このページは三成関連の史跡の写真集です。
手持ちのハードの貧弱さから、画面が粗いのがありますが、追々修正していきますのでご容赦ください。
では、まず関ヶ原関係から・・・・
大垣城
関ヶ原戦の出発点となった大垣城です。現天守は昭和34年に復元されたものですが、オリジナルの天守は、天正16年に完成していますので、三成らが籠城したときも、この4層4階の天守を見上げていたはずです。
大垣城天守です。
笹尾山
関ヶ原笹尾山の三成陣跡です。
街道を押さえ、戦場を俯瞰する良い場所に陣しています。
関ヶ原笹尾山の三成陣所です。
笹尾山は現在、当時を偲ばせる竹矢来などが復元されています。
笹尾山から関ヶ原合戦場を俯瞰したものです。笹尾山の陣としての立地の良さが感じられます。
大谷吉継関連
三成の盟友、大谷吉継関連の史跡です。いずれも主戦場からは藤古川を越え、かなり西に離れた場所にあります。歩いて行かれる方はご注意下さい。特に、吉継の布陣場所は、決戦場からかなり西方に離れています。
ここに行くには若宮大社の裏に廻り、さらに東海道線の線路(踏切無し)を越えねばなりません。線路通過の際はご注意下さい
この陣跡にたつと、大谷吉継が小早川勢の裏切りをいかに警戒していたかが良く分かります。
三成の盟友、大谷吉継の墓です。
苔むした大谷吉継の陣跡の碑です。
松尾山
関ヶ原の勝敗の行方を決定した、小早川秀秋の陣所・松尾山です。
近年、郷土史家の方らの努力により、この松尾山が極めて大規模な城塞であり、三成がこの地で長期籠城を考えていたという考えが示されました。
いわゆる「松尾新城説」であり、従来から言われている「三成は家康によって、関ヶ原に誘き出された。」という通説に大いに相反するものです。
実際に松尾山に登ってみると、秀秋の布陣場所を中心として山中随所に、城郭跡がみられ、「松尾新城説」の物証を見ることができます。
松尾山の秀秋陣跡です。
陣跡にある土塁と虎口(入り口)です。遺構が良く残っています。
土塁と虎口を別の角度から見たものです。
ちょっと分かりにくいかも知れませんが、陣跡付近の山中にある犬走り(城の防御施設の一種)です。松尾山の陣跡付近の山中には随所に、こういう遺構が見られます。
三成が初めて秀吉と出会ったという滋賀県長浜付近の史跡です。
長浜駅前にある、秀吉と三成の「出会いの像」です。
再建された長浜城天守です。
三成と秀吉が出会ったとされる観音寺です。昨夏、地元教育委員会の主催で、この観音寺で三成に関するシンポジウムが開かれました。写真はその際の一こまで、静大教授小和田氏の講演風景です。
「三成にすぎたるもの」と言われた名城佐和山城です。
別の記事「石田三成の城−佐和山城−」も参照してください。
彦根駅付近からみた佐和山の遠望です。
佐和山城本丸跡です。
佐和山に僅か二個だけ残る石垣跡です。
本丸から彦根城を望んだものです。
城に残る井戸「千貫井」(千貫にも代え難い井戸)跡です。今も水をたたえています。
木に埋もれた大手道方面。今は大手から登るのは困難です。
佐和山城登山口にたつ怪しい(?)建物
彦根市内で佐和山城以外の、三成関連史跡です。
龍潭寺にある三成像。
龍潭寺石庭。ここは井伊家の菩提寺であるが、地元人心に配慮し密かに三成も祀っていたという。
龍潭寺に展示されてる三成関係の品の例。
佐和山城の搦め手に位置する、島左近の屋敷跡(清涼寺)です。
三成が攻めた忍城跡にたつ復元三階櫓。中は行田市郷土博物館。
忍城門前にて、Nifty歴史フォーラムのメンバーと。
三成が忍城水攻めの為に築いた「石田堤」あと。
同じく川沿いの堤跡。石田堤は江戸期には治水に利用された。
「石田堤」の碑。
三成が忍城攻め本陣をおいた「さきたま古墳群」。稲荷山鉄剣でも有名。
「さきたま古墳群」まわりには、水攻め当時を思わせる湿地が残っている。
本陣跡から、忍城方面を望む。廻りは全くの平坦地で水攻めの苦労が偲ばれる。
同じく本陣跡から、別の方向を見たもの。古墳群以外にはほとんど地形の起伏がない。
名護屋城あと。
名護屋城本丸から玄界灘を臨む。