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第六話 綾崎若菜 ~莫煩悩~ セミが鳴く夏。 矢が飛ぶ。中心に命中。 二発目。やはり中心に命中。 これを放っているのは、若菜。 「さすが若菜先輩。また会中やわ……」 周りのギャラリーがつぶやく。どうやら弓道部らしい。 「どないしました、綾崎さん……。惨心が乱れてますえ」 老婆が言う。教師であろう。 「はい……」 「容易ではない乱れどすな」 「はい、自覚しております……」 周りが騒がしくなる。両方命中したのに、こんなことを言われたためだ。 達人にしか、分からないのだ。 「今日は、これで早退させて下さい……」 「……認めましょう」 道を歩く若菜を、5人の僧がすれ違う。 「暗」の文字―― 慣れた手つきで抹茶を飲む。 目の前には、祖父が居た。ここは若菜の家。 「……操から聞いた。己自身をよく見つめることだ」 「はい、おじいさま……」 「お前らしくもない。何があった」 「……いえ」 ――私だって、17歳の女の子です―― 次の日。 長い階段を上る若菜。 昨日祖父に必ず何かが開ける言われ、用連山(漢字知りません)天竜寺までやってきたのだった。 寺の周りを掃除中の修行僧達が手を止めた。それもそうだろう。こんな所に女性がやってきたのだから。 しかも美人。 「手がお留守になっていますよ」 和尚に言われ、慌てて掃除を再開する修行僧達。 若菜は、この人物に会いに来たのだった。 「……ご無沙汰しております」 深く頭を下げる若菜。 「して、どうなされた」 「己自身の不完全さに悩んでおります。心に浮かべてはならないものが、浮かんでしまうのです」 「浮かべてはならないものとはなにかな」 「……煩悩です。煩悩は良くないものと知りながら、私はそれに心を乱されているのです」 「ならば、このワシが捨ててきてやろうか」 「……そんなことが出来るのですかっ? 是非、お願いします…」 「よろしい、では、ここに出しなさい」 「えっ……」 「出さねば消すことは出来ぬであろう」 「……出せません」 「はは、有るのに出せぬとは、不思議だとは思わぬか」 「そんな……」 「つまり、煩悩など無い。無いものは消し去ることはできん」 「では、私が悩んでいるのはなんだとおっしゃるのですか?」 「それは、煩悩であろう?」 「煩悩はないとおっしゃいました」 「あると言ったのはワシではない。もともとはあなたではないか」 「あ……」 「何故、煩悩は良くないと思われる?」 「人を、誤らせるからです」 「ほう……」 ある夫婦が離婚したと若菜は言う。 激しい恋愛の末、結ばれたのに、今はもう一緒にはいないという。 「なるほど……。煩悩に惑わされた結果か」 「和尚様、変わらない愛というものはあるのでしょうか? 「愛、か」 「はい」 給水場に急使を出す。年々、停留せず。 急流に投げ込まれた鞠は止まらずに流れる。人の心も又同じ、と和尚は言った。 「では、何故人は人を愛するのでしょうか? 愛がいずれ形を変え、消えてしまうのなら……」 「何故、あなたは息をする? いずれ死ぬというのに」 「呼吸は付随運動であると教えられました。思いによってそうしているわけではありません」 「ふふ、では、あなたは生きているか」 「……生きています。ここに、こうして」 「それは、あなたがそこにそうして生きていると思っているだけではないか? そう思わなければ、あなたはそこに生きてはいない。だから死ぬこともない」 「でも、先ほどはいつか死ぬと…」 「生きていると思えば、必ず死ぬと言うことだ。あると思ったものは、いつか、無くなる」 「無くならないものは無いのですか……?」 「あなたがあると思うからには、いずれ、無くなる」 「今、私があると思っている愛も……」 「あると思っているなら、無くなることだろう」 「それなら、人が人を愛するのは何故なのですか……?」 「……ついてきなさい」 「あっ……」 我に返る若菜。 寺の池まで来て、池に写る自分と若菜の姿を見て和尚は言った。 「ほれそこに、あっただろう。愛が」 言って笑った。 「あなたが今見ているワシは、誰だと思う?」 「天竜寺の、衒学和尚様です……」 「いいや、ワシは今、綾崎若菜だ」 ハッとする若菜。意味が分かっていない様子だ。 「あなたが見ている間だけ、ワシはあなたになる。そしてその究極が、いわゆる愛」 言って笑う和尚。 「人が人を愛する、それは何より、自分を愛するということだ」 「そんな……」 「違うかな?」 「自分を愛するために、人を愛するのなら、それは自己愛なのではありませんか?」 「だとしたら?」 「自分のために人を愛するなど、愚かなことだと思います」 「ほう……」 「少なくとも、仏様から見たら、愚かなことではありませんか……?」 「さあ、どうかな……」 「祖父からも、他人のためを思って生きろと言われてきました」 「あいつもたまにはいいことを……。あ、イヤ、失礼……」 「だったら、やはり自分のために人を愛することなど、間違いだと思います」 「どうやら、あなたの中の御仏は、まだ眠っておられるようだ」 「えっ……?」 「街へ出よう」 「え?」 「行もまた善、座もまた善、いついかなる時も善よ」 竹林を歩く若菜と和尚。 そこを、昨日すれ違った僧が、またすれ違った。 また「暗」の文字。 クレープを買う和尚。それを見た若菜は驚きを隠せない様子だった。 周りの人々も笑っている。 「あなたは、イチゴとチョコ、どちらがお好きですかな?」 川の縁を歩く若菜と和尚。 「どうした、いささかイメージとあわぬかな?」 「いえ……」 「ここにいるのは、クレープを食べる和尚と思っているだろう?」 「違いますか……?」 「それは、あなたの思いが作り上げたものだ」 「でも……」 「強いて言えば、ある存在がある存在を取り込んだ、とは言えるかもしれんがな。あなたが思うから、イメージに合わないワシが生まれる。悩みもそれと同じことだ。今、こうしてあなたとここにいるワシ。傍目から見れば、女子高生と昼真っからデートをする、ナマウサ坊主に見えなくもない」 「そんな……」 「誰かがそう思うのもまた、煩悩のなせるわざと言うことだ。無いことがあるように見える。無いこともあるように見える」 立ち止まりクレープを一口、ほおばる和尚。 若菜も、黙ったままクレープを口にした。 ある茶屋。 「和尚様のおっしゃりたいことが、何となく分かりました……」 「ほう……」 「煩悩は無くなるものではない。それを全て理解した上で、寄せ付けない精神力を身につけなくてはならない」 「そう思ったか」 「はい…」 「ならば、そういうことだ」 「ごちそうさまでした……」 そう言い、若菜は茶屋から立ち去っていった。 その姿を、和尚は沈痛な面持ちで見つめていた―― またある日。 矢を打つ。命中。 打っているのはやはり若菜。 二発目。 その時。 ――手を―― 「……!!」 心がかき乱される。 ――手をつないでもいいですか―― やは、的とは全然違うところに当たった。 愕然とする若菜。 いつもすれ違う僧。 その胸には「明暗子」と書かれていた―― -CM- 小学校6年生の春。回想 お寺の納屋の中からすすり泣く声。若菜だ。 若菜は祖父に一晩そこで反省しているよう命じられたのだった。 「……おじいさま……ごめんなさい……ごめんなさい……」 その時頭上からロープが降りてきた。 思わず若菜が窓の方を見上げると、そこには少年の姿が。 ロープをつたって若菜の方へ降りてくる。 「ごめんね…。もっと、早く来るつもりだったんだけど…」 それを見た若菜は思わず少年に走りより、抱きつくのだった。 「…若菜ちゃん……」 「恐かった……。暗くて…一人で……」 すすり泣きながら若菜は言う。 「もう、大丈夫だよ……」 背中に手を回し、少年は若菜をゆっくり抱きしめる。 (……どうして……なんか、ドキドキする……。なんで…なんで……) 若菜は目を覚ました。 昨日のことを思い出す。 「和尚さま……。煩悩と愛を、どうしたら見分けられるのでしょう……?」 「何故、見分けたいのかな?」 「愛を信じたいからです…。そして、愛でないものを信じたくないからです……」 「あなたは、離婚した二人は、煩悩で結ばれたと言われた。しかし、必ずしもそうであるとは言いきれぬぞ?」 「では、あの二人にも愛があったとおっしゃるのですか…? 確かに愛があったとしたら、その愛は何処へ行ったのでしょう…? 愛がそれだけのものならば、そんなものに私は心を乱されたくはありません」 「愛は何処へも逝かん。愛は何処にでもある」 「そんな……。愛が無くなったから、二人は離婚したのではないのですか…?」 「そうとも言えるがな」 いい、和尚は大笑いした。 若菜は、寺を出て怒りと悩みの入り交じったような表情で駆けていった。 綾崎家。 布団から出た若菜は、仲良さそうにしている自分の両親を影から見つめていた。 すると、ちょうど祖母が家に帰ってきたところだった。 いつもの茶の間。 若菜は祖母に話をしてみることにした。 「お父様とお母様は、お見合いで結婚されたんですよね」 「そうえ。二人とも何にもおしゃべりせんでな」 「…惑わされず、少しずつ愛を育てて今があるんですよね……」 若菜は小さな声でつぶやく。 「ん?」 「おじいさまとおばあさまも、そうですよね……」 「若菜…」 心配そうに祖母は若菜を凝視した。 ――私は…唇を…重ねてみたいんです―― 次の日。 若菜はまた天竜寺の住職のもとへ赴いていた。 川のせせらぐ音が聞こえる。 「心頭滅却すれば、という言葉をご存じかな?」 「心頭滅却すれば、火も又涼し……」 「いや、正しくは、火、自ずから涼し、という」 「初めて聞きました」 「心乱すことなければ、火は熱い火のそのままに涼しい、とでも言おうか」 「暑いのに、涼しいのですか?」 「暑いのに、ではない。暑いこと、そのものが涼しいのだ」 「暑いことが、涼しいのですか?」 「暑いのものは暑い。決して涼しくはない。だが、そこに、涼しさを見出すことはできる」 沈黙。 「……ワシの友人の話をしようか」 「はい」 1枚のモノクロ写真。そこには真ん中にで椅子に座る女性と、その両脇に学生服を着て立つ男の姿が。 「その男は、ある娘にいたく惹かれておった。娘も、その男に好意を持っておった。ところが、苦しき因縁とはこのことか。男の幼い頃からの親友も、この娘に惹かれてしまった……。男は娘に、『必ず幸せにしてみせる』と誓った。親友は、娘に、『先のことなど分からない』と言った。『今お前を愛している、それだけだ』と。結論を言えば、娘はその親友を選んだ。そんな親友を、あなたはどう思うかな?」 「……煩悩のために友情を捨てた、ひどい人だと思います」 「ふふふ、しかしな、その男とその親友との友情は、今でも続いておるのだ」 その言葉に驚きを隠せない若菜。 「どうしてですか……!?」 「娘を愛する、己自身。自己の違いだ」 「自己の違い……?」 川から鳥が2、3羽飛び立つ。 「その男は、『必ず幸せにする』と言った。だが実は、それ程無責任な言葉はないのだ」 「そんなこと……」 「考えてもみろ。明日のことが分かるか? いや、5分先、1分先に何が起こるか、誰にも分かりはしない」 「そうかも知れませんが……」 「その男の心には、娘を愛する自我が現れておるのだ」 「自我……」 「対して親友はどうか。ただ、真実のみをぶつけておる。ありのままの自己を素直にぶつけたのだ」 「自己……」 「それは、エゴとセルフとでも言い換えられよう」 「エゴと、セルフ……」 「エゴは、自分が中心の思いだ。自分があり、その周りに他者がある。対するセルフには、中心はない。自分があり、他者があり、時にはそれが重なり、時には離れもする。そしてそれこそが、人間の本来持つ仏の魂であり、極めて純粋な精神なのだ」 「そう、なのかも知れません……でも」 「確かに形から見れば、親友のしたことは、いわば、略奪愛だ。しかしそれとて、人間の考え出した概念でしかない」 「あ……」 「その男を知らずその親友と娘だけを見た者にとっては、美しい純愛ではないか。……確かに、あったと言えるものは、親友の娘に対する、熱烈なる想いと、娘のそれに答える想いのみ」 「その二人はどうなったのですか……?」 「以来52年間、争うことなく寄り添い、生きておる」 「その愛は、永遠だったのですね……」 「それは正しいが、間違いでもある」 「え……?」 「愛は絶えず生まれ変わるもの。生まれた愛は、その時だけ輝くのだ。その意味では、永遠でなく、また、永遠であるとも言える。……離婚したという二人の愛も、今なお無くなることはない。それはそれで、真実だったのだ」 「そうか……」 「あなたの中の愛もまた、永遠であって、永遠ではない。とらわれずに、ただ大切にして、自然のままに進むがよい…」 大きな橋。 「ここで座って話をしようか」 「ここで、ですか……?」 「はははは、冗談よ。だが、あなたの心は、今の戸惑いにはっきりと現れておる」 「私の、心が……」 「この橋の上で、その昔、大徳寺の僧、ダイトウコクシ(漢字知りません)が座禅を組み、行き来する人に揺すられる心と戦ったことがあった。そして、その動揺がおさまり、その気持ちを歌にした。『座禅せば 四条五条の橋の上 行き来の人を みあまぎにみて』。どうだ、あなたの想いと、重なるだろう」 「私の想いと……」 「これを詠んだダイトウコクシは、しかし己の未熟に気付いた。何故なら、行き来の人を身雨木(漢字知りません)とみなす無理があるからだ。かくて再び、五条の橋の上で鍛練を重ね、ついにこの歌の境地に至った。『座禅せば 四条五条の橋の上 行き来の人を そのままにみて』」 「そのままに見て……」 「お分かりかな? 橋の上を行く人は、あくまで人。それを認めながら、少しも、心動かされることのない心が大切なのだ。絶えることのない人の流れと同じように、人の心から、煩悩が無くなることもない……」 あの僧達が鐘を鳴らしながら通り過ぎる。 「それも、そのままに見て……」 ハッとなって若菜は住職を見た。 「和尚様っ!」 若菜は笑った。ついに理解したのだった。それを見た住職も笑みを返す。 「明暗」の文字。 「うむ……。煩悩は、良いとか悪いとか言うものではない。強いて言えば、あるものなのだ。良いか悪いかは、それをどう捉え、どう生きるかによって変わる。迷った瞬間、煩悩は見え、悟った瞬間、煩悩は見えなくなる。それでいいのだ。そして人間は、煩悩があるからこそ成長し、発展することが出来る。その思い出の中の少年が、あなたにそれを教えてくれたのだ」 「有り難うございました……」 嬉しそうな顔で若菜は言った。 (そして……あなたにも、有り難う……) 大勢の観光客が目の前を通り過ぎる茶店。 若菜と住職は二人で屑切りを食べていた。 その姿を観光客が物珍しそうに見ながら歩いていく。 「和尚様、私達、デートしてるみたいでしょうか……?」 「真実は一つ、このくず切りが、旨いということだ」 「悟りましたねっ」 思わずむせる住職。笑う若菜。 「修行の終わりに、一つ聞いてもいいですか?」 「なにかな?」 「例の、恋に破れたというあの男の方は、今はどうしているのですか? 幸せになられたのですか?」 和尚は虚空を見つめた。 「恐らく、幸せだろう……。なんといっても、その後仏門に入り、その後、親友の孫と、最高のくず切りを食べておるのだからな……」 そう言って、住職はまたくず切りを口に運んだ。 住職の大笑いが、辺りに響きわたった―― -EDテーマ- |