと決めた。部屋でのんびりしている内に、外を見ると既に日が暮れかけていた。「しまった、油断した。」あわてて、ダッシュで草原に向かった。しかし、しばらく走ると、息がぜーぜーとしてきた。走りながら、これが空気が薄いということなのか、と実感していた。なんとか日が落ちるまでに草原に着くことができて、草原越しに湖に沈む夕日を見ることができた。しかし、その時にはぜーぜーはーはーとしていて、夕日を楽しむといった感じではなかった。はーはー言いながら、宿までとぼとぼ歩いていき、ついでに湖畔の探索をした。水際にはちょっとした水草が生えていたが、塩湖ではあっても藻類らしきものは見あたらなかった。やっぱり海とは違う。どうも動物相の薄い湖の様に見えた。船着き場では日の沈んだ夕焼けの空をバックに、福州の先生と、アメリカ人が手をつないで湖を眺めていた。アメリカ人の方がずっと年上に見えたが、2人はどうも恋人同士の様だった。2人の出会いは日本だったという。2人の後ろ姿を見ながら、人生、ひとそれぞれだなあと、感じていた。1年後にこの2人から結婚の知らせをもらい、その時、この夕暮れの光景を再び思い出していた。

さて、宿に戻るとみんなで晩御飯を食べに行くことになった。やどの近くのたった一軒の料理屋だった。青海湖特産の魚(多分、黄魚)、とやくの料理だった。みんなで強烈なお酒を「かんぺい(乾杯)」となったが、うっ、と喉に詰まって飲みほしずらかったが、深せんの大学生に、
「かんぺいは飲み干さんにゃあかんよ」
と言われ、あきらめて流し込んだ。黄魚は、鱗が非常に細かい見た感じコイ科の魚の様でおせじにもおいしいとは言えなかった。コイ科故おいしくないのか、料理法がまずいのかは謎だった。個人的には甘露煮ぐらいしか料理法がない様な気がした。やくの肉は牛肉とはほど遠く、これまた同じ牛といえども種の違いを感じさせた。その後何回もかんぺいするはめになったが、元来お酒にあまり強くない体質だったが、大学に入って以来クラブで延々と一気のみされられてきた成果が現れて、すべて喉に流し込むことができた。クラブに入って鍛えられていてよかった、と思ったが、その後みごとに沈没するはめになった。

翌朝目覚めると頭ががんがんと痛かった。二日酔いなのか高所障害なのかわからなかったが、そんなことも言っていられずバスは青海湖一の名所、鳥島に向かって出発した。鳥島に着く頃には頭の痛みも取れていて、今朝の頭痛は二日酔いであったことが判明した。鳥島は島ではないどころか鳥一匹すら見られなかった。最近水位の低下のため鳥島はいつのまにやら鳥岬となってしまったそうだ。チベット高原は今でも隆起しており、その隆起と水位の低下が関係していると言われているということだった。鳥がいないのは今は渡り鳥のシーズンではないと言うことだった。そうか、ここにやってくるのは渡り鳥なのか、遥かチベット高原を越えて旅する渡り鳥ってどこからどこに渡っているのだろう、と疑問に思ったが、運転手さんは知らないらしかった。鳥島を後にすると、茶下湖という、真っ白な塩の堆積した塩湖に到着した。その湖は果てしなく白く、塩の地面の上に飽和食塩水が薄い層を成しているといった感じだった。その日は茶下湖のほとりの村で宿泊することになった。夕食後、夕焼けの中で、宿の外の縁側の様なところで、深せんの大学生2人と雑談していた。周りは子ども達の遊び場らしく、小学生ぐらいから幼稚園生ぐらいの子ども達がわーわーと楽しそうに遊んでいる。日本では最近こんな光景は見ないなあと思いながら眺めていた。青海湖に来てからとても寒い。上海にいたときはとにかく涼しいところに行きたかったが、寒いとなると今度は暑いところが恋しくなってきた。チベットに行こうと思っていたが、西寧で聞いた話では、今、外国人の個人入境は厳しく取り締まられていて、個人入りはほぼ不可能と言うことだった。ツアーに参加すると入れるが、10万円以上するらしい。ちょっと、高すぎる。ちょうど寒くなってきたことだし、ちょっくら下界に下りることにしようかな、と言うと彼らも西寧に戻ったら一気に嘉峪関まで下るというので一緒に行くことになった。

次の日は一路西寧へ向かって走った。途中、行き当たりばったりで菜の花草原の蜂蜜採りや、峠のパオのバター作りに触れながら夕方には西寧の街に到着した。教授の提案で、ツアー中、ここで止めろとかあそこに行けとか、とかくわがままだった僕たちに文句も言わずリクエストを満たしてくれた運転手さんにみんなで夕食をごちそうすることになった。西寧唯一の西洋料理店での夕食だったが、どう味わってもベースは中華であるその料理を運転手さんは喜んで食べてくれた。連日のかんぺいの嵐も過ぎ、ふらふらになりながら皆との別れとなった。


祁連山脈を越えて

次の日は、深せんの2人とバスに乗って祁連山脈を越えて甘粛省の張掖に向かった。切符の手配は全て彼らがやってくれた。祁連山脈の峠越えは結構高い峠を越えるらしく楽しみにしていたが、あいにくずっと雲の中でいったいどこら辺りを走っているのか見当が付かなかった。途中4700mの峠を越えたらしかったが、いつ峠を越えたのかも解らなくがっかりしてしまった。たまに雲の上にでると雪を頂いた高い山が姿を見せ、チベットへ行きたいという気持ちが押さえがたくなった。張掖は一般的な中国のまちらしく灰色の街だった。これといった特徴は感じられなかった。列車の出発は夜中なので、それまで駅前の宿で眠ることにした。外国人の泊まる宿ではないので、ぼくはしゃべってはいけないと言われた。何から何まで彼らがやってくれる。とっても親切で彼らといると楽しいのだけれども、こう何でもかんでもやってもらっていると自分で旅をしているという感じがなくなってくる。自分で歩いている気がしなくなってきた。彼らとは別れなければならないと思った。

列車の切符は吐魯番行きにしてもらった。列車は席が空いてなく、トイレの前に紙をひいて座っていた。寝転がろうかとも思ったが隣のトイレの汚い現状を考えるとそういう気にもならない。外はひたすらゴビタンの荒野だった。ごろごろとした白っぽい石ころが地平線まで続いていて、その向こうには雪を頂いた山々が連なっていた。嘉峪関で深せんの彼らは降りていった。一緒に旅を続けようよと誘われたが、一人で旅がしたい理由を話すと納得してくれた。途中から乗ってきた白い髭をはやしたおじいさんがぼくの向かいに腰を下ろした。頭にはウイグル帽子を被っている。始めてみるウイグル人だった。おじいさんはなんか変な植物の種のようなものとか葉っぱとかを紙に巻き始めた。タバコのようだった。興味深く見ていると、吸うか?と誘われた。タバコはほとんど吸ったことがなかったので、断ったが、フィルター無しのぶっといタバコはかなり強烈に違いなかった。おじいさんは実においしそうにタバコをふかしていた。

吐魯番

吐魯番には夕方遅くに到着した。あこがれのシルクロードだった。幼い頃ヘディンのさまよえる湖を読んで感動したことがあったが、まさにそのタクラマカン砂漠の縁に到着したのだった。吐魯番は海抜以下に位置している街で、2日で標高にして5000m程を移動したことになる。そう考えると妙に空気が濃いような気になる。目一杯深呼吸して吐魯番の街を歩いた。ためしに走ってみたがぜんぜん大丈夫、さすが海より下、と感心していた。その日の宿は20人ぐらいの大部屋だった。周りの人に「始めまして」と挨拶している内に、次の日の吐魯番周辺のツアーに参加することになった。

その後、同じ部屋の人達数人と一緒に晩御飯を食べに行くことになった。バザールに行って、右手に生温いウイグルビールを持ち、左手にはやはりシシカバ、おいしくておいしくて「天国や〜」といった気分だった。心はうきうきしていた。


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