相合傘

勢川びき
1999年2月

 細い山道である。鮮やかな紅い花をつけた梅の枝でメジロの番いが戯れている。青い空を背景に、とても美しい。


 その山道を輝男と民子はお互いに少し距離を開けて無言のまま歩いている。輝男は時々民子の表情伺うが、民子はわざと視線を外して山道脇の風景に常に目をやっている。

 輝男と民子は高校時代の同級生で、結婚してちょうど昨日で十年が経っていた。その記念すべき十年目の結婚記念日の昨日、正確には昨日から今日にかけての深夜に、輝男の浮気がばれ、それ以来民子は輝男に口をきいてくれない状態が続いていた。輝男にとっては、民子は出き過ぎた妻で、中々頭が上がらない。だから(と言うのも言い訳になるとは分かっているが)少し抜けたような女を外に作ってしまう。これまでに三回浮気をしたが、見事に全て民子にばれてしまった。輝男にとって民子は本当に大事な存在だが、なにもかもお見通しのところが、時々息苦しくなってしまう。
 昨夜の状態から、なんとか抜け出そうと、輝男は「どうだ、天気もいいし、久々に軽い山歩きでもしないか」と言って、民子を連れ出した。行き先は、結婚前によく一緒に歩いた実家近くの山である。

 「民子---」
 輝男は沈黙に耐えられなくなり、話す内容は考えないまま民子に話しかけた。
 「あ」
 民子が軽く声をあげ、道端に生えている木に近寄っていった。そして、幹を指差して、つぶやいた。
 「『テル』だって。あなたも高校時代は、こう呼ばれていたわね」
 幹にはナイフで落書きした相合傘が刻んであり、「テル」と「マキ」という名前が書かれていた。かなり古い。輝男は、なんでも話すきっかけができればいい、という感じで、民子に話しかけた。「本当だ。でも、木にこんなことしちゃいけないよな」
 しかし、民子は全く反応せずに、すたすたと先に足を運び出した。輝男は仕方なくその後を追った。

 またしばらく無言のまま二人は歩いた。
 「あ、また」
 民子がまた木に近づく。
 「今度は漢字で書いてあるわ。あなたと同じ名前ね」
 幹には「輝男」と「恵子」の相合傘があった。「本当だ、さっきの『テル』は、この『輝男』かもな、同じっぽい筆跡だし」と話しかけようとする輝男を無視して、民子は早足で先を急いだ。

 長い沈黙の時間が再び続き、この名も無い山の標高の三分の二くらいの所まで二人はいつのまにか辿りついていた。
 「民子、ちょっと休憩しよう。さすがに少し疲れた。君は元気だなあ、本当に」
 輝男は山道脇の自然石に腰を下ろした。民子も無言のままだが輝男に続いて同じ石に腰を下ろした。民子は元気な訳である。昨夜の修羅場の後に、すぐ、何もなかったように静かな寝息を立てていた。輝男は殆ど眠れなかった。こういうところも輝男が民子に勝てない部分である。
 「あ」
 今度は輝男が声をあげた。二人が座っている石の正面にある木の幹に「山上輝男」「深海玲子」という完全なフルネームでの相合傘が刻まれていた。
 「ま、参ったなあ、全く僕と同じ名前か、こいつは」輝男は困惑した表情で呟いた。この相合傘も相当古いようだ。
 「本人じゃないの?」
 そう言って民子は立ち上がり、少し勾配がきつくなってきた道を歩き出した。

 輝男は民子の後を追いながら、『よし、ここまではうまくいっているぞ。後は最後の仕上げだ』と心の中で呟いていた。
 昨夜の浮気発覚事件の後、輝男は床に入ったまま眠れぬ夜を過ごした。民子にいつもコントロールされている、という息苦しさはあるが、民子は輝男にとって掛け買いの無い妻である。なんとか、機嫌を直したい。夜通し考えた挙げ句、朝方になって最高の方法を思いついた。
 高校時代、ガールフレンドを作るたびに実家近くの山に登っては、木の幹に相合傘を書いていたことを思い出したのだ。当時の漫画か何かで、そうすると恋が成就する、ということを知って、純情だった高校生の輝男はある時期それを実行していた。合計で四個の相合傘を刻んだ。その最後が今の妻、民子の名前だった。三度目ではなかったが四度目の正直で恋が成就したことになる。この相合傘の件は民子には言ったことがなかった。単に言うのは恥ずかしかったからである。--- これが使える、と輝男は考えた。

 民子の名前を刻んだ木は、この山の頂上にある。つまり、「民子が最高」と言える。ちょっと気恥ずかしいが、この台詞にはさすがの民子もぐらっときて許してくれるのではないだろうか。その上、この相合傘に書いた輝男の名前にはご丁寧にも実家の住所まで書いたはずだ。間違いなく輝男自身が刻んだことが容易に分かる。「今でも同じ気持ちだ。ここまで三回も別の女性に寄り道してしまったのも本当の民子に出会うためだったんだ」という歯が浮きそうな台詞まで用意した。

 民子はどんどんと先を歩いていた。
 まもなく頂上である。
 輝男と民子の相合傘がある木の上部が目に入ってきた。
 ---- さて、いよいよだ。
 輝男は気持ちの準備をした。
 「あ」
 木が目前に来た時、二人が同時に声をあげた。
 「今度は私の名前だわ。でも---」
 はっきりと「民子」という字は残っていた。
 しかし、あるはずの輝男の名前は木の皮と一緒に削り取られていた。
 削られた跡は真新しい。
 輝男は呆然としばらくその跡を眺めていた。
 ---- やられた。昨日の晩に初めて浮気に気がついたのではなかったのだ。俺がこういう計画を立てることまでお見通しだったのだ。でも、何故この相合傘の存在を民子は知っていたのだ?--- 勝てない。
 輝男は混乱しながら無意識に正座し、頭を地面にこすりつけ、
 「参りました!」と叫んだ。
 民子は少し満足げに微笑んだ。
 これで、後何十年か続く二人の夫婦生活の力関係は完全に確定した。

[おしまい]


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