道徳(どうとく)。小学(しょうがく)1年生向(ねんせいむ)け。
楽(たの)しい人形劇(にんぎょうげき)です。
ざわざわ森(もり)に住(す)んでいる、恐竜(きょうりゅう)の女(おんな)の子(こ)「がんこちゃん」が、いろんな騒動(そうどう)を巻(ま)き起(お)こします。
物語(ものがたり)の舞台(ぶたい)である「ざわざわ森(もり)」は、ワニやヘビが言葉(ことば)をしゃべり、みんなが文化的(ぶんかてき)な暮(く)らしを営(いとな)んでいる素敵(すてき)な世界(せかい)。
しかしながら、残念(ざんねん)なことに、そこに、人間(にんげん)の姿(すがた)を見(み)ることはできません。
お話(はなし)の中(なか)で、
「ずっと昔(むかし)、”ピラピラ”という名前(なまえ)の不思議(ふしぎ)な生物(せいぶつ)が、人間(にんげん)によって乱獲(らんかく)された」
というような説明(せつめい)や、
「だけどもう人間(にんげん)は、いないのよ」
というようなせりふがあったことなどから考(かんが)えると
どうやら、クレイジーキャッツの谷啓以外(たにけいいがい)の人類(じんるい)は、すでに絶滅(ぜつめつ)してしまったものと思(おも)われます。
(谷啓(たにけい)だけは主題歌(しゅだいか)で大活躍(だいかつやく)です)
われわれ、谷啓以外(たにけいいがい)の人間(にんげん)からしてみると、とても悲(かな)しいお話(はなし)です。
ところで、先日(せんじつ)、私(わたし)は、ビデオレンタル店(てん)で、この『ざわざわ森(もり)のがんこちゃん』のガシャポン(ガチャガチャ)を見(み)つけました。
番組(ばんぐみ)のかわいいキャラクターたちが、かわいい景品(けいひん)になっていました。
義務教育(ぎむきょういく)の授業中(じゅぎょうちゅう)に、生徒(せいと)の意志(いし)に関係(かんけい)なく強制的(きょうせいてき)に見(み)せられる「小学(しょうがく)1年生向(ねんせいむ)け」現役教育番組(げんえききょういくばんぐみ)の知名度(ちめいど)を利用(りよう)して、そのキャラクターを使(つか)い、NHK(えぬえいちけい)はちゃっかり商売(しょうばい)していたのでした。
よく考(かんが)えてみると、去年(きょねん)のように、前(まえ)の年(とし)の再放送(さいほうそう)を流(なが)せば、番組(ばんぐみ)の制作費(せいさくひ)は0で、キャラクターの広報(こうほう)ができます。
子供(こども)たちは、学年(がくねん)が変(か)われば別(べつ)の道徳番組(どうとくばんぐみ)に移(うつ)るから、ずっと再放送(さいほうそう)でもなんら問題(もんだい)は起(お)こりません。
その場合(ばあい)、NHK側(えぬえいちけいがわ)は、版権料(はんけんりょう)を、ほとんど純粋(じゅんすい)な利益(りえき)にすることができることでしょう。
さらに、公共放送(こうきょうほうそう)の教育番組(きょういくばんぐみ)である以上(いじょう)は、視聴率(しちょうりつ)を気(き)にする必要(ひつよう)もないので、特(とく)に苦情(くじょう)がなければ、何年(なんねん)でも続(つづ)けることが許(ゆる)されます。
実際(じっさい)、この『ざわざわ森(もり)のがんこちゃん』は今年(ことし)で7年目(ねんめ)を迎(むか)える長寿番組(ちょうじゅばんぐみ)です。
ですから、NHK(えぬえいちけい)は、公共放送(こうきょうほうそう)という立場(たちば)を利用(りよう)して、これから先(さき)も、いついつまでも版権(はんけん)を売(う)り続(つづ)けることができることでしょう。
ガシャポン(ガチャガチャ)を見て、「世(よ)の中(なか)には、まったく堅(かた)いビジネス展開(てんかい)があるものだなあ」と、私(わたし)は深(ふか)く感心(かんしん)ました。
そして、私(わたし)は、感心(かんしん)すると同時(どうじ)にこうも思(おも)いました。
人類(じんるい)を滅亡(めつぼう)に向(む)かわせたものは、人間(にんげん)のそんな欲深(よくぶか)さではないのか、と。
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養護学校・養護学級向け。
正義のヒーロー「ストレッチマン」と、着ぐるみの「まいどん」とがストレッチをしたり、なんだかわからない人たちが遊んだりする。
みなさんは、今年の4月に、このストレッチマン2の番組宣伝が、NHK総合(1〜3チャンネル)でも頻繁に流されていた事実をご存じだろうか?
子供向けの学校放送番組がNHK総合のほうでも宣伝されるのは、きわめて珍しいことだ。
これは、事件と呼んでも差し支えないぐらいのできごとである。
番組宣伝には、ストレッチマンとまいどんにくわえ、スタッフの偉い人(たぶんディレクターだった)までもが登場して大人向けのコメントを披露し、番組を広くアピールすることにつとめていた。
だが、それを最後まで見ても、私の中に芽生えた小さな疑問、すなわち「数ある教育番組の中で、なぜ『ストレッチマン』を宣伝するのか?」という疑問は拭い去られはしなかった。
もちろん、『ストレッチマン』が駄目な番組だというわけでは、決してない。
子供向けということを考慮に入れれば、教育的要素だけでなく、娯楽性にも富んだ、とても良質な番組の一つであるといえる。
しかし。
そう、しかし。
平日の午前中にテレビを見られる環境にあるのは奥様方がほとんどであろう。
どうせNHKの総合で宣伝するのなら、奥様方が見ても、より楽しめるような教育番組を紹介した方がよいのではないのか・・・。
そんなふうに考えていたのだった。
愚かなことに、当時の私は、去年、放送されていた『ストレッチマン』という番組と、今年度から放送されている『ストレッチマン2』という番組を、ほとんど同じもののようにみなしていたのだ。
今、私はしみじみと思う。
『ストレッチマン2』は、『ストレッチマン』とは違う。
『ストレッチマン2』には、子供の心だけでなく、奥様方の心をもがっちりとひきつけるための配慮がある。
だからこそのNHK総合での宣伝だったにちがいないのだ。
私は、おのれの不明を恥じ入るばかりである。
私は言いたい。
見てごらん、大きな袋を手にぶら下げて、ひとりつっ立っている、まいどんの姿を。
これこそがやるときはやる男の姿ではないか。
ああ。。。
ほんとに、彼、モザイクかけないで大丈夫?
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養護学校・養護学級向け。
『いってみようやってみよう』は、養護学校や養護学級の子供たちに、今まで経験したことのなかったもの、今までできなかったことを挑戦させるという、ドキュメント番組である。
この番組では、ゆかちゃんという女性(ゆかちゃん以前は、なっちゃんであったり、さっちゃんであったりした)が、いわゆるお姉さんとして、子供たちを「できる」ように導いていく役割を担当しているのだが、しかし、この役割は、ほとんど不可能なものであろう。
いや、不可能なものであった、と表現するのが正確であろうか。
彼女は、「できない」もしくは「経験したことがない」子供たちを、「できない」もしくは「経験したことがない」という同じ立場、あるいは、それよりも少し劣った立場から提言し、成功へと導かねばならなかったのだ。
彼女が「できなかった」り、「経験したことがなかった」というのは、はっきり言ってしまえば演技である。
だが、子供たちが「できなかった」り、「経験したことがなかった」りするのは、演技ではない。
彼女は、子供たちが「できる」ようになるまでずっと、子供たちと同じ目線で演技し、子供たちと同じ目線で子供たちと接し、自らも子供たち同様「できる」ようにならなければならない。
子供の目線を確保しつつ、かつ並行して、大人の目線で子供たちを適切に指導し、安全を見守らなければならない。
へなちょこを演じて頼もしさを消し去りつつも、実際は頼もしくあらねばならない、という困難な任務を担っているのだ。
だから、撮影が長時間にわたればわたるほど、子供たちにとって事態が困難であればあるほど、仕方のないことだが、当然、彼女のへなちょこモードと頼もしさモードが乖離する機会は増える。
逆に、子供たちにしてみれば、その状況に比例して、テレビ的に「よい表情」をする機会が増える。
この番組のカメラマンは、子供たちの不意の「よい表情」を決して逃さないし、編集する人も「よい表情」を決してカットしない。
この番組の制作者は妥協を許さないのだ。
いきおい、子供たちの表情とともに、彼女の素の表情、素の言動がテレビ画面にそのまま映り込んでしまうことになるのだった。
したがって、この番組における歴代の彼女たちは、アンビバレンツな内面を運命づけられた悲運の存在である。
そして、スタッフが歴代の彼女らに要求していたものは、そのアンビバレンツを超越した人格像、アウフヘーベンした人格像である。
しかし、そのような理想の人格は、おそらく、われわれが生きている現実世界には、ありえない。
もし、そのような人格を持った存在がありうるとすれば、それは人間ではなく、神をおいてほかにない。
言い換えれば、この番組は、人間による神への挑戦だったのである。
だが、近年のゆかちゃんは、以前は泳げないという設定だったのに、いつのまにか泳げるようになっていて泳げない子供たちに泳ぎを教え、また、自らは自転車に乗って自転車に乗れない子供たちに乗り方を教えるというキャラクターに変容してしまった。
「できない」「経験したことがない」というかつてのゆかちゃんの属性は、もっぱら、サルの人形であるポッケ一匹になすりつけてしまった。
私は、そこに、番組制作者のきわめて人間的な、苦い挫折を見るのである。
路線のこのような変更は、はたして、人間が神に敗北したことを意味するか?
人間が神になれないことを意味するか?
神への屈服を意味するか?
だが、しかし、その純朴な問いに、私はまだ答えることはできない。
なぜなら、「いってみようやってみよう」は現在も放映されている番組であるし、なおも神に挑む番組であるからだ。
昨年度の最後の回で一年間を振り返り、そのとき小学生だった子供について「今では中学でがんばっている」という謎の報告を入れてみたり、ポッケに長い髪と睫毛、口紅をつけただけの人形を、ポッケの恋人のポッコというメスにでっち上げてみたり。
われわれは、これらを神の所業と呼ばずして、一体、何と呼べばよいのだ?
番組の制作者が、いつの日にか、総出で、「♪やったやったやったで〜き〜た〜」と踊り出す場面が映し出されるまで、われわれは、この番組から一刻も目を離してはならぬ。
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